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令和元年6月23日 花瑛塾第18次沖縄派遣団(沖縄慰霊の日)

 花瑛塾第18次沖縄派遣団は沖縄戦における日本軍部隊が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる沖縄慰霊の日のこの日、戦跡や慰霊碑などを訪れ、全ての犠牲者に慰霊のまことをささげました。

アブチラガマでの慰霊祭

 早朝、沖縄戦犠牲者の遺骨の納骨場所であり、現在は慰霊碑となっている「魂魄の塔」(糸満市米須)を参拝しました。もともと同地で亡くなった戦没者の遺体・遺骨がそのままになっている状況で、同地に一時収容されていた真和志村民が遺骨を収容し、現在の「魂魄の塔」の場所に収容しました。後に遺骨は移され、慰霊碑となりました。なお「魂魄の塔」と名付けたのは翁長雄志前知事の父で収骨作業に尽くした助静氏といわれています。

 その後、「魂魄の塔」の付近のひめゆり学徒の一部が自決した荒崎海岸に向かい慰霊の念を捧げ、アブチラガマ(南城市糸数)での慰霊祭に参列しました。

 アブチラガマは陸軍病院の糸数分室(分院)が置かれ、ひめゆり学徒が不眠不休で負傷者の看護にあたったといわれています。もともとは住民の避難場所でしたが、日本軍が陣地とし、朝鮮半島出身の女性が「慰安婦」とされた「慰安所」まで設置されました。その後、沖縄陸軍病院糸数分室として利用されましたが、すぐに前線から後送される負傷者で満杯状態になったといわれています。

荒崎海岸

 戦局の悪化により陸軍病院が解散した後は、重傷者と一部の日本兵、そして避難住民の雑居状態となり、ガソリンや黄燐弾による米軍の攻撃をうけました。ガマから人々が投降したのは8月22日のことであり、ガマの外は少しずつ復興が始まり、ガマの内は緊迫状態という、戦中と戦後が同居したかたちになっていました。