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平成30年10月7日[戦争遺跡見学]陸軍気球連隊第2格納庫跡(千葉市・作草部)

 陸軍気球連隊第2格納庫跡(千葉市・作草部)を見学しました。

 18世紀末、熱気球や水素気球が発明されて以降、気球は世界的に軍事利用されてきました。日本でも西南戦争や日清・日露戦争において砲弾の着弾観測や偵察などで利用されました。特に日露戦争では、旅順攻防戦において日本軍が有人気球を挙げて砲弾の観測や誘導をしたといわれています。また気球はプロパガンダ用の宣伝兵器(「せ号兵器」)としても利用されるなど、日本軍の「秘密戦」において活躍しました。

 これら気球は、日本軍の「秘密戦」における諸兵器を開発した陸軍登戸研究所が中心となり研究・開発されたといわれています。開発された気球は和紙で製作され、こんにゃく糊で貼り付けられたそうです。全国の和紙の産地の職人が動員され気球用の和紙を製作し、さらに産地付近の都市で女学生らが動員され糊付けしたといわれています。このため戦時中、こんにゃくが流通しなくなったともいわれています。

 この日に見学した陸軍気球連隊第2格納庫は、昭和2年に陸軍気球隊(後の気球連隊)が所沢から千葉市・作草部に移転した後に気球格納庫として昭和4年に建設されました。格納庫の屋根が尖っているのが特徴的で、当時の軍用機の格納庫なども同様のつくりになっています。なお、格納庫は現在、民間の倉庫会社の倉庫となっています。

気球連隊第2格納庫

 第1次世界大戦で飛行機が戦場に登場して以来、世界的に兵器としての気球は衰退していきますが、日本軍は日中戦争の初期まで、砲弾の弾着観測用として使用していたそうです。また第2次世界大戦では、ワイヤーをつけた気球を上空に放球し、地上から気球をアドバルーンのように係留させて飛行機の侵入を阻む「阻塞気球」として使用されるなどしました。ノルマンディー上陸作戦でも「阻塞気球」が使用されています。

 日本軍は第2次世界大戦の開戦以降、爆弾を搭載した攻撃用気球(「ふ号兵器」)の開発をすすめていました。いわゆる風船爆弾です。そして大戦末期、開発された攻撃用気球を千葉・茨城・福島の太平洋沿岸から放球し、偏西風を利用して米国本土に到着させることが目指されました。気球は日本から米国本土まで二昼夜半かけて到着するといわれており、爆弾とともに、その間の気球の高度管理のためのバラスト用の砂なども搭載されていました。

格納庫付近の境界(「陸軍用地」と記されている)

 攻撃用気球は計9,300発が放球され、1,000発程度は米国本土に到着し、一定の被害を発生させたといわれています。しかし、爆弾による実際の被害とともに、米国国内の混乱の誘発が目的でもあったため、米国は攻撃用気球について報道管制をおこないました。このため被害の程度の詳細は判然としないのが実態です。

 千葉市は気球連隊の他にも戦場や占領地の鉄道の敷設・修繕・運行などをおこなった鉄道連隊が駐屯していたため、軍とともにあった「軍都」ともいわれていました。そのため現在でも千葉市各所に戦争遺跡が残っています。戦争の記憶を継承し、戦没者の慰霊を目指す花瑛塾は、こうした戦争遺跡の見学なども積極的におこなっていきたいと考えています。