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「戦艦大和は生理用品や生活用品を積載して沖縄に出撃した」は事実なのか? 沖縄戦歴史修正主義と戦う

は じ め に

 軍民・日米あわせ約20万人もの犠牲者を出した沖縄戦。壮絶な地上戦の惨劇はいまなお語り継がれているが、沖縄戦は地上戦のみが戦われたのではない。沖縄洋上の米機動部隊や輸送船を狙い、南九州や台湾から多くの特攻機が出撃し、体当たり攻撃による航空特攻作戦が展開された。また海上特攻作戦として、戦艦大和を旗艦とする第2艦隊(第1遊撃部隊)が出撃し、鹿児島県坊の岬沖にて撃沈されたことはよく知られている。

航行試験中の戦艦大和(昭和20年):アジア歴史資料センターより

 ところで近年、この「大和」の出撃に関して、海軍が沖縄県民への補給として民生品(歯ブラシ・歯磨き50万人分、美顔クリーム25万人分、女性用生理用品15万人分)を調達し、「大和」がこれを積載して沖縄に出撃したという話がまことしやかにささやかれている。

 「鉄の暴風雨」といわれるほどの米軍の攻撃により、何もかもが文字どおり「消滅」した沖縄戦。食糧も生活用品も欠乏し、住民たちは米軍の砲爆撃から逃げまどいつつ、畑のサトウキビをかじって飢えをしのいだ。米兵が残した缶詰を所持していた住民が「スパイ」として日本兵に殺害されるなど、食糧事情の悪化によって軍民ともに極限状態に追いつめられていた。

 欠乏は食糧だけではない。野戦病院には医薬品などなく、まともな治療は行われなかった。そもそも兵隊の武器すら充分ではなく、現在の那覇飛行場付近の防衛を担当した海軍沖縄方面根拠地隊(海軍の陸戦部隊)の一部は、鉄を研ぎ出した急造の「槍」で米軍に立ち向かっていたほどである。

 こうした沖縄戦下、海軍が歯ブラシや美顔クリームを全てに優先して調達し、輸送船でもない「大和」に積載して沖縄に運んだなどということがありえるだろうか。まして当時の時代状況のなかで、軍人が女性の生理用品の調達・輸送を計画し、命をかけてまで実施しただろうか。

 以下、この「戦艦大和民生品輸送説」について検討したい。

「戦艦大和民生品輸送説」のはじまり

 「戦艦大和民生品輸送説」の淵源をたずねると、市橋立彦氏および平間洋一氏という人物にたどりつく。

 市橋氏は「戦いの終った日 メンスバンドと自殺薬」(『歴史と人物』第150号、1983年)において、戦争末期、自身はシオノギ製薬原料課農水係長であったとともに「第二海軍療品廠の大尉待遇嘱託」として勤務していたとする。そして昭和20年3月半ば、第二療品廠長・都丸俊男海軍薬剤少将に呼び出され、

本日より1週間以内に、歯磨き、歯ブラシを各50万人分、美顔クリーム25万人分、メンスバンド15万人分を調達するために、○○大尉に協力してほしい。理由はいえない、ただちにかかれ。

などといわれたという。そして、その「○○大尉」からは

不可能を可能にするのが帝国海軍だ。だから君に協力してほしいのだ。

といわれ、以降、京阪神を中心に「○○大尉」とメーカーや問屋を一軒一軒まわり、調達したのだという。市橋氏は「これら物資は貨物列車十数両に積み込まれ、大阪・梅田貨物駅を発車したそうだ」と記す。貨物列車の行き先について「○○大尉」は「西の方向に向かったから、おそらく呉だろう」と答えたとも記す。

