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平成29年10月9日 花瑛塾第11次沖縄派遣団

花瑛塾第11次沖縄派遣団は9日、沖縄戦の最激戦の1つ「シュガーローフの戦い(安里52高地の攻防戦)」戦場跡(那覇市)を見学しました。

1945年4月1日に沖縄本島中部・比謝川河口を中心に上陸し北進した米軍は、本部半島を中心に日本軍第32軍の一部部隊と激しく交戦したものの、瞬く間に本島北部を制圧しました。

しかし首里の司令部攻略を主目標とした米軍の南進作戦では、第32軍が主戦場と定め周到な準備をしており、シュガーローフの戦いを含め激しい戦闘が展開され、宜野湾から首里の司令部までわずか数キロの戦場において、40日もの死闘が繰り広げられました。

「シュガーローフの戦い」戦場跡の高台は、現在のゆいレールおもろまち駅西側一帯、なかでも安里配水池公園付近がそれにあたります。戦前はこの地から慶良間諸島を眺めることができるため、「慶良間チージ」などと呼ばれていたそうです。沖縄戦では日本軍はこのあたりを「安里52高地」と呼称し、米軍は「シュガーローフ」と呼称していました。

5月12日から始まったシュガーローフの戦いは18日まで続き、日米ともに安里52高地の確保と奪還を幾度も繰り返し、数千人が戦死しました。また米兵の精神疾患もこの頃より多く発症しはじめました。

こうした沖縄戦において忘れてはならないのは、防衛隊や学徒隊として動員された民間人、なかでも少年少女たちです。彼ら彼女たちは消火作業や食糧増産に従事するといわれていましたが、実際には戦闘部隊の一員として従軍し、戦闘に巻き込まれていきました。また民間人を戦闘に加わらせたため、米軍も戦闘員と非戦闘員を峻別せず、無差別的な攻撃を行いはじめました。シュガーローフの戦いにおいても、避難する民間人を米軍が銃撃する記録映像が残されています。

なお、戦後、戦場跡一帯は牧港住宅地区として米軍基地となりましたが、1987年に返還されて以降、現在は那覇新都心として再開発が進み、大型ショッピングモールなどが立ち並び、当時の面影はありません。