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花瑛塾第13次沖縄派遣団②(旧海軍司令部壕)

 花瑛塾第13次沖縄派遣団は15日、旧海軍司令部壕(豊見城市)を見学・慰霊しました。

 沖縄戦を控えた昭和19年(1944)、沖縄に配備された海軍沖縄方面根拠地隊や設営隊、航空隊などの部隊は小禄飛行場(現:那覇空港)を建設し、付近の「火番森」(74高地)の地下に壕を構え、司令部としました。沖縄戦末期には、司令部壕付近の小禄地区は日米の激戦となりました。

司令部壕通路

 沖縄の海軍部隊は、大田実海軍中将が司令官として指揮しました。司令部壕はじめ飛行場、各陣地はツルハシやスコップ、モッコなどを用いほぼ人力で作られたといわれており、当時のツルハシが展示されていました。また沖縄戦末期、米軍に抵抗していた海軍部隊が追いつめられ司令部壕内に多数退却しましたが、それにより壕は立錐の余地なく、兵士たちは立って仮眠したそうです。

建設に使用されたツルハシ

 昭和20年6月13日午前1時、大田司令官は壕内で自決し、軍幹部も続きました。自決の手段に手榴弾が使われたといわれ、壁には手榴弾の爆破の衝撃でえぐれた状態となっています。他にも司令官室には大田司令官による「大君の御はたのもとにししてこそ人と生れし甲斐ぞありけり」との歌や、「醜米覆滅」などのスローガンが壁書されています。

大田司令官の壁書が残る司令官室

 戦後、沖縄の各戦跡は慰霊参拝・見学などで多数の旅行客が訪れましたが、特にこの旧海軍司令部壕は沖縄観光開発事業団(現:沖縄コンベンションビューロー)が旧司令部壕や周辺を整備・公開し、資料館なども併設され現在に至ります。司令部壕の地上は公園となっており、「海軍戦没者慰霊之塔」が建立されています。沖縄県知事よりの献花などもあり、手を合わせ軍民・日米すべての犠牲者を慰霊しました。