未分類

日本国憲法施行71年を迎えて

 昭和21年(1946)11月3日に公布された日本国憲法は、翌年5月3日に施行され、今日で憲法施行71年を迎える。

 いうまでもなく日本国憲法は憲法改正を認めるものであり、憲法公布・施行以来、様々な憲法改正論が提起されてきたが、施行71年、一字一句として憲法改正はなされず、既に大日本帝国憲法を超える命脈を保っている。

 確かに日本国憲法は、敗戦と占領という異常事態のなかで制定された憲法である。しかし、それのみを捉え、日本国憲法を安直に無効化・白紙化することはいかがなものだろうか。なぜならば、日本国憲法には、敗戦と占領という異常事態のなかで、歴史の底に流れる日本民族性を幾多の困難を掻い潜り表現した、父祖の血のにじむ努力が内在するといえるからである。

 例えば、日本国憲法第1章天皇条項において、天皇はどのように規定されているだろうか。そこでは、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。

 それでは、「象徴」とは何か。英語でいうならば、象徴とは、「サイン」ではなく「シンボル」である。サインは信号であり、人間の約束によって生み出されたものだ。赤信号は「止まれ」のサインだが、青信号が「止まれ」であってはならない理由は存在しない。

 しかし、シンボルは異なる。キリスト教における十字架は明確にキリスト教のシンボルであり、それは人間の約束によって成り立つものではない。つまり、シンボルは、特定の文化集団の歴史や伝統を背景にして成り立つものだ。

 そうすると、日本国憲法の天皇条項は、特定の文化集団の歴史や伝統を背景としたシンボルとしての天皇をいうものであり、歴史の底に流れる日本民族性を表現したものと考えられる。

 如上の指摘は、希代の神道神学者・上田賢治氏によるものだが、上田氏は、戦後一度として憲法が改正されない現実について、「批判することは易しいが、自国民の伝統と文化とに信を置くとすれば、筆者はその事実に、何らかの<真>を見出さねばならない」(上田賢治『神道神学論考』)ともいう。この精神こそ愛国的・民族主義的なものであり、神道信仰的誠実さを有するものではないだろうか。

 現在、憲法9条がGHQにより押しつけられたという「押しつけ憲法論」について、その事実性へ疑問が投げかけられている。また、現在、自衛隊の存在は多数の憲法学者が憲法13条を根拠とした合憲論を採っている。「押しつけ憲法論」が無効であり、自衛隊が合憲であり、さらに象徴天皇条項が神道神学的に肯定される時、大半の憲法改正論はその根拠を失うはずである。

 根拠なき改憲論、自国民と伝統と文化に「信」を置かず、自国の歴史に「真」を見ない改憲論、先人の決意と決断に憎悪を燃やすかのごとき改憲論は、あまりに無責任かつ非日本的であり、急進的な情勢変化を望む危険な思想ではないのだろうか。あらためて改憲論を問い直したい。

 他方、沖縄戦において沖縄に上陸した米軍は「ニミッツ布告」により大日本帝国憲法はじめ日本の法令を無効化し、米軍による軍政を敷いた。さらに終戦後、日本国憲法が公布・施行されて以降も沖縄には憲法は適用されず、憲法の適用は72年の返還を待つしかなかった。そして沖縄返還・憲法適用以降も、沖縄には過剰な基地負担がのしかかり、沖縄の民意も無視され続けている。憲法の定める平等や民主主義、地方自治の観点から問題はないのだろうか。日本国憲法の尊さを説く人々にも、今日という日に沖縄と「本土」という視点から日本国憲法を見つめ直して欲しい。