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花瑛塾第14次沖縄派遣団②(対馬丸記念館)

 花瑛塾第14次沖縄派遣団は対馬丸事件の日の22日、対馬丸記念館(那覇市)を訪れました。

 昭和19年(1944)8月22日、学童など沖縄からの疎開者1661人を乗せ長崎に向けて航行中の対馬丸が米潜水艦に撃沈され、学童784人を含む1400人以上が亡くなりました。

 この年、沖縄戦を控え、政府と軍は沖縄の民間人の老幼婦女子を九州・台湾へ船で疎開させました。しかし既に付近海域は米軍潜水艦があらわれており、実際に日本の船舶も多数撃沈されていましたが、県民にはそのような事実は知らされず疎開が強行されました。対馬丸はそうした戦時撃沈船舶の一つです。軍は対馬丸事件を秘密とし、生存者にも厳しく口止めしたといわれています。

 疎開といっても軍務につかない県民全員を疎開させたわけではなく、県民の生命を守ろうといった意識はありませんでした。あくまで老幼婦女子を中心とした10万人の疎開とされ、男性は残置されることになっていました。女性も疎開先での高齢者や幼児の世話が必要であれば疎開を認められたのであり、あくまで軍の足手まといとなる民間人を県外に移動させ、なおかつ「口減らし」によって食糧を確保するという意図がありました。

 さらに対馬丸事件ののち、大本営の作戦により第32軍の兵員が減らされると、軍は「根こそぎ召集」といわれる県民の軍務への召集をはじめ、民間人を戦争に巻き込んでいきました。

 記念館を訪れ事件について学ぶとともに、学童の顔写真などを眺め、犠牲者の痛苦と無念に思いを致しました。