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新外交イニシアティブ(ND)の取り組みと琉球救国運動

 「新外交イニシティブ(ND)」をご存知であろうか。

 NDとは、鳥越俊太郎氏(ジャーナリスト)、藤原帰一氏(東京大学教授)、マイク・モチヅキ氏(ジョージ・ワシントン大学教授)、山口二郎氏(法政大学教授)、柳澤協二氏(元内閣官房副長官補、元防衛庁官房長)、屋良朝博氏(元沖縄タイムス論説委員)を評議員とし、在日米軍基地問題や核とエネルギー問題、あるいは朝鮮半島問題などをテーマに、日本と東アジア各国の外交・政治について活発に情報発信・政策提言をしているシンクタンクである。

 特に在日米軍基地問題についてNDは本年2月、報告書『今こそ辺野古に代わる選択を-NDからの提言―』を発表し、普天間飛行場閉鎖・辺野古新基地建設について、具体的かつ政策的に実現可能な方法で普天間飛行場の閉鎖と辺野古以外の選択肢を明らかにしている。そこでは沖縄に駐留する第3海兵遠征師団・第31海兵遠征部隊(31MEU)の実情と米軍再編計画を読み直し、31MEUの拠点を沖縄以外へ移転、日米JOINT MEU for HA/DR(人道支援・災害救助)の常設、日米JOINT MEU for HA/DRの運用を支援するため日本による高速船の提供などの提言がなされている。

 これらの提言を実現するため、NDはワシントンを訪れロビー活動を展開している。少しずつ議員にアプローチしているものの、「ワシントンの壁」も存在するようだ。NDのロビー活動についてND評議員・屋良氏は次のように記す。

 今回もNDの猿田事務局長とスタッフは精力的に動き、20以上の議員居室でスタッフに政策提言をセールスして回った。この中で、民主党の人権派下院議員が直接面談に応じ、ほんの15分だったが沖縄問題に耳を貸してくれた。

 辺野古の海を埋め立てることの愚かさ、沖縄問題を放置することの政治的リスクを一気に猿田氏がまくし立てた。うなずきながら聞いていた議員は「沖縄の問題は理解している」と語った。続けて、「米軍へ施設を提供するのは日本政府であり、問題を処理する当事者は日本である」とすでに準備していたかのような定型の答えを返した。別の議員事務所では女性の政策スタッフが「あなたたちが行くべきは東京でしょ」と冷淡に言い放った。

 沖縄県知事や県議会、市民団体は何度もワシントンで要請行動を繰り返すが、この施設提供義務を盾にした米側のブロックに阻まれている。よしんば理解を得られたとしても、議員に「私に何ができますか」と問われると、具体策を提示できない場合もままあった。

 沖縄は国内問題だという指摘に対して筆者はこう切り返した。「日米安保条約上、施設提供義務者はおっしゃる通り日本です。他方、米軍の部隊配置を決めるのは米国政府です。海兵隊の展開方法を少し見直すだけで辺野古の海を救い、沖縄の多くの問題を解消させ、日米間の政治リスクを低減させるプランがここにある」とNDの政策提言をアピールした。

(沖縄タイムス 2017年7月24日)

 「日米安保条約上、施設提供義務者はおっしゃる通り日本です。他方、米軍の部隊配置を決めるのは米国政府です。海兵隊の展開方法を少し見直すだけで辺野古の海を救い、沖縄の多くの問題を解消させ、日米間の政治リスクを低減させるプランがここにある」との屋良氏の言葉は、考えさせられる。NDは報告書でも辺野古への固執は日米関係のリスクであり、海兵隊の沖縄駐留は米国の戦略上の利益にもならないとしており、施設提供義務者としての日本のみならず、提供される側の米国が「これでいいのか」と気づき、辺野古新基地建設・海兵隊沖縄駐留について再考することが問題解決の大きな一歩になることは想像に難くない。

 6月には基地建設反対運動において拘束・長期勾留された平和運動活動家が、その不当性を訴えてジュネーブの国連人権理事会で声明を発表するといった出来事もあった。海を渡り「正しいこと」を堂々と主張する人々に敬意を表するものである。

  明治12年の沖縄県設置など明治政府による琉球国併合(いわゆる「琉球処分」)の過程において、王府の士族たちは海を渡り清国に亡命し、琉球救国の請願を行うという、琉球救国運動(いわゆる「脱清運動」、「琉球処分反対運動」)を展開した。結果をいえば、琉球救国運動は失敗に終わった。琉球救国運動は、琉球の広範な民衆からの支持を集められず、同じ士族層すら結集させることはできなかった。さらに清国に亡命した士族たちは明治政府によって「脱清人」などと蔑称され、「彼等猶ホ恋旧ノ迷夢ニ彷徨シ、恣マヽニ清国ニ往来シテ、吾政府ヲ誣告シ、其国ニ帰ルヤ、誇張附会シテ清廷ヲ賞賛シ」たなどと非難されてしまう。

 しかし琉球救国運動がまったく無意味であったわけではなく、局所的で取るに足らない運動であったわけでもない。明治初頭より清国に亡命した琉球人、あるいは清国から琉球へ帰還した琉球人は数百名もの数に上り、亡命士族は北京や天津に拠点を築き、李鴻章など清国要職と交渉を行うなどした。さらには欧米諸国への呼びかけもおこない、本土でも一定の注目を集めた。

 琉球救国運動は自立した琉球の国家的・民族的な存亡に関わる問題であり、士族の「琉球」的民族意識や自己意識とも深く関わる重要な歴史的出来事といえる。士族的特権の維持や王府の政治体制の悲惨な現状と塗炭の苦しみにあった琉球民衆の存在など、琉球救国運動には様々な批判的視点も必要であるが、さらなる評価があってもよいだろう。

 NDの取り組みや国連での沖縄における人権問題の訴えと琉球救国運動を安易に結び付けるわけではないが、海を越えて外国に渡り、直接的に「理」をもって「非」を正すこと、そして「沖縄のアイデンティティ」に着目する点は、似ているともいえる。琉球の先人の思想と行動に学びたい。

(画像:米国会議員秘書に基地問題を訴える屋良氏、猿田氏 沖縄タイムスプラス2017.7.24 6:00より)