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「心神ヲ傷ルコトナカレ」 新嘗祭の夜の天照大神の神教え

新嘗祭と大嘗祭

 11月23日、宮中および全国神社で新嘗祭が行われます。天皇陛下はこの日午後6時、神座・御座が設けられた宮中三殿の神嘉殿で新嘗祭「夕の儀」にお出ましになり、天皇陛下みずから天照大神そして天神地祇に神膳をお供えする祭儀を執り行われます。また深夜には「暁の儀」の祭儀が執り行われます(なお、陛下のご負担軽減のため、「暁の儀」のお出ましは数年前から取り止めとなっているそうです)。

今上天皇傘寿を機に公開された新嘗祭の様子(平成25年11月23日:宮内庁提供)

 そもそも新嘗祭とは、年ごとの11月に行われる収穫祭であり、1年の豊穣を予祝する2月の「祈年祭」と対をなす農耕祭祀とされています。中国における「嘗祭」が秋における稲の祭儀であるように、新嘗祭は日本の代表的な稲作儀礼であり、その起源は稲作の開始とともにあったと考えられているそうです。なお、新嘗祭はもともとは11月の下卯日を祭日としていましたが(三卯あれば中卯日)、明治6年の新暦採用により23日と定められました。

 ちなみに、今上天皇は来年4月30日に退位され、翌5月1日に皇太子殿下が皇位を継承します。そう考えると、今上天皇がお出ましになられる新嘗祭は、今回が最後となるわけです。一つの時代の終わりを実感するとともに、そこでの営みがただちに次代に継承されるという「生成発展」の神道的あり方に気がつきます。

 なお、天皇即位による一世一度の新嘗祭は「大嘗祭」といわれ、来年11月に行われることになっています。大嘗祭では、天皇みずから天照大神・天神地祇に神膳をお供えするとともに、五穀豊穣と国家国民の安泰、そして災害の予防と国土の安全を神々に起請することになっており、歴代天皇の起請文なども残っています。災害の予防と国土の安全、つまり「防災」が天皇即位の一世一度の起請であることは、現代においても重要な意味を持つと指摘されています。

「心神」思想の発展

 ところで、平安時代末期から鎌倉時代にかけて撰述されたといわれている神道書『造伊勢二所太神宮宝基本記』には、垂仁天皇26年丁巳冬11月、天照大神が宮中を離れ伊勢神宮に鎮座した直後の新嘗祭の夜、倭姫命が天照大神の教えをうけて

人ハ乃チ天下之神物ナリ。須ラク静謐ヲ掌ルベシ。心ハ乃チ神明之主タリ。心神ヲ傷ルコトナカレ。神垂ハ祈禱ヲ以テ先ト為シ、冥加ハ正直ヲ以テ本ト為ス。其ノ本誓ニ任リ。皆大道ヲ得シメバ、天下和順シテ。日月精明ナリ。風雨時ヲ以テ。国豊カニ民安カナリ。

云々と神主部・物忌らに託宣したと記されています。つまり天照大神は新嘗祭の夜に、「人間の本性は神そのものである」「その本性を人は自ら不明としている」「清浄を極め、本性に戻れば天下安穏となる」という神教えを私たちにお伝えになったのです。

 こうした天照大神の神教え、つまり「心神」思想は、中世においては吉田神道の『神道大意』における「心ハ則神明ノ舎」として継承され、近世においては林羅山『神道伝授』においても「心ハ神明之舎也」として「心神」の教えが語られ、近世伊勢神道や垂加神道にも引き継がれながら発展していきます。

 罪穢れを祓によって除き、心が清浄の極みへ至ることにより神に通じる、あるいは神そのものである自身の本性を発見していくという思想は、ある意味において「原罪」を信じることのない思想であり、それは中国の道家思想や仏教思想の影響を受けながら独自に発展していった日本の歴史的な神観や人間観であるといえます。私たちはこの「心神」思想、つまり新嘗祭の夜の天照大神の神教えは非常に重要なものだと考えています。

修理固成の神学

 天照大神が神教えを示された伊勢神宮では、10月15日より神嘗祭が行われます。この神嘗祭は、祭祀構造からいっても新嘗祭と連動するものと指摘されています。先ほどの『宝基本記』における天照大神の神教えも、天照大神が伊勢の地に鎮座した直後の新嘗祭の夜のことであり、同床共殿であった宮中での新嘗祭が伊勢で行われたこと、それが神嘗祭の淵源となったことが推察されるわけですが、こうした新嘗祭と神嘗祭の連動は、早くに幕末の国学者・鈴木重胤が指摘していたといわれています。

 重胤は、天照大神は皇孫に神物たる稲穂を授け(「斎庭之穂の神勅」)、皇孫はそれを人民に勧農し、人民はその収穫を貢物として皇孫に納め、皇孫はそれを皇祖神に捧げ(神嘗祭)、また自ら聞食し(新嘗祭)、人民も賜る(節会)という神勅に見える日本のあり方やそれを構成する天照大神─皇孫─人民という三者の関係は、神嘗祭そして新嘗祭や神祇祭祀を通じ現実世界に具現化していると主張したともいわれています。

 また重胤は『延喜式祝詞講義』において、天津神諸々より伊邪那岐命・伊邪那美命に下された「修理固成」の神勅について、

神は人を賛けて天地造化に功を施し人は神に受けて天下経世に徳を致すべき物と定め給へり、是以て宇宙の事、善悪正邪吉凶損益有るなり、修理固成の用無くば神も人も無用の長物と云べし、

といいます。こうした重胤の神と人の相承関係は、新嘗祭・神嘗祭の連動における神話伝承が神祇祭祀を通じ現実世界に具現化するという理解に通じるものがあり、人の存在する意味や価値を明確に主張し、神と人の隔絶を強調するのではなく、人を神の生みの子とし、神と人の関係における人間存在の重要性を指摘するものと考えられています。

 以上、先人の教えや研究を踏まえ、新嘗祭に関連していくつかの神と人との「回路」についての考察や、またそこにおける人間の精神のあり方やあるべき所作、はたすべき使命についての先人の議論を確認することができました。新嘗祭の夜を間も無く迎えるにあたり、あらためて神に通じる人として何をなすべきか考えてみたいと思います。