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戦後日本政治史と沖縄の保守政治

 昨年3月、長らく日本政治史・日米外交史などを研究された河野康子氏が多大な業績を残し法政大学を定年退職された。

 特に河野氏は、米軍統治下にあった沖縄県をめぐる自民党の政策や意思決定などの政治動向や沖日米交渉を分析された。例えば河野氏「池田・ケネディ会談再考―国旗掲揚と施政権返還要求の凍結―」(『法学志林』第111巻第2号、2013年11月)では、池田勇人内閣における沖縄に関する外交交渉について分析している。

 つまり1961年6月、池田勇人首相はアメリカを訪れ日米首脳会談を行ったが、そこでは沖縄の学校などにおける日本国旗の掲揚が認められるものの、同時に池田首相は沖縄の施政権返還を要求することなく、日米共同声明がそれに触れることもなかった。前年の岸信介首相の訪米において出された共同声明においても施政権返還は触れられず、沖縄側では厳しい評価がされたが、つまるところ池田首相の沖縄外交は、国旗掲揚をアメリカに認めさせることにより施政権返還要求を自制するものであったということを考究するのである(ただし、池田内閣が沖縄問題について何もしなかったわけではなく、沖縄に関する日米協議委員会が設置されるなどもしている)。

 こうした河野氏の業績については、河野氏定年退職記念号『法学志林』第115巻第1・2号合併号(2018年3月)に業績目録と回顧や論文などが寄せられている。

 特に『法学志林』同号では、河野氏に指導教員として指導された平良好利氏が「沖縄政治における「保守」と「革新」」という論文を寄稿し、沖縄の保守/革新の拮抗と政策的接近という「本土」とは異なる独特な政治状況について、米軍統治という歴史的経緯を踏まえて分析している。

 「本土」ではいわゆる革新勢力が力を失い、全体的として保守化しているように見えるが、沖縄では保革がともに健在であり、例えば知事選挙では保革が交互に選挙に勝利し、県議会選挙では勢力が拮抗している。沖縄には琉球民主党や沖縄自民党、社会大衆党や沖縄人民党など保革の各種政党が興亡し、そこに米軍や「本土」の政治勢力、そして琉球政府などが関わり合う複雑な政治力学が存在するが、実際は沖縄では保革のイデオロギー的対立は少なく、どの党も「日本復帰」では一致していた。アメリカ軍基地についても、どの党も基本的には少なくとも「縮小」という点では一致している。そうすると保革は政策的に接近しており、どちらも「中道性」があったのであり、そのために「島ぐるみ闘争」なども行い得たことが沖縄政治の特徴といえる。

 戦後沖縄政治史における保守・革新については、その他にも櫻澤誠氏が『沖縄の復帰運動と保革対立―沖縄地域社会の変容―』(有志舎、2012年)や『沖縄の保守勢力と「島ぐるみ」の系譜―政治結合・基地認識・経済構想―』(有志舎、2016年)などで相当な密度の研究をされている。そのなかでは沖縄の教員の政治行動、あるいは軍用地問題や米軍関連の事故の補償などで沖縄の保守と革新の相違、また経済政策(沖縄の「自立経済」の問題)における保革の対立と近接性などが論じられている。

 また櫻澤氏の指摘で注目したいのは、沖縄県教職員会が1950年代の沖縄県護国神社再建運動に大きく関わっている歴史である。戦後の沖縄では、戦争犠牲者への援護法による物的援護と慰霊祭祀による精神的援護が行われたが、それは犠牲者の靖国神社合祀を意味した。そしてこの一連の動きは、「本土」への沖縄の帰属や「本土」と沖縄の紐帯を確認する作業ともなった。

 軍隊(究極的には日本軍)の視点による沖縄戦という「軍隊の論理」と、これに抗するかたちで立ち上がった住民の視点による沖縄戦という「住民の論理」があるとすれば、援護法・靖国神社合祀、そして沖縄県護国神社再建など、沖縄県民側も「軍隊の論理」を積極的に展開していったことも事実である。少なくとも「住民の論理」でこれを語りきることは困難である。「軍隊の論理」の展開はむしろ自然の流れであり、そうした「軍隊の論理」と「住民の論理」の混在が沖縄の特徴でもあった。そこに関与していたのが沖縄県教職員会でもあった。教職員会は他にも「日の丸掲揚運動」なども展開している。60年代以降になると教職員会は急速に革新化するが、教職員会はじめ沖縄の保守と革新は、ここにおいて未分化であったのである。

 沖縄の保守と革新の対立の意味やその接近の意味を理解することは、現在の沖縄の政治状況を理解する上で重要な前提となる。そして他方で広がっていく言説空間上の保革の距離も踏まえなければならない。沖縄の保守政治研究は近年比較的活発でもある。河野氏の業績を回顧しつつ、ご一読を。