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戦後神道界と沖縄─昭和30年代沖縄「島ぐるみ闘争」に呼応した葦津珍彦と青年神道家たち

 「神社界の弁護士」「神道の社会的防衛者」を自任する葦津珍彦は、神社本庁の機関紙であり神社界を代表するメディアたる「神社新報」の主筆を務め、同紙にて多くの記事や論考を執筆した。

葦津珍彦と沖縄「島ぐるみ闘争」

 葦津はまた「神社新報」紙上において、「時局展望」なるコラムを長期間にわたって連載していた。昭和30年代、その「時局展望」(昭和31年[1956]6月30日付「神社新報」)において、葦津は「沖縄の同胞は起ち上がった 祖先の墓地はゴルフ場に」との記事を執筆し、この頃沖縄で発表された米軍基地に関する「プライス勧告」と、プライス勧告に抵抗するため沖縄で展開された「島ぐるみ闘争」について触れている。

葦津珍彦

 葦津は、沖縄では既に4万エーカーの土地が米軍基地として接収され、5万戸25万人の人々が土地を失ったとし、さらにこのたびの「プライス勧告」によって米軍基地の新規接収・拡大が認められ、その接収地の地代を一括払い、つまり事実上の買い上げ(固定化)が目指されていることについて、「アメリカ人の土地利用は、余りにも乱暴で贅沢すぎる」「島民としては到底きかれない勧告である」と米軍の横暴に憤り、沖縄の人々の過酷な状況へ思いを寄せている。

 なかでも葦津は神道家として、沖縄における伝統的祖先祭祀の要である「墓」に着目し、これらの墓が接収され改葬する間も無くブルトーザーで潰されていくことに深い同情を寄せている。そして墓が潰され、「痛恨の情、禁じがたい島民の目の前には、広々としたゴルフリンクやテニスコートや娯楽用のドライヴ・ウエーまでが造られて行く」と沖縄の現状を告発している。

 また葦津は、記事執筆の10年前に沖縄で戦われた熾烈な沖縄戦を紹介し、日本軍が沖縄の人々を過酷な状況に追いやったことに触れつつ、「この島の人たちは、文字どほり死力を尽くして米軍と戦ひ抜いた人々のみである。それだけにあまい考へはない。抵抗の決意は、沈痛にして強固である」とし、「島ぐるみ闘争」へ敬意を表す。

 他方、この頃、キプロスで流血の事態となった反英運動と比較し、沖縄の戦いは左右すべての組織が党派色を出さず、米国人個人を恨むものではないことを徹底していることを評価し、そうした「静かなる抵抗」の根底にある祖国復帰の念を取り上げた上で、「十年前に、女も子供も手榴弾をもって死守抵抗した同胞たちが、今や再び起ち上がった。だが今度は身に寸鉄をおびずして、ただ精神のみによる抵抗を決意してゐる」「かつての戦争では、沖縄の同胞を救援し得なかった日本政府も、今度こそは義務を果たすべきである。日本国民の人権を保護することは日本政府の当然の義務である」と結ぶ。

葦津珍彦と瀬長亀次郎

 葦津の沖縄への関心はこれに留まるものではない。それから1年半後、葦津は再び「時局展望」(昭和33年1月25日付「神社新報」)において沖縄関連の記事を執筆している。記事の見出しは「那覇市長選で反米派勝つ 試験される米国の自由精神」。沖縄人民党瀬長亀次郎と那覇市長選挙について紹介する。

瀬長亀次郎・兼次佐一と沖縄県民の怒りを論じる葦津

 昭和31年、沖縄人民党瀬長亀次郎が那覇市長となると、米軍は琉球銀行を通じて経済面で瀬長市政を妨害したばかりか、瀬長追放のための様々な策動を行い、ついに瀬長を失脚せしめた。そして昭和33年、後継市長を選ぶ選挙が行われると、米軍は露骨に反瀬長候補である社会大衆党平良辰雄を支持したのであったが、那覇市民は瀬長後継候補である兼次佐一を選び、兼次が市長に就任したのであった。

