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令和元年10月1日 花瑛塾第20次沖縄派遣団①(ババハルさん追悼、沖縄戦関係史跡訪問)

 花瑛塾第20次沖縄派遣団は1日、石垣島の川平湾付近の日本軍慰安所で「慰安婦」とされたババハルさん(馬場ハル? 出身地など詳細は不明)の埋葬地を訪れ、慰霊・追悼しました。

ババハルさん埋葬地

 ババハルさんは戦時中、川平湾付近の日本軍慰安所で「慰安婦」として働かされましたが、何らかの事情で命を落とし、日本兵により川平の底地ビーチにほど近いこの場所に埋葬されました。

 沖縄戦が終わり、兵士たちは戦死した戦友の遺骨は持ち帰りましたが、「慰安婦」であったババハルさんのことなど気にもかけず復員していきました。ババハルさんは今なおこの地で一人さみしく眠っています。

 そもそも川平湾には沖縄戦時、米軍上陸に備え、海軍の特攻艇部隊である第19震洋隊(隊長:大河原茂美中尉)が駐屯し、川平湾の海岸に特攻艇を秘匿し、湾内で特攻艇作戦の演習をおこなうなどしていました。ババハルさんはこの海軍部隊による慰安所で働かされていたといわれています。

川平湾

 なお、特攻艇秘匿壕の建設には、朝鮮半島出身の徴用工も多く働かされたといわれています。また川平湾に海軍震洋隊が駐屯し、特攻艇が秘匿され、秘密作戦である特攻艇作戦が川平湾で演習されるにあたり、軍は付近の住民を強制的に疎開させようとしました。

 住民たちはこれに反撥したところ、軍は川平湾を集落から見えないよう遮蔽垣を設置すれば疎開しなくてもいいとしました。つまり、軍のいう疎開とは、けして住民保護のための措置ではなく、軍の機密保護のための措置であったということがよくわかります。

 このように住民を軽視し、軍を最優先させ、あらゆるものを戦争に動員していった日本兵たちは、ババハルさんに辱めの限りを与え、命を落とした彼女をここに埋め、思い出すこともありませんでした。しかし全ての日本兵が彼女のことを忘れようとも、私たちはババハルさんのことを永遠に忘れません。

 その後、石垣市のサザンゲート公園に建立されている「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」を訪れました。

伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑

 伊舎堂中佐は沖縄戦時、陸軍第8飛行師団誠第17飛行隊の隊長として僚機とともに石垣島の陸軍白保飛行場から出撃、慶良間諸島沖の米艦船に向けて航空特攻をおこない、戦死しました。

 沖縄では昭和18年、ガダルカナル島の戦いで戦死した大舛松市大尉が「軍神」として語られ、この軍神大舛伝説が「大枡大尉に続け」と戦意高揚や精神的な精神動員に使われ、沖縄戦の住民動員の一つの背景となっていきます。

 現在、伊舎堂中佐の航空特攻による戦死は、沖縄県民こそが郷土沖縄を守るため、沖縄戦を積極的に戦ったのであるという沖縄戦歴史修正主義の文脈で語られ、第二の軍神大舛の英雄譚とされようとしています。

 しかし伊舎堂中佐も大舛大尉も戦争は絶対に繰り返して欲しくない、戦争と戦争につながる一切を沖縄に置いてはならないと私たちに伝えているはずであり、平和の神として両者に向き合っていくべきではないでしょうか。