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令和2年2月17日 花瑛塾第23次沖縄派遣団①(黒島沖縄戦関連史跡見学)

 花瑛塾第23次沖縄派遣団はこの日、沖縄県の八重山諸島の黒島を訪れ、沖縄戦の戦争遺跡や関連個所を見学しました。

「第28回黒島牛まつり」が告知されている黒島の港

 沖縄戦において、黒島には米軍の上陸やそれに伴う地上戦などはありませんでしたが、米軍が黒島に飛行場の建設が可能であると判断していたこともあってか、面積の上でも人口の上でも比較的小さい島ながら、たびたび米軍の空襲に見舞われました。

 また黒島には日本軍部隊の駐屯はありませんでしたが、「黒島国民学校教員山川敏雄」を名乗る陸軍中野学校出身諜報要員河島登軍曹が昭和20年2月ごろ、「離島残置諜者」として島に送り込まれ、住民を指揮するなどしました。

河島軍曹が宿舎とした民家がある集落

 沖縄島に米軍が上陸した昭和20年4月以降、黒島の住民は河島軍曹の指揮で西表島に疎開しましたが、西表島はマラリア有病地であり、また食糧事情も悪く、住民は疎開により苦しんだそうです。

河島軍曹が教員として送り込まれた旧黒島国民学校(現在の黒島小中学校)

 また、疎開にあたり、「暁部隊」といわれた日本軍の船舶部隊や軍の獣医、と殺技術者が島を訪れ、島で当時約1600頭も飼育されていた牛を接収してと殺し、塩漬けにして石垣島の軍司令部に送ったといわれています。そもそも軍は島の牛を奪い、食糧とするためと殺がおこなわれた島の伊古の海岸は、おびただしい牛の骨が山積みとなる異様な様相だったそうです。

牛のと殺が行われた伊古の浜

 黒島は現在も住民の数より牛の数が多い島として有名であり、毎年2月の最終日曜日には「黒島牛まつり」というイベントも開催(今年は23日に開催予定)されていますが、黒島の沖縄戦に関する史跡や関連個所を見学し、黒島の牛に関わる悲劇の歴史を学びました。