 葦津はこれについて「アメリカ人の心理作戦は、どこまでも可笑しい。選挙選のさなかに琉球銀行の総裁に声明させた。『もしも平良氏が、兼次氏を破って当選すれば、銀行は平良市長を援けてやる用意がある』といふのである。これは全くの逆効果をまねいた。(略)那覇市民の意志は、極めてはっきりと示された」とする。

 その上で葦津は瀬長市政を支え、その後継候補である兼次を市長に選出した那覇市民について、「米国に追従する市長ならば、却って市政は有利になるだらう。市民にも、それが分からないのではない。しかし市民は“合理的な計算”に反して兼次氏を勝たせたのである」として、米軍の横暴に抵抗し、米軍支配から脱却しようとする那覇市民そして沖縄県民の怒りはついに「合理的計算」を凌駕する域に達し、米軍を追いつめつつあるというのである。

 葦津はいう、「アメリカは、最後の決断を、せまられてゐる。沖縄の市民は、あくまでも抵抗する決意を、世界の前に重ねて表明したのである」「アメリカは、暴力的な流血政策をとらないかぎり、もはや市民を服従させる手段を見出し得ないところまで追ひこまれて来た」「われわれは、アメリカの自由を尊ぶ伝統の良識が、施政権返還へ大きくふみきることを、切に期待するものである」と。

 こうした葦津の分析は適確であり、その言には沖縄県民が置かれた悲痛な境遇への深い思いやりと心からの敬意が込められている。米軍はけして沖縄の怒りを抑えきることはできないし、米国が自由と民主主義の国である以上、沖縄の民意を尊重しなければならない─この葦津の主張は、現在においてなお意味を持つものである。

沖縄に呼応した青年神道家たち

 神道界の沖縄への強い関心や思い入れは、葦津一人に限られるものではない。

沖縄関連の記事が多数掲載されている昭和30年代の「神社新報」

 青年神道家の全国組織である神道青年全国協議会は昭和30年、その機関紙において「沖縄が米軍政下におかれ全島基地化が進行し10年、我々は我々の矢面に立ち犠牲となった沖縄にどれだけのことができたか」「不当の苦悩を負はされ、呻吟の日々を送る同胞七十万に対して手をつかねてゐて何の祖国復興、道義の恢復であらうか」「土地収用にからむ沖縄の人権問題に関しても、米国人の一弁護士からの指摘によって、初めて本土でこれを取り上げるといった不見識は、速やかに清算されねばならない」と述べ、米軍による土地の強奪と基地建設の強行に苦しめられている沖縄に思いを寄せている。

 また沖縄では昭和31年、先ほど紹介したプライス勧告に抵抗する「島ぐるみ闘争」が燃え上がるが、神道青年全国協議会はこの沖縄の闘いに呼応し、日本政府や米軍への要請・要請を行うことを決議している。さらに先だってお亡くなりになった翁長雄志前沖縄県知事の父で当時旧真和志市長であった翁長助静(じょせい)氏を招いて沖縄の現状を伺ったと当時の「神社新報」が報じている。

 現在、「米軍基地はもともとは何もないところに建設されたのだ」といったデマが流布されたり、「中国の脅威に対抗するためには沖縄に米軍基地があるのは仕方ない」といった言説が、「保守」の側から発信され、「保守」こそが米軍基地建設の推進役となり、沖縄への基地負担の増加や固定化を担っている。また沖縄戦の歴史修正が進み、日本軍による沖縄住民への迫害が否定され、沖縄住民が率先して沖縄を「救援」にきた軍に「協力」したという言説すら、「保守」の側からなされている。

 昭和30年代の神道家たちは、沖縄への深い思いと敬意があった。沖縄戦と基地問題に対してしっかりとした認識があった。日本政府の冷酷な沖縄への仕打ちを理解せず、心を寄せられない人々が「保守」などと名乗る現状に、葦津や当時の青年神道家の沖縄論をもって抗していきたい。