未分類

海軍沖縄方面根拠地隊司令官大田実海軍中将顕彰碑

 沖縄戦時、海軍沖縄方面根拠地隊など海軍部隊の司令官を務めた大田実海軍中将の顕彰碑(千葉県長柄町)を訪問しました。

大田中将の生家に建立されている顕彰碑

 大田実中将は千葉県長柄町に生まれ、海軍兵学校を卒業後、海軍の陸戦の専門家として上海事変などに出征した他、ソロモンやミッドウェイ攻略戦の海軍部隊による陸戦を指揮しました。

 昭和19年(1944)より海軍沖縄方面根拠地隊の司令官として沖縄に駐留する海軍部隊を指揮し、昭和20年の沖縄戦の地上戦開戦後は小禄飛行場(現那覇飛行場)周辺の防衛を担い、同年6月より小禄飛行場方面に上陸してきた米軍と激戦を展開し、同月13日未明、海軍司令部壕において自決しました。死後、少将より中将に昇進しました。

 自決直前の6日、大田中将は沖縄県知事にかわり、海軍次官宛てに軍が県民に何もできなかったなかで、沖縄県民がいかに戦争に動員され、窮状にあえいだかを伝える電報を打電しました。そして電報の最後に「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との言葉を添えました。

顕彰碑の碑文

 この「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の言葉は大変有名であり、県民を思いやる立派な言葉ですが、あくまでも戦争によってどれだけ沖縄県民が苦しんだか、そして軍が県民に何もできなかったを伝える電報の結びの言葉だということが理解されず、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の言葉だけが独り歩きしてるきらいがあることには注意しなければなりません。

 それとともに軍首脳として沖縄戦の指揮をとった大田中将自身が沖縄戦において沖縄県民のために何をしたのか、戦争を避け、住民保護に全力を尽くしたのかということも考える必要があります。県民への配慮は、沖縄戦において大田中将自身がするべきことであったはずです。そして大田中将が「御高配」を願った「後世」である現代を生きる私たちは、沖縄戦で犠牲になった沖縄に何を押しつけ、何を強いて、何を得ているのか、そのことも考えていく必要があります。