花瑛塾第19次沖縄派遣団は19日、沖縄北部の伊江島を訪れ、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を見学した他、沖縄戦時、日本兵が避難生活を送ったニーバンガズィマール、米軍施設である伊江島補助飛行場を見学しました。
沖縄では昭和31年、事実上の米軍基地の固定化をいう「プライス勧告」の粉砕を訴える「島ぐるみ闘争」が沖縄全域で爆発しましたが、伊江島などではそれ以前より米軍による土地の強制的な接収がおこなわれ、伊江島闘争といわれる住民の戦いがおこなわれていました。
戦後、米軍は伊江島住民の家にガソリンで火をつけ、ブルドーザーでなぎ倒し、土地を強制接収し基地を建設していった。抗議する住民には容赦なく暴行をふるい投獄までしたが、阿波根昌鴻氏ら伊江島住民は「伊江島土地を守る会」を結成し、「団結道場」を拠点に抗議活動を続けたといわれています。
こうした伊江島住民の抗議活動が後の「島ぐるみ闘争」の淵源となっていきますが、「ヌチドゥタカラの家」は当時の運動の資料館であるとともに、住民が直面した米軍基地の被害や負担をあらわすパネルなども展示されています。
特にこの日は館長で阿波根氏のもとで学んだ謝花悦子氏より当時の状況や現在の様子などを伺った他、ご厚意で阿波根氏が生前タイヤで作ったベルトを身に着け、阿波根氏の「生き方」を分けていただきました。
その後、井上ひさしが原案の舞台「木の上の軍隊」のモチーフとなったニーバンガズィマールを見学しました。
沖縄戦により日本軍の伊江島守備隊は壊滅し、伊江島は米軍に占領され、住民は慶良間諸島や大浦崎など沖縄各地の収容所に隔離されましたが、少数の日本兵は残存し、米軍の目を盗んで逃亡生活を送りました。このガジュマルの樹でも二人の日本兵が約2年ものあいだ隠れ住んだといわれています。
伊江島補助飛行場は伊江島のほぼ中心に位置する滑走路です。この日、伊江島を縦断するかのような滑走路から米軍のパラシュート降下訓練を確認しました。もともと読谷飛行場で行われていたパラシュート降下訓練ですが、基地負担の軽減や読谷飛行場の閉鎖により、紆余曲折ありながらも伊江島に移転されました。こうして基地負担は沖縄北部に寄せ集められ、不可視化されてる状況にあります。
なお伊江島補助飛行場は開放され誰でも出入りが可能ですが、れっきとした米軍施設です。