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平成30年8月8日 東アジアフォーラム第15回研究会 「広島・長崎原爆投下の日」「ソ連対日参戦の日」連続行動

 東アジアフォーラム第15回研究会に参加しました。講師は佐藤知也氏(平壌・龍山会々長)、テーマは「平壌の日本人墓地」でした。

 平壌・龍山会とは、終戦直後に平壌郊外に埋葬された日本人の遺族の会であり、2014年に結成されました。日本人の埋葬地は龍山墓地といわれ、龍山会は定期的に北朝鮮を訪れ、墓参をおこなっています。

 現在に至るまで龍山墓地は北朝鮮側が管理していますが、遺族は日本人遺骨の返還を求めており、北朝鮮側としても遺族に遺骨を返還したいと考えているそうです。日朝間では2014年のストックホルム合意において、日本人遺骨の返還について、北朝鮮側のこれまでの努力を評価し、遺骨返還と墓地の今後について協議することが合意されましたが、進展には至っていません。

 講師からは日本敗戦前後の朝鮮とソ連による日本人収容・引き揚げの状況や平壌郊外にある日本人墓地「龍山墓地」について伺うとともに、ストックホルム合意と日本人遺骨や墓参などについてお話があり、明日の8.9ソ連対日参戦の日を前に、国家に翻弄された全ての人々の無念と痛苦に深く思いを致しました。

 73年前の8月8日にソ連は対日宣戦布告、翌9日以降満州から朝鮮北部に攻め寄せ、8月21日には現在の北朝鮮・元山へ上陸しました。さらに9月8日には米軍が仁川に進駐し、米ソが朝鮮半島を分割統治しました。これより朝鮮半島の分断の悲劇とともに、朝鮮半島からの引揚者の受難が始まります。

 例えば、日本統治下の朝鮮半島・新義州(現在の中朝国境にある北朝鮮の鴨緑江沿いの都市)の会社役員を務めた石崎操氏の日記『石崎操日記』には、操氏とその家族が新義州へのソ連軍の進駐と引き揚げの様子が記されています。新義州には8月30日にソ連軍が進駐し、翌31日には行政権など一切が朝鮮人に引き渡されました。日本人の正式な引揚げは1946年12月以降に行われ、その間ソ連軍は日本人の移動を禁止しましたが、多数の死亡者が出たため多くの日本人が38度線を越え南下し、日本へ引揚げました。石崎家は1946年9月29日に新義州を脱出し、10月12日には38度線を越え、11月1日には博多に上陸しました。

 こうした事態の背景には、米ソによるヤルタ合意が存在します。ヤルタ合意により、米国はソ連に日本領占拠などを認めるかわりに対日参戦を促し、さらにソ連へ上陸用舟艇を貸与するなどし、これによりソ連は国際法違反の対日参戦を行います。しかしソ連の対日戦のあまりの勢いに米軍は慌てて朝鮮半島南部に進駐し、軍政を敷きます。こうした大国の思惑により朝鮮半島は分断され、人々は国家に翻弄されていきます。そしてこのような東アジア情勢を築いた要因の一つに日本側のアジア政策はなかったか、検討することも必要です。

 さらに朝鮮独立活動家であり、終戦直後に「朝鮮建国準備委員会」を組織した呂運享と葦津珍彦は親しく交わった事実から、愛国者は日本の朝鮮統治をどのように総括するのか、新たな検討も必要ではないでしょうか。

講演する平壌・龍山会佐藤会長