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【東京大空襲74年】戦災孤児収容施設「東水園」跡(旧品川第五台場)

 先の大戦での戦災孤児の収容施設「東水園」跡(現在の品川埠頭、旧品川第五・第一台場)を見学しました。

旧品川第五台場

 明日で東京大空襲から74年の年月が経ちますが、空襲や引揚げ途上での病気などで多くの子どもが両親や親類を亡くし、戦災孤児となりました。戦災孤児に対する行政の保護や福祉は充分ではなく、彼らは上野駅などに住み着き、やむをえず物乞いや盗みなどの犯罪によって生きていかざるをえませんでした。

 こうした戦災孤児を社会は「浮浪児」「駅の子」などと蛇蝎の如く忌み嫌い、時に侮蔑の眼差しで眺め、時に暴力を行使して彼らの居場所を奪っていきました。そして警察や行政は「刈り込み」と称した検束で戦災孤児を拘束し、収容施設に送り込みました。

 「東水園」もそうした収容施設の一つであり、占領軍と行政や警察が協議して設置したといわれています。管理者は東京水上警察署であり、そこから「東」と「水」で「東水園」と呼ばれたものと思われますが、警察による管理というところから、戦災孤児は実力で社会から隔離されるべき存在であり、治安上の危険因子と見られていたことがわかります。実際、この頃の第五台場(後に第一台場へ移転)は橋も架かっておらず、戦災孤児は事実上「島流し」にされたといえます。

昭和22年の品川台場周辺の空中写真 第五・第一台場が「島」であることがわかる

 また「東水園」での生活は厳しく、監督する警察官は鞭をふるって戦災孤児に懲戒をくわえたそうです。脱走する戦災孤児もいましたが、橋がないため対岸まで泳がざるをえず、溺死する事例もあったといわれています。

 現在、移転後の「東水園」があった第一台場には、外国人への様々な人権侵害が指摘されている東京入管があります。戦災孤児から外国人、社会にとって異質なものに対して徹底的に「刈り込み」を行い、「島流し」にして排除する日本社会の「かわらなさ」を垣間見たようです。

旧品川第五台場にほど近い東京入管