未分類

平成30年10月28日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑤(沖縄戦戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は28日、沖縄戦の最激戦地の一つ嘉数高地(宜野湾市)および運玉森(西原町)を見学しました。沖縄戦時、首里にあった日本軍沖縄守備隊(第32軍)の司令部を防衛するため複数の防衛線が築造されましたが、嘉数高地はそのうち第1防衛線の主陣地、運玉森は最終防衛線の首里東側の主陣地とされ、日米・軍民問わず多くの人が犠牲となりました。

 以下、紹介します。

嘉数高地 読谷・北谷の海岸へ上陸した米軍は、一部部隊を北進させ、主力は首里の第32軍司令部攻略のため南進した。この米軍を第32軍は宇地泊・大謝名・嘉数・西原・我如古・和宇慶の第1防衛線で迎え撃った。特に嘉数高地では約2週間におよぶ日米の激戦となった。南進する米軍にとって、嘉数高地は高地という軍事上の優勢のみならず、高地手前に比屋良川という川が流れ堀のようになっており、天然の要害となっていた。

比屋良川(手前)から嘉数高地(奥)を望む

 第32軍は嘉数高地に無数の壕やトーチカを築造し、さらに米軍と対峙する高地の斜面の反対側(首里側)の斜面から砲撃する「反射面陣地」によって米軍を苦しめた。米軍は嘉数高地の戦いで一時的に第32軍以上の被害を出し、1日に1mしか前進できない日もあり、「いまいましい丘」と呼称した。

 嘉数高地陥落後、第32軍は第2防衛線である前田高地に部隊を撤退させ、進撃する米軍とさらなる戦闘を継続した。いわゆる「ハクソーリッジの戦い」である。米軍は戦車や火炎放射装甲車など猛烈な火力で攻め立てたが、あまりの戦闘の激しさから精神に異常をきたす兵士が続出したといわれている。

 また沖縄戦では多数の住民が戦闘に巻き込まれ、あるいは防衛隊などとして軍に召集・協力し犠牲となったが、それは嘉数高地の戦いも例外ではなく、嘉数付近の住民は戦闘前は陣地構築に動員され、戦闘中は防衛隊として自爆攻撃を強いられ、敗北色が濃くなると避難壕を追い出されるなどした。実際に沖縄戦で嘉数住民の半数以上が戦死している。

嘉数高地の住民避難壕デラガマ(崩落を防ぐため支柱で補強している)

運玉森 米軍がコニカル・ヒルと呼称した運玉森は、嘉数高地・前田高地陥落後の首里東側の最後の防衛線である。ちなみに首里西側の最後の防衛線は、有名なシュガーローフ・ヒル(安里52高地)である。米軍は中城湾(バックナー・ベイ)から運玉森へ砲撃を加えつつ前進し、突破した。ここでも住民が戦闘に動員された記録が残っている。

首里方面から運玉森(奥)を望む

 最終的に運玉森と安里52高地が陥落し、米軍は首里の司令部陥落も時間の問題であり、沖縄戦は間も無く終結すると予測していたが、第32軍は島尻へ撤退し、摩文仁を司令部としてさらなる抗戦をはかる。本土決戦のため1秒でも時間を稼ぎ、1人でも多くの米兵に出血を強要するためであり、首里撤退はまさしく沖縄戦が「捨て石」であることを示している。

運玉森から米軍が布陣した我謝・安室集落(奥)と中城湾(同)を望む