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令和元年10月3日 花瑛塾第20次沖縄派遣団③(西表島沖縄戦関連史跡)

 花瑛塾第20次沖縄派遣団は3日、西表島の沖縄戦関連史跡などを見学しました。

 イリオモテヤマネコやカンムリワシなど希少生物が生息し、海も山も美しいこの島にも沖縄戦時、重砲兵部隊やゲリラ戦部隊の護郷隊、海軍特攻艇部隊などが配備され、陸軍病院や慰安所も設置されるなど、戦争に巻き込まれていきました。また波照間島・鳩間島・黒島・竹富島などの住民が強制的に疎開させられ、マラリアに罹患し犠牲になりました。

 以下、見学した西表島の沖縄戦関連史跡をご紹介します。

祖納の慰安所

 西表島の祖納集落には陸軍中野学校出身諜報要員に率いられた沖縄北部のゲリラ戦部隊である第2護郷隊の隷下部隊である第4中隊(今村隊)や陸軍重砲兵第8連隊北村隊が駐屯していたこともあり、現在の祖納集落にある西表西部診療所付近に日本軍慰安所が設置され、数名の女性が「慰安婦」として働かされていた。「慰安婦」とされた女性は日本人ばかりでなく、朝鮮半島出身もいたといわれる。

付近に慰安所があった祖納の西表西部診療所
祖納集落の第2護郷隊今村隊本部付近

 西表島や波照間島など八重山の島々の青少年を召集し編成された第2護郷隊第4中隊(中隊長:今村武秋少尉)は、祖納集落の慰安所近くに隊舎を構えた。そして万一、米軍が西表島に上陸してきた際には祖納の集落を焼き払い、祖納岳など山中に住民を避難させ、山中の陣地を拠点にゲリラ戦を展開する作戦であった。

 実際に沖縄島では第1護郷隊などが名護の集落を焼き払うゲリラ戦を展開している。集落を焼き払ったのは、その集落出身の青少年であり、護郷隊の少年兵たちは自分の故郷や実家に火をつけなければならなかった。

 西表島でもこうした悲劇が繰り返される可能性があったが、いずれにせよ「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の典型例がここでも確認できる。

護郷隊今村隊本部跡
白浜集落の憲兵隊の隊舎および慰安所付近

 西表島の白浜集落には憲兵隊の隊舎や慰安所が複数箇所あり、朝鮮・台湾・沖縄の女性が「慰安婦」として働かされていた。将校は白浜の慰安所の「慰安婦」を現地妻とし、現地妻にされた「慰安婦」は住民から「司令官の奥さん」と呼ばれることもあった。また集落の女性に勤労奉仕として洗濯などの世話係を命じ、性的関係を迫ることもあった。

白浜の慰安所跡周辺
白浜港から見る内離島と外離島

 内離島(うちばなりしま)および外離島(ふかばなりしま)には重砲兵部隊の本部が置かれた他、陸軍病院や慰安所なども設置された。沖縄戦以前から軍はこの地を重視し、要塞司令部を置き、高射砲隊などを配備するなどした。陣地構築作業には西表島の島民の他、朝鮮半島出身者も動員されたといわれている。

内離島
波照間島や竹富島の島民の一部が疎開した由布島

 マラリア有病地の西表島から少し離れた由布島はマラリア無病地であった。波照間島に送り込まれた諜報要員の山下虎雄(偽名、本名は酒井喜代輔)は、マラリアを恐れて西表島への疎開を嫌がる波照間島民を脅して強制疎開させたが、疎開後、実際に西表島でマラリアが発生すると、山下は何人かの波照間住民を連れてマラリア無病地の由布島に住んだ。

由布島
南風見田海岸の「忘勿石」と識名信升氏の像

 波照間島民の多くは西表島の南風見田集落に疎開した。西表島の南部の南風見田の集落からは、波照間島を臨むことができ、洞窟も多く空襲を避けることもできたため、ここに疎開したといわれる。しかし南風見田はマラリア有病地であり、梅雨の時期に入るとマラリアが発生した。

 波照間国民学校の識名校長は、南風見田の海岸で青空教室の授業を続けるとともに、山下と対峙し、波照間への帰島を指揮した。識名校長は、悲劇を忘れること勿れとして「忘勿石(ワスルナイシ、ワスレナイシ)」と海岸に刻み、後に記念碑が建立された。

識名校長が刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字

 なお、記念碑を訪れた際、前面の銘板が崩落し、周囲に散乱していた。先月25日には記念碑前で慰霊祭が行われたが、その際は何もなかったので、その後崩落したものと思われる。台風や波などによって崩落したものと信じるが、チビチリガマが荒らされた事件もあり、人為的な破損という可能性もないとはいえない。

 すでに竹富町教育委員会には通報したが、速やかな復旧をお願いしたい。

銘板などが崩落した記念碑