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令和元年9月5日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(唐人墓、石垣島事件慰霊碑)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は5日、石垣島の観音崎にある唐人墓と、隣接する米軍飛行士の慰霊碑を訪れました。

唐人墓

 咸豊2年(1852)、中国からアメリカに向けて中国人奴隷を乗せて航行していた奴隷貿易船ロバート・バウン号で中国人奴隷が暴動を起し、船長や船員を殺害し船を乗っ取り石垣島に漂着した事件が起きました。

 琉球王国は詳細がわからず、中国人奴隷を保護して収容しましたが、これを発見したイギリス船が収容所を砲撃し、さらに上陸の上、中国人奴隷を殺害するなどしました。また米国船が石垣島に上陸し、中国人奴隷を探索することもありました。琉球王国は米英軍の攻撃を免れた中国人奴隷を再び保護して収容しましたが、収容所の衛生状態も悪く、そこでも中国人奴隷が命を落とすこともありました。

 唐人墓はこうして犠牲になった中国人奴隷を弔うため、昭和46年(1971)に建立されました。

 米軍飛行士の慰霊碑は、戦時中の石垣島事件で亡くなった米軍飛行士の慰霊碑です。

 沖縄戦時、石垣島では連日米英軍が空襲をおこなっていましたが、昭和20年(1945)4月15日午前9時頃、対空砲撃により米軍機が撃墜され、搭乗員の米兵3人は海軍石垣島警備隊によって捕虜になりました。午後3時頃からバンナ岳の麓の警備隊司令部で捕虜への尋問が開始され、その日の午後6時頃に全員殺害されました。この米軍捕虜殺害事件を石垣島事件といいます。

 殺された米兵はバーノン・L・ディボー中尉(28歳、操縦士)、ウォーレン・H・ロイド兵曹(24歳、通信員)、ロバート・ダグル・ジュニア兵曹(20歳、機銃操作)。

米兵殺害・遺体遺棄現場(手前)と海軍石垣島警備隊司令部跡のバンナ岳(奥)

 捕虜については、日本軍の沖縄守備隊は陸海軍とも当初は沖縄本島に送致しており、戦闘の激化に伴い台湾へ送致することになっていましたが、海軍石垣島警備隊司令井上乙彦大佐は、台湾への送致の困難や部隊の士気向上のため捕虜の殺害を企図し、警備隊司令部の南にあった照空隊の駐屯地に長さ4メートル、幅1.5メートル、深さ1.5メートルの遺体を遺棄する穴を準備して100人以上の将兵を召集しました。そして将校がディボー中尉とダグル兵曹を軍刀で斬首し、ロイド兵曹は棒に縛りつけられ集団で殴打された上で40人もの下士官・兵により銃剣で刺殺されたといわれています。

 敗戦後、捕虜殺害という戦争犯罪の発覚を恐れた井上大佐は遺体を掘り起こし、火葬した上で遺灰を海に流し、丁重に葬ったかのように3人分の十字架を建立するよう命じました。こうして事件は隠ぺいされたが、GHQに事件の全貌について情報提供がなされ、井上ら7人が戦犯として絞首刑となりました。

 こうして殺害された米軍捕虜を弔うため、慰霊碑が建立されました。今でも捕虜が殺害された4月15日には、慰霊祭がおこなわれてます。

石垣島事件慰霊碑