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平成30年10月30日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑦(石垣島事件・尖閣諸島戦時遭難事件慰霊など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は30日、沖縄戦時に石垣島で発生した日本軍による米軍捕虜殺害事件の事件現場や慰霊碑を訪れるとともに、同じく沖縄戦時の石垣島で発生した疎開船への米軍の攻撃とこれによる尖閣諸島への漂流事件の慰霊碑を訪れました。その後、今年度内に着工が目指されている石垣島平得大俣地区の陸上自衛隊駐屯地建設予定地を見学しました。

石垣島事件 沖縄戦時、石垣島では連日米・英軍が空襲をおこなっていたが、昭和20年(1945)4月15日午前9時頃、対空砲撃により米軍機が撃墜され、搭乗員の米兵3人は海軍石垣島警備隊によって捕虜になった。午後3時頃からバンナ岳の麓の警備隊司令部で捕虜への尋問が開始され、その日の午後6時頃に全員殺害された。

 殺された米兵はバーノン・L・ディボー中尉(28歳、操縦士)、ウォーレン・H・ロイド兵曹(24歳、通信員)、ロバート・ダグル・ジュニア兵曹(20歳、機銃操作)。

米兵殺害・遺体遺棄現場(手前)と海軍石垣島警備隊司令部跡のバンナ岳(奥)

 捕虜については、日本軍の沖縄守備隊は陸海軍とも当初は沖縄本島に送致しており、戦闘の激化に伴い台湾へ送致することになっていた。しかし海軍石垣島警備隊司令・井上乙彦大佐は、台湾への送致の困難や部隊の士気向上のため捕虜の殺害を企図し、警備隊司令部の南にあった照空隊の駐屯地に長さ4メートル、幅1.5メートル、深さ1.5メートルの遺体を遺棄する穴を準備して100人以上の将兵を召集した。そして将校がディボー中尉とダグル兵曹を軍刀で斬首し、ロイド兵曹は棒に縛りつけられ集団で殴打された上で40人もの下士官・兵により銃剣で刺殺された。

 敗戦後、捕虜殺害という戦争犯罪の発覚を恐れた井上大佐は遺体を掘り起こし、火葬した上で遺灰を海に流し、丁重に葬ったかのように3人分の十字架を建立するよう命じた。こうして事件は隠ぺいされたが、GHQに事件の全貌について情報提供がなされ、井上ら7人が戦犯として絞首刑となった。

尖閣諸島戦時遭難事件 昭和20年6月30日、石垣島島民を載せた2隻の疎開船が台湾へ向けて出港したが、7月3日に米軍の機銃掃射により1隻は沈没し、約50人ほどの機銃掃射による犠牲者や溺死者を出した。もう1隻は航行不能となったが持ち直し、付近の漂流者を救出して翌日には尖閣諸島の魚釣島に辿りついた。

 島の食糧事情は最悪であり、漂流したところを救出された人たちは着の身着のままで携行食糧もなく、次第に衰弱していき、漂着から30日ほどすると餓死や病死で犠牲となるものが続出した。遭難から約40日後に救出されるが、政治情勢や交通の難により犠牲者の遺族たちは尖閣諸島で慰霊などが出来ないため、海に臨む石垣島の海岸に慰霊碑が建立され、いまも犠牲者の霊を慰めている。

 沖縄戦では、こうした尖閣諸島戦時遭難事件など戦時船舶遭難事件が多発している。代表的な事例としては、対馬丸事件が有名である。軍は「口減らし」のため子どもや高齢者の疎開を進めたが、既に疎開船の航路には米軍潜水艦が出没しており、軍の輸送船も攻撃され被害を出すなど疎開の危険性は充分承知していた。軍がその事実を住民に説明せず疎開を進めた責任は重たい。また住民は疎開先の台湾や九州でも飢えや病気など苦しい思いをした。

尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑

陸上自衛隊石垣駐屯地(仮称)予定地 現在、自衛隊はいわゆる「南西シフト」といわれる南西諸島の防衛強化をはかっており、特に宮古諸島・八重山諸島からなる先島諸島では、陸上自衛隊の警備部隊・ミサイル部隊・沿岸監視隊の配備が進められている。石垣島では500人から600人規模の警備部隊・ミサイル部隊の配備が計画されており、今年度内にも石垣市平得大俣で駐屯地建設の着工が予定されている。宮古島でも駐屯地建設がはじまっており、与那国島には既に沿岸監視隊が配備されている。

 石垣島住民の自衛隊配備反対の意思は根強く、賛否を問う住民投票を求める動きもある。今月31日午後7時から石垣市大川公民館で住民投票に向けての署名集めのための集会も開催される。一方的に自衛隊配備を決めた政府や石垣市の対応への不信もあり、先島諸島あるいは南西諸島全体での自衛隊配備強化に対する批判も存在する。

 一方で、島内には自衛隊配備に賛成する声もあり、「自衛隊配備推進」と記されたノボリが道沿いに掲げられている光景も目にする。既に自衛隊が配備された与那国島のように、島の分断・対立・緊張が高まることが懸念される。石垣島では過去、新空港の建設計画によって反対運動がおこったため地域住民が賛否で鋭く対立し、いまに至るまで尾を引いている現実がある。

 戦後神道界を代表する言論人・葦津珍彦は、急迫不正の侵害に対し国民を守るため必死の抵抗をする自衛隊によって、国家と国民の信頼・連帯が維持され、国民の側も自衛隊にそうした期待を抱いているとする。まさしく葦津における自衛隊の「建軍の本義」は、「国家と国民の信頼の防衛」といってよいのではないだろうか。

 一方で葦津は、朝鮮戦争によってはじまる日本再武装について、「建軍の本義」なき再武装の危険性を説いた。国家性に具体的に結びつかず、「自由と民主主義のため」という普遍的な価値観に基づいて建てられた軍は、必ず「自由と民主主義のため」に外国の政治に介入したり、時の政治家に都合よく利用されると葦津はいうのだ。戦後、米軍やソ連軍が諸外国に介入した理由を想起すれば、戦争が終わり間もない時期での葦津のこの指摘は卓見というべきである。

陸自石垣駐屯地建設予定地

 葦津は「建軍の本義」を追及することなく、不純不正の精神によって建てられた軍は、国民に対し深い禍を残すという。いま、自衛隊が「南西シフト」によって南西諸島全体に緊張をもたらし、石垣島はじめ南西諸島の人々に不信感を抱かれ、あるいは不信感をもたらしているのならば、それは国家と国民の信頼・連帯が阻害されていることになる。自衛隊は防衛のために本当に守らねばならないものを「陥落」させているのならば、南西諸島から「名誉ある撤退」をおこなうことによって国家と国民の信頼・連帯を確保する必要があるのではないだろうか。

 人々の声に耳を傾けず、権力者のいうがまま配備を強行するのならば、自衛隊はまさしく葦津の指摘する国民に対し深い禍を残す存在になったというべきであろう。