 当時にあって1週間以内に歯磨き・歯ブラシ50万人分という途方もない数の生活用品、美顔クリーム25万人分というこれもまた途方もない数の「ぜいたく品」、さらに生理用品15万人分の調達が指示されたこと、そしてそれを問題なく調達したことはにわかには信じがたい。また、これら物資が貨物列車に積み込まれ、呉に向かったことについて、あくまで市橋氏は自身で確認したわけではなく、全て伝聞に基づいていることも注意しなければならない。さらに「○○大尉」は「大和」撃沈の報に接し、市橋氏に

市橋君、われわれが共に一週間たたかったあの4品目は、大和に積んだそうだ。

と語ったというが、「○○大尉」自体も「大和」に民生品を積み込んだことを実際に確認しているわけではない。

 もちろん都丸少将の一存で物資を調達し、「大和」に積載できるわけではなく、少なくとも大本営・連合艦隊司令部・「大和」艦長・沖縄現地軍はもとより、輸送や調達に関わる部隊などが介在しているはずであり、何らかの書類・記録・手簿・手記・回想が残っていてもよさそうであるが、そのようなものは見当たらない。市橋氏の話をそのまま受け取るのは難しい。

 この市橋氏の話は、元海将補・元防衛大教授の平間洋一氏が雑誌(『歴史通』第8号、2010年)や自身のホームページで取り上げたことにより世に広まり、平間氏の肩書が市橋氏の話を「権威づけ」つつ、以後、「史実」「美談」として拡散していった。

沖縄戦「捨て石」論と「戦艦大和民生品輸送説」

 問題なのは、「戦艦大和民生品輸送説」が「沖縄戦は本土決戦のための“捨て石”などではなかった」という史観を構成する「史実」として利用されている点である。つまり「大和」は民生品を積載して沖縄県民を助けるために沖縄に出撃したのであるから、「沖縄はけして“捨て石”などではない」という理屈である。

 しかし沖縄戦を「捨て石」と見たのは後世の歴史家ではなく、当時の陸軍の沖縄現地軍(第32軍)自身である。

 サイパン・レイテ失陥により南西諸島が次なる戦場となることが明確になるにつれ、大本営は沖縄防衛を強化する一方で、第32軍の主力である第9師団を台湾に引き抜き戦力を弱体化させた。

 第32軍首脳部は第9師団の台湾転進を受けて「これで勝ち目はなくなった」とし、自軍を「捨て石」と位置づけ、沖縄戦の大方針を持久戦として、少しでも米軍に出血・消耗を強いるための作戦を計画した。そのことは第32軍の一方的な戦略ではなく、「帝国陸海軍作戦計画大綱」も沖縄を「出血・消耗地帯」と見なしている。

 もちろん第32軍は第9師団の台湾転進後、大本営に部隊の増派を求めているし、大本営も一時、第84師団の沖縄派遣を決定し、沖縄現地の戦力増強を検討したが、本土兵力の不足や海上輸送の不安などから増派計画は中止となった。

 一方、サイパン陥落による「絶対国防圏」の崩壊とレイテ決戦後の海軍は、南西諸島を主戦場とし第5航空艦隊などによる航空特攻を中心としながら、かろうじて生き延びた「大和」を使用し米機動部隊を誘い出して航空決戦、そして海戦による決戦を企図していた。しかし既にこの時点で「大和」が南西海域にたどりつけるかどうか疑問視されており、海軍内でも反対意見があったが、最後は連合艦隊司令長官の決断によって「大和」の海上特攻が決まる。

海軍としてはありとあらゆる手段を尽くさねばならん…当時健在した戦艦大和を有効に使う方法として、水上特攻隊を編成して、沖縄上陸地点に対する突入作戦を計画した…成功率は50パーセントはないだろう、五分五分の勝負は難しい、成功の算絶無だとは勿論考えないが、うまく行ったら奇蹟だ…

 連合艦隊長官は当時をこのように回顧している。さらに長官は出撃にあたり

茲ニ特ニ海上特攻隊ヲ編成シ 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ 光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ 其ノ栄光ヲ後世ニ伝ヘントスルニ外ナラズ

