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平成30年2月20日 いわゆる「松代大本営」地下壕見学・朝鮮人犠牲者の碑参拝

 この日、先の大戦末期の昭和19年(1944)に本土決戦の準備と空襲回避、そして国体護持のために大本営や政府機関を移転するため計画・着工された、いわゆる「松代大本営」地下壕(長野市)を見学し、地下壕入口付近に建立されている「松代大本営朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」を参拝しました。

「松代大本営」地下壕入口

 「松代大本営」地下壕は、先の大戦の敗色が色濃くなった昭和19年に陸軍省が計画し、東部軍が実行して構築したものであり、長野市松代の舞鶴山を中心として、皆神山、象山に碁盤目状に掘削され、その延長は約10キロメートル余りに及ぶといわれています。サイパン島陥落により本土空襲の激化と本土決戦の可能性が現実化した当時、大本営や政府機関をこの地に移すため、突貫工事が行われました。

 松代の地が選ばれた理由としては、海岸からの距離や地盤の堅牢さなど地理的理由とともに、当時にあって長野県は比較的労働力の確保が容易であったからといわれています。工事には多数の日本人労働者が動員された他、多くの朝鮮人が動員されました。特に朝鮮人労働者は危険な作業に従事させられ、多くの人が犠牲になったといわれています。

地下壕の全体像

 「松代大本営」の工事をはじめとした本土決戦戦略は、沖縄戦にも大きな影響をおよぼします。昭和19年から沖縄に第32軍が展開しますが、大本営は沖縄での日米決戦戦略を変更し、本土決戦を見据えた「出血消耗戦」「捨て石」として沖縄戦を位置づけ、沖縄でなるべくアメリカ軍の兵力に損害を与え、本土上陸を遅らせるよう計画します。これにより沖縄は凄惨な戦場となっていきます。

 第32軍八原高級参謀の手記によると、昭和20年6月21日、第32軍のもとに陸軍大臣・参謀総長連名の「貴軍の奮闘により、今や本土決戦の準備は完整せり」との訣別電報が届いたとされます。そして23日未明、牛島司令官・長参謀長は摩文仁で自決します。「松代大本営」は6月半ばにおおむね完成したことから、「松代大本営」の竣工と沖縄戦のタイムスパンは軌を一にするという指摘もあります。

松代大本営朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