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平成30年2月26日 二・二六事件磯部浅一・登美子夫妻墓参(回向院)

 二・二六事件より82年を迎えるこの日、事件の主要メンバーであった元陸軍一等主計・磯部浅一とその妻・登美子の墓所(回向院)を訪れ、お参りしました。

 昭和11年(1936)のこの日、陸軍歩兵第3連隊第6中隊など1500名が岡田啓介・内閣総理大臣や高橋是清・大蔵大臣らを襲撃し、東京主要部を占拠、国家革新を訴えました。

 磯部は陸軍中尉から一等主計へと転属し、いわゆる陸軍士官学校事件(十一月事件)で停職となりますが、事件は辻政信のでっち上げとして「粛軍に関する意見書」を提出し免職され、その後は国家革新運動に挺身し、二・二六事件では要人暗殺などの主要メンバーとなります。

 戦後、三島由紀夫は『英霊の声』において彼ら青年将校の憤りを描き、作中において青年将校らは「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という絶叫のような恨み言を繰り返します。

 思想家・葦津珍彦は三島『英霊の声』の批評にて、彼ら青年将校は真木和泉守や西郷隆盛のような烈々たる禁闕への思慕の情がありながらも、あえて賊徒として散った人々とは異なり、あくまで勅命を奉じた武人・軍人であり、それ故に賊徒の汚名が断じて許せず、「英霊」ならぬ「怨霊」として荒ぶのだとし、その鎮魂に思い至ったとします。

 同時に葦津は、『英霊の声』評において、日本の忠臣の行動方式を楠木正成に代表される「絶対随順」と、真木和泉守や西郷隆盛に代表される「法外の浪人(アウト・ロウ)」の2種類に類型化し、その上で二・二六事件の決起将校はあくまで「絶対随順」の「正常の武人」「忠誠の臣」であり、最後の最後で勅命に服して原隊復帰したのであるが、それでもなお賊徒とされたため「怨霊」と化したとするなど、現代の社会学におけるミメーシス・情念といった課題を提起しています。

また、思想史家・松本健一は、

二・二六事件を引き起こした青年将校たちは「国賊」ではなく、むしろ民主主義革命をやろうとしたのではないか、と考えられるのではないでしょうか。GHQも、二・二六事件の関係者を呼び出して徹底した調査をしていますが、誰も罪に問われることはなく、戦犯に指定された人はいません。そこにもまた、アメリカから与えられたものがあると評価すべきだと思っています。

と述べ、北一輝や二・二六事件を再検討するなど、事件は様々な角度から見直す時期に来ています。

磯部浅一・登美子の墓