と訓示するなど、そもそも沖縄方面海上特攻に「救援」という発想はなく、沖縄県民への補給を読み取ることはできない。海上特攻が戦略的に成立しているかどうか長官自身も疑問に思っており、軍人の「意地」のようなもので出撃したということもわかる。

 そうすると、やはり沖縄戦は「捨て石」であり、「大和」もまた「海軍の栄光」のために「捨て石」とされたのであり、沖縄救援や物資輸送といったことはありえない。沖縄戦の戦略そのものからして、「戦艦大和民生品輸送説」は成り立たないといえる。

戦艦大和出撃時期・出撃経緯との不一致

 「大和」は昭和20年3月17日、「航空作戦有利ナル場合第一遊撃部隊ハ特令ニヨリ出撃シ敵攻略部隊ヲ撃滅ス」との命令を受け取っている。同日、「大和」は呉周辺に停泊しているところを米軍機約70機により攻撃され、これ以降、「大和」は修理・改装に注力している。

爆撃をうける戦艦大和(昭和20年3月):アジア歴史資料センターより

 26日、天号作戦発動が下令され、「大和」は米機動部隊を基地航空機の攻撃圏内へと誘い出し引きつけるため、また「大和」にとっても安全な場所への移動のため佐世保への回航が命じられ、28日に「大和」は呉を出撃する。しかし、それ以前に米機動部隊が九州に接近したことによって「大和」は周防灘で待機となった。そして4月1日に米軍が沖縄本島に上陸し、7日を期して第32軍の攻勢移転(総攻撃)が決まる。これに呼応するかたちで「大和」の沖縄特攻が決定され、同6日に沖縄洋上へ向けて出撃、翌7日に撃沈される。

 市橋氏は昭和20年3月半ばに物資の調達を命じられたとするが、同年3月半ばの時点で「大和」の沖縄出撃は明確には決まっていない。当初はあくまで航空作戦が成功した場合、「大和」が出撃し米機動部隊を攻撃するという作戦であり、その次に敵を誘い出すため佐世保への回航が命じられ、その後3月末頃にようやく沖縄突入が決まったのである。なぜ3月半ばの時点で「大和」の沖縄突入を見越して都丸薬剤少将が物資の調達を市橋氏に命じたのか説明がつかない。

 また沖縄へ出撃が命じられた後の「大和」の作戦計画にも、沖縄へ上陸し民生品を荷下ろしし、現地部隊や県民へ配給するといった記述はない。「大和」の作戦計画である「1YB命令作第三号」には戦闘要領として「昼夜戦ヲ問ハズ 全軍結束 急速敵ニ肉迫 必死必殺ノ特攻々撃ヲ本旨」とするとあり、「大和」の作戦は沖縄救援などではなく特攻作戦以外の何物でもないのだ。

 市橋氏によると具体的にいつ大阪の梅田貨物駅から物資が「西」に輸送されたのか不明であるが、「大和」の呉出撃が3月28日、そして4月5日および6日に山口県の徳山港で燃料・魚雷・弾薬などの搭載といった出撃準備が行われ、なおかつ不要物件の撤去や機密書類の陸揚げが行われた。

 仮に3月半ばに市橋氏が「大和」が沖縄へ向かうとの「予感」「予測」によって調達を開始したとしても、早ければ呉出撃の28日までの約2週間、遅くとも沖縄方面出撃の4月6日までの約3週間で物資を調達し積み込まなければならない。物資が欠乏していた当時、市橋氏が2~3週間で物資を調達し、米軍による空襲を避けながら広島もしくは山口まで無事に輸送しなければならない。これは相当に困難なことと思われる。

 また、これほど大量の民生品を「大和」に積載することも難しかったであろう。3月17日の「大和」空襲以降、「大和」は修理・改装に全力を尽くしていたし、4月5日の出撃準備は一晩中かかって行われた。そのような折に生活用品・化粧品・女性用生理用品などの民生品を大量に積み込むことなど可能なのだろうか。

