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令和元年10月2日 花瑛塾第20次沖縄派遣団②(波照間島沖縄戦関連史跡)

 花瑛塾第20次沖縄派遣団は2日、有人島として日本最南端の波照間島(沖縄県八重山郡竹富町)を訪れました。

 波照間島は南国の日差しと気持ちのいい海風に包まれ、自然豊かで赤瓦と石灰岩やサンゴの石垣といった昔ながらの家並みの残る穏やかな島ですが、沖縄戦時、「山下虎雄」を名乗る陸軍中野学校出身諜報要員である軍曹の酒井喜代輔(酒井清とも)が送り込まれ、島を恐怖支配し、多くの住民が犠牲になりました。

 以下、見学した波照間島の沖縄戦関連史跡などをご紹介します。

美しい空と海のニシ浜
カツオ工場跡

 波照間漁港近くにはサトウキビの製糖工場がありますが、かつて製糖工場の周囲には初福丸や大福丸、昭洋丸などカツオを燻製しカツオ節などにするカツオ工場が多数ありました。波照間島はカツオ漁が盛んで、島民はカツオ漁と農業の半農半漁で生計を立てていましたが、戦況が悪化しカツオ工場の煙突が空襲の目標になりやいとして、煙突が撤去されるなどしました。

 こうして穏やかな島が戦争に巻き込まれる中で「山下虎雄」が島にやってきます。

付近にカツオ工場があった製糖工場
山下虎雄と広井修獣医少尉、食肉業者の宿泊先

 西表島でゲリラ戦部隊である第二護郷隊第四中隊付であった山下虎雄は、波照間の冨嘉集落の西島本家に下宿しました。また冨嘉集落には、後に島の家畜を奪って解体し食肉にする広井修獣医少尉および食肉業者も宿泊しました。

 青年学校指導員として島に着任した山下は、子どもを可愛がり島民の歓心を買い、島はあまり人の往来がないため一部の島民から怪しまれながらも、島民から「山下先生」と呼ばれ親しまれた。特に島は男手は兵隊にとられていたため、島の女性や子どもたちは山下の来島を喜んだそうです。

 しかし実際の山下は住民の動向を監視したり、ゲリラ戦を展開し米軍の後方攪乱を任務とする「離島残置諜者」といわれる諜報要員であり、人目につかないところでは島の調査に余念がなかった。

山下が宿泊した冨嘉集落
ケーパル山

 昭和20年4月、沖縄島に米軍上陸後、山下は島民に西表島への疎開を命令しました。波照間島はマラリア無病地でしたが、西表島はマラリア有病地であり、島民は西表島への疎開に反対しました。そうすると山下はこれまでの態度を豹変させ、軍刀を振り回して島民を脅迫し、島民から尊敬されていた巡査を殴りつけ、「疎開に反対する者は全員斬る」「井戸に毒を入れて島に住めなくする」などと言い放ちました。やむなく島民のうち集落の有力者同士がケーパル山の避難所で話し合い、西表島への疎開を決めました。

ケーパル山
島の暮らしを支えた家畜が食肉にされ骨などを燐鉱山跡地

 西表島への島民の疎開が決まると、軍は住民に牛や山羊などの家畜を強制的に供出させ、獣医少尉や食肉業者を派遣し、家畜のほとんどを奪って解体した上で食肉にし、石垣島の司令部に送りました。軍は同じく八重山の黒島でも同様に家畜を供出させ解体し食肉にしており、波照間島の島民を疎開させ、家畜を奪うことが軍の強制疎開の狙いの一つであったことが推測されます。

 島は農業の際に牛を使うなどしており、一世帯で数頭の牛を飼うなど、島には多くの家畜がいました。そのためフルマヤマのヤラブ林で行われた家畜の解体は凄まじく、おびただしい家畜の血液でヤラブの木が立ち枯れしたともいわれます。また解体した家畜をきちんと埋めることもできず、フルマヤマには家畜の骨や体の一部が山となり、むごたらしい光景になった他、ハエが異常に大量発生したといわれています。

 戦後、フルマヤマに山となった家畜の骨を燐鉱山跡地に集め、あらためて埋めました。

家畜の骨などを集めて埋めた燐鉱山廃鉱
島民を埋葬したサコダ浜

 西表島へ疎開すると、島民は危惧していた通りマラリアに罹患し、犠牲者が続出した。しかし沖縄戦の組織的戦闘の終結と米軍の沖縄戦終結宣言などをうけ、生存者は波照間島へ帰島しました。しかし家畜の供出や畑の荒廃などにより島に食糧はなく、島民は引き続き栄養状態の悪い中で西表島で罹患したマラリアに波照間島においても苦しめられ、西表島疎開時以上に島民は犠牲となりました。

 犠牲者は当初は墓地に埋葬するなどしましたが、島民の98%がマラリアに罹患する状況でそれもままらなず、波照間漁港に近いサコダ浜に埋葬されました。丁重な埋葬とは到底いえない無残な最期でした。

サコダ浜
識名信升校長と波照間国民学校

 旧波照間国民学校の識名信升校長は、山下に脅されても屈することなく、石垣島の司令部と交渉し、島民の西表島から波照間島への帰島を指揮しました。識名校長は軍刀で島民を威嚇し続けた山下に「斬るなら私を斬りなさい!」と立ち向かい、山下は識名校長に恐れをなし、何もいえなくなりました。識名校長は西表島の疎開地の海岸の石に「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻みました。この惨劇を忘れてはならないという識名校長の決意が読み取れます。

 なお波照間国民学校は後に波照間小学校となり、波照間小学校創立90周年記念事業として島に「学童慰霊碑」が建立されました。慰霊碑は西表島を臨む場所に建立され、碑文には「山下軍曹の行為は許しはしようが然し忘れはしない」とあります。「忘勿石」とともに、「忘れない」ということがどれだけ重要なのか思い知らされます。

旧波照間国民学校(波照間小学校・中学校)
ソテツ祭と大泊海岸

 戦争後、島の大泊海岸でソテツ祭(ソテツ感謝祭)が行われました。帰島後、食料不足に悩まされた島民は、島のソテツを切り倒し、実はもちろん幹からデンプンを抽出して食し、栄養を摂取したといわれています。昭和23年夏、島の復興が一定の目途がたち、冨嘉集落の住民を中心に命をながらえさせてくれたソテツへ感謝するソテツ祭が行われましたが、戦時の悪夢が復活する呪術のようで気味が悪いとして参加しない島民も多くいたといわれ、ソテツ祭はこの一回きり行われただけといわれています。

大泊海岸