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平成30年5月15日 五・一五事件 木堂・犬養毅元首相墓参

 五・一五事件より86年の今日、事件実行犯の三上卓ら軍人に殺害された木堂・犬養毅元首相の墓所(青山霊園)を参り、慰霊・追悼しました。

 犬養は冷徹なリアリストであり、徹底した「帝国」の宰相でしたが、一方で中国革命を支援し中国人革命家と結ぶ豪傑肌の亜細亜主義者でもありました。また第3次桂太郎内閣を倒閣した、実力派の政治家でもありました。

 大正元年(1912)に成立した第3次桂太郎内閣は、第1次護憲運動の活発化により内閣総辞職に至ります。いわゆる大正政変です。第1次および第2次桂内閣は長期政権であったが、第3次桂内閣はわずか62日間の短命政権で終わりました。

 大正2年の帝国議会において、誕生したばかりの桂内閣は、政友会・尾崎行雄や国民党・犬養毅らの総攻撃を受け、内閣不信任案を突きつけられます。桂は不信任案の採決を避けるため、議会の停止を命じますが、これに反発する国民の声が高まり、桂は解散・総選挙を目論むものの、さらに国民の怒りに火に油を注ぐことになり、議会の停止を繰り返し、内閣総辞職に至ります。

 安易な比較や同定をするわけではありませんが、こうした経緯を見ると、どことなく桂内閣と安倍内閣が似通っているように思います。現在、国民的に高まっている疑惑追及・憲法尊重の要求は、いわば第1次護憲運動とでもいえるでしょうか。

 もちろん、大正時代初頭の桂内閣と現代の安倍内閣では、時代状況も政治条件も異なる。当時は陸軍の2個師団増設要求が高まり、さらに桂太郎による新党結成構想も現実味を帯び、元老政治も存在しました。しかし、軍備拡大を目指し、お手軽な「愛国」を掲げ、議会軽視を繰り返す安倍内閣は、やはりどことなく似ているように思えます。

 こうした第3次桂太郎内閣を倒閣した犬養の実力や当時の護憲運動などに学ぶ必要があるのではないでしょうか。

 さらに事件は軍人だけではなく、橘孝三郎率いる農民決死隊が参加し、変電所襲撃などを敢行しました。こうした橘孝三郎や、橘の精神的支柱であった権藤成卿の「土」「社稷」の思想などは、現在においても顧みるべきものがあります。

 墓前にて犠牲者を悼み、その上で犬養の亜細亜主義や橘や権藤らの「資本」「帝国」に抗する思想を追想しました。