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平成30年10月25日 花瑛塾第15次沖縄派遣団②(沖縄戦戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は25日、特攻艇秘匿壕群(読谷村)、旧栄橋(嘉手納町)、旧美里国民学校奉安殿(沖縄市)の沖縄戦戦争遺跡を見学しました。

 沖縄戦は現在の沖縄基地問題の原点でもあります。旧日本軍が建設した飛行場などを米軍が接収し、さらに拡大していった事例もあり、沖縄戦とこれに続く軍政・施政権下のなかで基地が拡大していきました。沖縄戦では壮絶な地上戦が戦われ、日米・軍民約20万人もの犠牲者を出しましたが、こうした膨大な沖縄戦での犠牲者は、日本軍が沖縄を軍事的「捨て石」とする戦略持久作戦を展開したために発生しました。そしていま日本政府は「抑止力」「安全保障」の名の下で沖縄に基地を押しつけ、沖縄を政治的「捨て石」としています。

 沖縄戦の悲惨さとそこに見え隠れする沖日米の歴史的関係を知れば、沖縄への基地の押しつけなどはできないはずですが、花瑛塾は沖縄戦戦没者追悼のためにも歴史を振り返り、それを現実の行動につなげていきたいと思います。

 以下、見学した戦争遺跡を簡単に紹介します。

【特攻艇秘匿壕群】 読谷村渡久地の比謝川河口に面する人工壕。現在は小さな漁港となっている。昭和19年12月より陸軍海上挺進基地第29大隊が築造し、翌年2月より陸軍海上挺進第29戦隊が配備され、この人工壕に特攻艇「マルレ」(連絡艇)を秘匿し、米艦艇への海上特攻作戦に備えた。基地隊には多数の朝鮮人軍夫が動員され、過酷な軍務に従事した。その他、近くの北谷町にも秘匿壕がある他、慶良間諸島渡嘉敷島や石垣島などにも存在する。特攻艇による海上特攻による戦果は、現在も不明な部分が大きいが、沖縄戦時、海上特攻や航空特攻など数々の特攻作戦が展開された。

特攻艇秘匿壕群

【旧栄橋】 嘉手納町屋良、現在の嘉手納高校の裏に流れる比謝川に架かっていた橋。二重アーチ状の鉄筋コンクリート造りの堅牢な橋梁だったが、昭和20年4月1日の米軍上陸とともに日本軍が爆破・破壊した。日本軍は読谷・北谷など比謝川河口に上陸してきた米軍について、水際で上陸を阻止するのではなく、これを上陸させつつ遊撃戦を展開し出血・消耗を強制させながら第1線防衛線である大謝名・嘉数・我如古・和宇慶ラインに米軍を引き込み南下させ、そこで打撃を与える作戦を企図していた。このため第1線陣地の増強と遊撃戦展開のため、米軍の進行を遅滞させるべく主だった橋を爆破・破壊した。

木々が生い茂りわかりにくいが、破壊され露わになった橋脚が見える

【旧美里国民学校奉安殿】 沖縄市美里児童園内。「奉安殿」とは天皇・皇后両陛下のお写真である「御真影」を保管する施設。沖縄戦時、御真影奉護は教員・学校長の重大任務であり、沖縄各地の御真影が集められ「奉護隊」が戦災を逃れるため御真影とともに避難するなどした。最終的に御真影は昭和天皇の御真影のみを残して奉護隊はやんばるの森の大湿帯をさまようが、第32軍壊滅の連絡を遊撃部隊である護郷隊・村上隊長より聞き、昭和天皇の御真影を奉焼した。本土の奉安殿などはGHQの指令で破壊されたが、沖縄はGHQではなく米軍が直接統治したため破壊を免れた。歴史の皮肉といわざるをえない。奉安殿には沖縄戦時の弾痕が生々しく残っている。

現存する奉安殿