お わ り に

 以上の疑問から「戦艦大和民生品輸送説」を史実と考えることは無理だろう。市橋氏が民生品を集めたことが事実ならば、その民生品は「○○大尉」もしくは都丸少将によって、何か別の用途に使用・転用されたことも考えられるが、いずれにせよ市橋氏自身が「だろう」「らしい」「だそうだ」というとおり、この話は根拠のない風聞に過ぎない。

 沖縄戦は軍人による戦史を超えて、強制集団死(いわゆる「集団自決」)被害や軍による住民迫害など、「住民体験の諸相」の解明に力点が置かれ、これまで様々な沖縄戦の実像が明らかにされてきた。一方で、戦争体験者が減少するなかで、住民体験の諸相が捻じ曲げられるなど歴史修正主義が吹き荒れ、「そもそも沖縄戦は“捨て石”ではない」という恐るべき史観が吹聴されるに至る。「戦艦大和民生品輸送説」そのものは荒唐無稽ながら、こうした文脈のなかで真実味をもって語られている。

 事態が複雑なのは、こうした沖縄戦歴史修正主義が、沖縄の基地問題とも結びついている点にある。沖縄ではいまなお米軍基地が存在し、県民は基地負担に苦しんでいるが、一部の基地容認・推進勢力は基地反対を主張する人々の平和の理念や戦争への反省について「日本の加害責任を強調する過激な『反日』思想」などと位置づけることによって、基地反対運動を「一部の偏った人々による運動」と歪曲している。沖縄戦歴史修正主義は、明確な政治的意図をもっているということに気をつけたい。

多くのひめゆり学徒が命を落とした南風原陸軍病院壕の「飯あげの道」

 陽の光のさすことのない真っ暗なガマ。高温多湿の梅雨の時期、衛生状態も最悪な状況で、まともな食事もなく、軍民も老若男女も混然一体となって身を隠す。戦傷による傷口にはウジがたかりサッカーボールのような塊となる。こうした極限状態のなかで、「大和」に美顔クリームや歯ブラシ・歯磨き粉を積んで沖縄に向かうことのどこが「沖縄救援」なのだろうか。

 女子学徒隊は看護隊として動員され、続々と運ばれる戦傷者を寝る間もなく世話した。食事も充分ではなく、配給されるおにぎりは戦争末期にはピンポン玉程度の大きさしかなかったという。そして重症患者のうめき声や断末魔の叫び声、汚物と血とウミの猛烈な匂いが充満する壕で死と隣り合わせの状況にいた彼女たちに、正常な生理などあったのだろうか。生理用品を「大和」が輸送したとして、それを誰が喜ぶというのだろうか。

 「戦艦大和民生品輸送説」は、壮絶な沖縄戦に向き合った者が語ったものではないだろう。沖縄戦に少しでも向き合えば、歴史資料を検討するまでもなくありえないことだとわかる。沖縄戦に向き合っていないからこそ「美談」として語ることができ、「史実」として信じることができるのだ。

 当時の軍人の手帳や陣中日誌、命令書、戦訓、省庁の書類などの史料を探索・検討せずとも、一般に手に入る沖縄戦関係書を読み込むだけでこのように「戦艦大和民生品輸送説」の矛盾はいくらでも指摘できる。ありもしない「美談」を語り、悲劇から目をそらすのではなく、沖縄戦に真剣に向き合い、歴史の真実を知って欲しい。

 以上の「戦艦大和民生品輸送説」の検証については、複数の沖縄戦関係書を参考にしたとともに、ネット上やSNSにおける「戦艦大和民生品輸送説」への批判を参考としました。一般的な沖縄戦関係書を読み、ネットやSNSで少し調べればこの程度の矛盾点・問題点は指摘できるわけですが、「戦艦大和民生品輸送説」を吹聴する者は、そのような努力もしていないといえるでしょう。沖縄のことを本当に考えたことがあるのでしょうか。