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平成29年10月7日 花瑛塾第11次沖縄派遣団

花瑛塾第11次沖縄派遣団は7日午前、アメリカ軍核ミサイル「メースB」発射基地跡地(現:創価学会沖縄研修道場、沖縄県恩納村)を見学しました。

戦後、アメリカ軍は恩納村の核ミサイル「メースB」発射基地をはじめ、沖縄に大量の核兵器を配備しました。その数は最大で1300発ともいわれています。当初、アメリカ軍は伊江島で核爆弾の投下訓練を開始し、さらに本土に配備する計画であった核ミサイル「オネスト・ジョン」を沖縄に配備しました。その上でソ連による沖縄への核攻撃を防ぐため、さらに多数の迎撃用の核ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」を配備し、60年代以降には広島型原爆の70倍もの威力の核弾頭を搭載した核ミサイル「メースB」を配備するなど、沖縄を「核の島」としていきました。

アメリカ軍の沖縄への核配備は沖縄県民には知らされておらず、被爆国日本にとってあってはならないことです。さらにソ連の沖縄への核攻撃をアメリカ軍が恐れたように、沖縄への核配備は沖縄が核攻撃を受ける可能性を高め、何らかの事故によって放射能汚染などの被害をもたらすこともありえます。NHKの取材によれば、実際に核弾頭を搭載した核ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」が暴発する事故が発生し、キューバ危機の際には「メースB」発射基地は「デフコン2」といわれる核戦争の臨戦態勢にあったそうです。

こうしたアメリカ軍の沖縄への核配備について、日本政府はそれを容認しました。60年安保において日米は「事前協議」というかたちで日本へアメリカが持ち込む兵器について事前に協議を行う必要がありましたが、日本政府は沖縄をその対象に含めず黙認したのです。そして沖縄返還以降も有事の際には沖縄に核を持ち込むことを許す核密約をアメリカと結びました。

その後、RYCOM ANTHROPOLOGY(沖縄市)にて「A day in the life of Ryukyu 或る日の私のおきなわ」50人合同写真展を鑑賞しました。

1969年、アメリカ軍が知花弾薬庫に配備した毒ガスが漏れ、多数の負傷者が出ました。核兵器同様、アメリカ軍の沖縄への毒ガス配備は沖縄県民には知らされておらず、大規模な抗議運動が発生しました。

写真展では、こうした毒ガスをアメリカ軍が撤去・移送する「レッドハット作戦」や沖縄の特定希少生物、あるいは沖縄の祭や渡名喜島の美容室まで、50人の写真家による幅広い題材の写真が展示され、沖縄の魅力や歴史に触れることができました。

午後、海洋文化館(本部町)を訪れました。

同館は1975年に開催された海洋博覧会の跡地・海洋博公園に立ち、人々が島々をどのように移り住み、沖縄をはじめ島々がどう発展したかを言語、音楽、衣服、食、伝承、文化などの観点から展示していました。

プラネタリウムでは、沖縄と深い関わりのある北極星(にぬふぁぶし)や石垣民話「月の大男」などを学びました。同公園には有名な美ら海水族館などもあります。

夕方、シュワブ・ゲート前(名護市)で行われているピースキャンドルに参加しました。

この活動は毎週土曜日午後6時30分から7時まで地域住民家族5.6人により13年も続けられています。「大浦湾を守りましょう」「辺野古新基地建設に反対しましょう」などと行き交う車に手を振り、呼びかけ続ける姿に感銘を受けました。