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1941年(昭和16)12月8日 対英米開戦とアジアの戦争

 1941年(昭和16)12月8日、日本陸軍はマレー半島コタバルへの上陸作戦を開始し、さらに海軍はハワイ真珠湾を攻撃した。ここに先行する中国戦線も含め、アジア・太平洋一帯での戦争が始まる。この戦争を日本側は「大東亜戦争」と称し、戦後は「太平洋戦争」、あるいは「アジア太平洋戦争」「15年戦争」などと呼称される。

 37年7月に発生した盧溝橋事件は第2次上海事変に発展し、全面戦争となる。こうして始まった日中戦争が長期化し膠着するなかで、日本は40年9月に日独伊三国同盟を締結し、さらに同月、フランス領北部インドシナ(北部仏印)への進駐を開始する。北部仏印進駐には、援蒋ルートの遮断と南進のための基地を確保する意図があったといわれている。こうした日本の外交と南進政策は、アメリカの態度を硬化させ、アメリカは対日禁輸政策など圧力外交を展開し始めた。そして日本は41年4月に日ソ中立条約を締結し、ソ連の中国大陸への介入を防ぐとともに、北の備えとした。

 当時の世界情勢は、既に39年9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦を布告、第2次世界大戦が始まっていた。40年6月にはドイツ軍はフランス・パリを陥落させ、さらに同年8月には対イギリス航空戦(「バトル・オブ・ブリテン」)を開始するが、イギリス軍の抵抗は激しく、ドイツ軍は対英上陸をあきらめ、41年6月には対ソ連戦(「バルバロッサ作戦」)に突入していった。39年8月に独ソ不可侵条約が締結されており、ドイツ軍のソ連攻撃はスターリンにとって予想外であり、ソ連軍は戦争準備が不十分であった。さらにスターリンによる粛清の影響もあり、ソ連軍は敗退を続け、ドイツ軍はモスクワまであと一歩のところに迫っていた。

 こうした世界情勢の急転と日米交渉の行き詰まりのなかで、日本は対米開戦を決意し始め、41年11月5日「帝国国策遂行要領」を決定し、同年12月初頭の対米開戦を定めた。以降、陸海軍は戦争準備を開始する。そうとはいえ、対米戦で軍事的に勝利することが不可能であることは日本にとっても自明のことであり、開戦時の日本の軍事戦略・終戦構想は東南アジアでの日本の勢力圏を築き、天然資源を始めとした軍需物資を確保し、さらに長期持久戦態勢を樹立した上で、ドイツ・イタリアがソ連とイギリスを降し、アメリカの戦争継続意思を挫折させ、有利な条件でアメリカと講和を締結するというものであった。

 開戦早々、日本軍はアメリカ軍の動きを制し、東南アジアに展開していたイギリス軍やオランダ軍を降した。そして東南アジア各地に進出し、占領地において軍政を展開する。日本軍の軍政の基本方針は、石油・ゴムなど「重要国防資源」を日本へ輸送するとともに、現地に展開する軍の物資を確保するというものであった。例えば、マレーシアにて軍政を展開した山下奉文中将隷下の日本軍第25軍は、現地人を優遇し、華僑とイギリス人へ峻厳な態度で臨み、既存の政治制度や勢力を利用しつつ、ボーキサイトやゴムあるいは錫といった天然資源の確保を急ぎ、軍の自活態勢を確立していった。東南アジアでの勢力圏確保をいう終戦構想、真珠湾に先立つ事実上の開戦であるコタバル上陸、援蒋ルート遮断戦略など、この戦争は「アジアの戦争」であったといえる。

 「アジアの戦争」として忘れてはならないのは、43年11月、東京で開催されたいわゆる「大東亜共栄圏」における独立国の指導者を集めた「大東亜会議」と、そこにおける「大東亜共同宣言」の発出である。大東亜会議・大東亜共同宣言は、当時の外相・重光葵が連合国による「大西洋憲章」に対抗するため発出されたものであり、「大東亜共栄圏」は「盟主・日本がアジア各国を領導する」といった意味合いが強すぎるとして放棄され、「アジア解放」「平等互恵」などを内容とする。一方、インドネシアの民族主義者スカルノが会議に招請されず、またフィリピンやビルマの独立が認められながら、セレベスやジャワといった重要地域は日本領とされるなど、問題点もあった。

 また、ここでいくつかのことに注意しなければならない。41年6月に開始された独ソ戦において、ドイツ軍はモスクワまで33キロメートルに迫っていたものの、41年12月5日にはソ連軍が総反撃を開始し、敗走を始めていた。開戦前において日本の軍事戦略・終戦構想は崩れていたのであった。さらに日本軍の戦術にも問題があった。真珠湾攻撃では日本軍潜水艦部隊がアメリカ軍の対潜部隊に圧倒されており、以後、太平洋上においてアメリカ軍の潜水艦部隊に苦しめられ、またイギリス軍の誇る戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を航空作戦によって撃沈させたマレー沖海戦では、日本側軍用機の被弾率は40%を超えるなど、連合軍の高い防空能力が示されたといわれている。戦略の崩壊と戦術の綻びは必然的に戦局の悪化をもたらし、早くも42年6月のミッドウェー海戦以降、日本軍は敗色を濃くする。そして45年8月のポツダム宣言受託までガダルカナル、ソロモン、アッツ、マーシャル諸島、インパール、サイパン、マリアナ沖、レイテ、硫黄島、沖縄と絶望的な戦闘が続き、都市空襲や原爆投下が行われていったのであった。

 さらに戦争と戦況悪化はアジアに疲弊と犠牲をもたらしていった。上述のマレーシア軍政においては、そもそもマレーシアは自給能力が低いことに加え、戦況悪化により物資輸送船の撃沈などが続き、物資の不足や生活難を引き起こしていった。そして資源確保と日本への輸送が困難になると、軍政は軍の自活と民政の維持に努めたが、さらに戦争末期になると連合軍の逆上陸への備えから軍政は資源の戦力化と防衛体制の構築に全力が注がれた。こうした軍政の展開に反発し、アジア各地で抗日闘争や独立運動も高まっていったのである。

 12月8日、日米開戦のみならず、アジアの視点から先の大戦に向き合いたい。