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11・25「楯の会」事件から48年(上)三島由紀夫と沖縄返還

「楯の会」事件と三島の檄文

 昭和45年(1970)11月25日、三島由紀夫を隊長とする「楯の会」隊士5名が陸上自衛隊東部方面総監部において総監益田兼利を人質にとり、総監室前のバルコニーから集まった自衛隊員に憲法改正のための決起を訴える演説を行うものの、自衛隊員のなかにこれに応える者はなく、三島由紀夫と「楯の会」学生長森田必勝は割腹・介錯によって命を絶ち、他の隊士3名は捕縛された。事件は「楯の会」事件や三島事件などと呼ばれ、いまなお戦後史を代表する事件の一つとして語り継がれている。

 事件にあたって三島は「檄」と記した檄文をしたため、バルコニーから自衛隊員に向けて撒布するとともに、マスコミ関係者に送付し、万一警察により檄文の内容が秘匿されるような場合は公表して欲しいと伝えたとそうだ。三島にとって檄文が非常に重要なものであったことが理解される。

自衛隊の治安出動を狙っていた三島由紀夫

自衛隊員に決起を呼びかける三島由紀夫(毎日新聞2017.1.12)

 繰り返しとなるが、事件において三島が憲法改正を訴えたことはよく知られている。しかし檄文をよく読むと、三島は憲法改正により自衛隊が「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」という「建軍の本義」に立った「国軍」になることを目指しつつも、それは現実的には困難であると受け止めていたことがわかる。

 そのために三島は、当時激化していた左翼革命運動を警察が抑えきれないような状況が訪れれば、その時こそ「国体」を守る軍隊つまり自衛隊が治安出動し、これにより「建軍の本義」が回復されると考えた。そもそも三島にとって「楯の会」自体が、自衛隊が治安出動した際の前衛となる組織と位置づけられていたのだ。

 だが、結果として自衛隊の治安出動はなかった。三島が治安出動の絶好の機会と考えた昭和44年10月21日の「国際反戦デー」闘争は、出動した機動隊の圧倒的な警察力で過激派セクトの闘争が押さえ込まれ、事態は収拾されてしまった。三島は、これにより憲法改正は政治プログラムから外れたのであり、自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたとのだとする。そして自衛隊のなかからそれに反発するような声もあがらないことに憤激し、憲法改正のために立ち上がることを呼びかけるというのである。

 「楯の会」事件というと、三島が憲法改正を自衛隊に訴え命を絶った事件とだけ理解されているかもしれないが、三島が憲法改正を第一としつつも、その困難に直面しながら治安出動という別の方途を企図していたことが檄文にはっきりと記されていることはあまり知られていないだろう。

檄文に見える「沖縄返還」

  三島の檄文に見えながらあまり世間的に知られていないことといえば、沖縄施政権返還に対する三島の問題意識である。檄文には次のように記されている。

沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

 「楯の会」事件の起きた昭和45年といえば、長らく米軍施政権下にあった沖縄の施政権返還(沖縄返還)が大きな政治課題となっていた時期である。前年昭和44年には佐藤栄作首相とニクソン大統領による日米共同声明が発出され、昭和47年の沖縄返還が取り決められた。そして日米交渉が進められ、在沖米軍基地のあり方など沖縄返還がどのように実現されるのか注目が集まっていた。昭和46年には沖縄返還協定の調印・承認に関する「沖縄国会」が与野党の一大政治決戦となるなど、この時期は日本中が沖縄返還に関連して騒然としていたのである。

 当時の情勢を振り返りながらあらためて三島の檄文を見ると、三島は沖縄返還に関して、特に自衛隊による沖縄防衛や自衛隊沖縄はいび、あるいは日本の自主防衛と米軍駐留など米軍との関係について強い意識を持っていたことがわかるだろう。

 また当時、毛織物や化学合成繊維の貿易に関する日米繊維交渉が繰り広げられていたが、檄文でもそれについて言及がある。繊維産業の盛んな米南部での支持を取り付けるため、ニクソンは日本に対し繊維製品の輸出規制を求めたが、当初日本側はこの要求をつっぱねた。しかし佐藤は沖縄返還を最重要政治課題としていたこともあり、沖縄返還と核密約などを背景に日米繊維交渉での妥協、つまり輸出規制を決定したと噂され、日米繊維交渉は「『繊維』を売って『沖縄』を買った佐藤外交」(『朝日ジャーナル』1977.7)とも非難された。

 三島は檄文で

繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

と述べ、日米繊維交渉と沖縄返還を直接結びつけて論じてはいないが、こうした三島の主張の背景には、沖縄返還というものが存在していたのである。

沖縄返還と自衛隊

 実際、沖縄返還に関する日米共同声明以後、返還後の沖縄防衛と自衛隊沖縄配備に関して、自主防衛の観点から沖縄局地防衛の責務を負い、そのために自衛隊沖縄配備を進めようとする日本政府と、自衛隊沖縄配備による在沖米軍の展開への支障を懸念する米側との間で様々な議論が行われていた。

 米側は、自衛隊沖縄配備と沖縄局地防衛について、あくまで米軍の沖縄駐留により東アジアの平和が保たれ、それによって沖縄の安全も保障されているとし、能力の低い自衛隊が沖縄に配備され米軍にとって代わることなどを強く警戒した。また米側は、自衛隊沖縄配備が旧日本軍との連想の中で東アジア諸国に懸念を与えることは望ましくないとも考え、自衛隊沖縄配備による新施設建設は最小限とし、米軍の行動を妨げず、さらに日本全体の自主防衛のための沖縄局地防衛と自衛隊沖縄配備ではなく、沖縄の局地防衛に専念するかたちでの自衛隊沖縄配備を認容していった。

 沖縄返還後の自衛隊沖縄配備については、米軍基地を自衛隊が使用(共用)しつつ配備を進めることで合意され、沖縄返還とともに陸上自衛隊第1混成団はじめ自衛隊沖縄配備がはじまる。

 三島のいうとおり、米側は日本の自主的な軍隊による国土の防衛を望まず、自衛隊の任務は沖縄の局地防衛に限り、その上で沖縄への米軍の駐留と基地の自由使用を認めさせ、核などの密約も締結した沖縄返還は、檄文のとおり自衛隊が米軍の「傭兵」、あるいは「ガードマン」になった。その結果、沖縄にはいまなお重い米軍基地の基地負担が残る一方、自衛隊と米軍は一体化を進め、自衛隊による米国製兵器の大量購入や共同訓練、基地の共同使用や安保関連法に基づく米軍の後方支援の認容といった事態も起きている。三島の懸念は現実のものになったといえるだろう。

 「楯の会」事件における三島は、非常に冷静に現実を分析し、冷徹に情勢を見抜き、将来の展開を見通していたことがわかる。憲法改正や自衛隊の国軍化といった三島の主張に対する賛否は様々あるだろうが、事件当初から、そしていまでも続く「狂気乱心」といった事件評だけで「楯の会」事件や三島の思想を片づけるべきものではないはずだ。

 そのようななか、事件直後より、まさしく「狂気乱心」といった事件評を厳しくいましめ、事件に強い衝撃をうけながらも、三島と同様の冷徹さをもって事件と三島由紀夫を見ていたのが、戦後神社界を代表する思想家・言論人である葦津珍彦であった。次に葦津の事件評を見ていきたい。

(つづく)