1923年9月1日に発生した関東大震災より94周年を間近に控え、震災直後の9月3日に惹起された中国人虐殺事件「東大島町事件」の現場(東京都江東区大島8丁目)を訪れ、慰霊・鎮魂の祈りを捧げました。
震災直後に発生した「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「社会主義者が革命を企てている」などの流言飛語により、多数の朝鮮半島出身者や社会主義者が軍や警察そして民間人・自警団により虐殺されましたが、中国人も多数虐殺されました。
東大島町事件とは、震災直後、この付近に住んでいた中国人労働者の宿舎に軍や警察や民間人が押し寄せ、中国人を外に出した上で虐殺したというものです。事件の背景には、日本人のなかにあった中国人労働者への蔑視や、中国人労働者を斡旋する手配師たちによる労働者の整理があったともいわれています。その他にも、中国人留学生・王希天が警察により拘束された後、軍により虐殺される「王希天事件」なども発生しました。
天才的な文学者・民俗学者である折口信夫は、関東大震災発生直後に第2回沖縄採訪を終え横浜港に帰港しますが、帰路、自警団の尋問に合いました。折口はその時のことを、
「道々酸鼻な、残虐な色色の姿を見る目を掩ふ間がなかった。歩きとほして、品川から芝橋へかゝつたのが黄昏で、其からは焼け野だ。自警団の咎めが厳重で、人間の凄ましさ・あさましさを痛感した。」(折口信夫「砂けぶり」自註)
と述べています。さらにその後の日本人による外国人虐殺の悲しみを「砂けぶり 二」という詩に綴りました。
砂けぶり 二
両国の上で、水の色を見よう。
せめてもの やすらひに―。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ
…
横浜からあるいて 来ました。
疲れきつたからだです―。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい 気がします
…
夜になつた―。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町で 金棒ひいて
夜警に出掛けようか
井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々―。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめ だらう
かはゆい子どもが―
大道で しばいて居たつけ―。
あの音―。
帰順民のむくろの―。
…
おん身らは 誰をころしたと思ふ。
かの尊い 御名において―。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい
この詩から、折口による日本人そして人間の残虐さの告発を読み取ることができます。
現代は世界的に歴史修正主義が吹き荒れ、それは日本も例外ではありませんが、国を思い、愛すればこそ、自国の歴史の負の部分から目を背けず、これを引き受ける必要があるのではないでしょうか。
関東大震災における流言飛語と虐殺事件については、内閣府中央防災会議の報告書が簡潔かつ要領よくまとめている他、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜころされたか』青木書店、西崎雅夫『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』現代書館、 田中正敬「関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」(『大原社会問題研究所雑誌』 669号)など、多数の著書や研究論文があります。