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新嘗祭と天照大神の御教え

 明日23日は、宮中および全国各神社で新嘗祭が行われる。新嘗祭は1年の豊穣を予祝する2月の祈年祭と対をなす農耕祭祀であり、収穫祭の一つと考えられます。中国における「嘗祭」が秋における稲の祭儀であるように、新嘗祭は日本の代表的な稲作儀礼であり、その起源は稲作の開始とともにあったと考えられます。さらに、『日本書紀』にも「天照大神の新嘗しめす時」「新嘗の月に当りて、宴会の日を以て、酒を内外命婦等に賜ふ」などとあります。

 もともとは11月の下卯日を祭日としていましたが(三卯あれば中卯日)、明治6年の新暦採用により23日と定められました。新嘗祭では、宮中神嘉殿内に神座・御座を設け、宵・暁と2度、天皇陛下みずから天照大神そして天神地祇に神膳をお供えします。ちなみに、天皇即位後の一世一度の新嘗祭は「大嘗祭」といわれ、天皇みずから天照大神・天神地祇に神膳をお供えするとともに、五穀豊穣と国家国民の安泰、そして災害の予防と国土の安全を神々に起請します。「防災」が天皇即位の一世一度の起請であることは、現代においても重要な意味を持つものでしょう。

 伊勢神宮では10月15日より大切な収穫祭である神嘗祭が執行されます。幕末の国学者・鈴木重胤(1812~63)は、平安時代に編纂された「延喜式祝詞」における祈年祭詞を分析し、この神嘗祭と新嘗祭の連動を指摘したといわれています。先学の指摘によると、重胤は「祈年祭詞」における「荷前者。皇太御神能大前爾。如横山打積置氐、残乎波平聞看。」を典拠に、伊勢神宮の神嘗祭と宮中の新嘗祭の連動した神祇祭祀であることを指摘し、さらに『日本書紀』に見える三大神勅の一つ「吾が高天原の所御す斎庭の稲穂を以て、亦吾が兒に御せまつるべし。」との「斎庭之穂の神勅」をもって、論拠を明確にしたとします。

 つまり、皇祖神は皇孫に神物たる稲穂を授け(「斎庭之穂の神勅」)、皇孫はそれを人民に勧農し、人民はその収穫を貢物として皇孫に納め、皇孫はそれを皇祖神に捧げ(神嘗祭)、また自ら聞食し(新嘗祭)、人民も賜る(節会)という皇祖神―皇孫―人民という三者の関係は、神嘗祭そして新嘗祭という神祇祭祀を通じ現実に具現化するということです。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけて撰述された『宝基本記』によると、垂仁天皇26年丁巳冬11月、天照大神が宮中を離れ伊勢神宮に鎮座した直後の新嘗祭の夜、倭姫命は天照大神の託宣として

人ハ乃チ天下之神物ナリ。須ラク静謐ヲ掌ルベシ。心ハ乃チ神明之主タリ。心神ヲ傷ルコトナカレ。神垂ハ祈禱ヲ以テ先ト為シ、冥加ハ正直ヲ以テ本ト為ス。其ノ本誓ニ任リ。皆大道ヲ得シメバ、天下和順シテ。日月精明ナリ。風雨時ヲ以テ。国豊カニ民安カナリ。

云々と告げたそうです。ここに神道における重要な神と人の関係が読み取れるとともに、私たちが生きるべき指針があります。

 現在でこそ天照大神は宮中を離れ、伊勢の地で神嘗祭を執行しますが、ここにおける新嘗祭は天照大神が宮中を離れ伊勢の地に鎮座された直後のものであり、宮中の新嘗祭が伊勢の地で執行されたものと考えられます。そして先学の指摘によれば、伊勢神宮では、神嘗祭の夜、御巫内人が御琴を弾いて天照大神の託宣を賜る「御卜神事」が執行されますが、『宝基本記』における天照大神の託宣は、まさしくこの御卜神事の淵源とのことです。

 新嘗祭の夜、天照大神は「人の本性は神そのものである」「その本性を人は自ら不明としている」「清浄を極め、本性に戻れば天下安穏となる」という御教えを告げられました。私たちは新嘗祭を直前に迎え、自身の本性と神性を知り、それを不明としている汚濁罪障を退け、本性たる神性に至ることにより世界の平和を実現したいと考えます。