未分類

平成30年10月26日 花瑛塾第15次沖縄派遣団③(沖縄戦戦争遺跡見学など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は26日、伊江島(伊江村)にて沖縄戦の戦争遺跡や戦後の基地問題に関する施設などを見学しました。

 沖縄戦における伊江島の戦いは、強制集団死(いわゆる「集団自決」)や防衛隊による民間人殺害などの悲惨な出来事が発生したり、少年義勇隊や女子救護班・婦人協力隊といった子どもや女性が防衛隊として動員され、「斬り込み」といわれる敵陣への自爆攻撃や万歳突撃を強制されるなど、沖縄戦の縮図のような悲惨な戦場となりました。

 また戦後、伊江島住民は故郷の伊江島から遠く離れた久志や慶良間諸島の収容所に隔離されました。帰島はなかなか許されず、帰島した頃には伊江島には米軍の巨大な基地ができていました。さらに昭和28年以降はいわゆる「銃剣とブルトーザー」による土地の接収がおこなわれ米軍基地は拡大していき、核模擬爆弾投下訓練なども行われました。住民は土地の強制接収や過酷な基地負担に猛反発し、抗議運動を展開しますが、これが後の「島ぐるみ闘争」に発展していきます。

 以下、見学した戦争遺跡や参拝した慰霊碑などを紹介します。

【公益質屋跡】 公益質屋とは、戦前に設立された市町村などの公的機関による市民向け金融機関。井川正少佐(後に大佐)率いる日本軍伊江島守備隊は、城山(タッチュー)とその手前の高地を陣地としたが、公益質屋はその高地にあり、米軍の砲撃にさらされた。米軍は昭和20年4月16日に島の南西に上陸し城山を目指して進撃したため、公益質屋も建物の南西側が際立って破壊されている。

公益質屋

【ニィヤティヤガマ】 伊江島の南側海岸に面する海食洞。もともとは子授けの神の伝説が存在する自然壕。伊江島では昭和18年から飛行場建設が進められ、多数の兵隊や徴用人夫が配備されており、彼ら軍人軍属や住民が米軍による空襲の際の避難場所として利用された。

ニィヤティヤガマ(内部空間は相当に広い)

【アハシャガマ】 伊江島北東の自然洞穴。沖縄戦時、住民や防衛隊など100人以上が避難していたといわれる。4月21日、伊江島守備隊が壊滅したが、翌日22日、ガマにいた防衛隊が米兵の接近に気づき爆雷を爆発させ、住民を巻き込む強制集団死をした。ガマ内部はその際に崩落があり、遺体は当分の間そのまま放置された。その他、サンザタ壕やユナッパチク壕でも強制集団死が発生した他、母親が泣き止まない赤子を殺害したり、防衛隊が住民に手榴弾を投げつけるといった出来事も発生した。

アハシャガマ

【伊江島守備隊第3中隊関連壕および城山】 伊江島守備隊の司令部があった城山の手前の高地(学校高地)には、地下壕が築かれ伊江島守備隊第2中隊、第3中隊が配備され、巨大な砲撃陣地となっていた。一帯では日米の熾烈な戦闘が行われ、米軍は「血塗られた丘」「血の稜線」などと呼称した。城山山頂からは島全域が見渡せる。また伊江島の戦いの前日、米軍は伊江島の南に浮かぶ水納島を制圧し、水納島から城山を砲撃するなどした。

伊江島のシンボルともいえる城山(タッチュー)

【アーニー・パイル記念碑および芳魂之塔】 アーニー・パイルは米軍従軍記者として伊江島の戦いに参加していたが、4月18日に伊江島守備隊の機銃掃射により戦死した。芳魂之塔は伊江島の戦いで犠牲になった軍民約3500人を慰霊するもの。守備隊壊滅の日の毎年4月21日に平和祈願祭が執り行われている。

従軍記者アーニー・パイル記念碑

【団結道場およびヌチドゥタカラの家】 戦後、米軍は伊江島住民の家にガソリンで火をつけ、ブルトーザーでなぎ倒し、土地を強制接収し基地を建設していった。抗議する住民には容赦なく暴行をふるい投獄までしたが、阿波根昌鴻ら住民は「伊江島土地を守る会」を結成し団結道場を拠点に抗議活動を続けた。伊江島住民の抗議活動は、後に沖縄全域で展開した「島ぐるみ闘争」の淵源となる。なお、ヌチドゥタカラの家は当時の運動の資料館である。

往時の雰囲気が伝わる団結道場

【LCT慰霊碑】 終戦後間も無くの伊江港で発生した米軍の爆弾処理船(LCT)の爆発事故「波止場事件」犠牲者を慰霊する碑。沖縄戦の戦後処理のため未使用の爆弾や不発弾を積載したLCTだが、荷崩れが発生し爆発した。多数の犠牲者を出した他、焼けただれた鉄片が島内各地に飛散するなど被害をもたらした。

LCT慰霊碑