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令和2年2月18日 花瑛塾第23次沖縄派遣団②(竹富島沖縄戦関連史跡見学)

 花瑛塾第23次沖縄派遣団はこの日、八重山諸島の竹富島を訪れ、竹富島に残る沖縄戦関連史跡を見学しました。

大石隊「慰霊之塔」

 米軍の上陸が現実のものとなりつつあった昭和19年(1944)12月、石垣島に配備されていた独立混成第45旅団の第301大隊第1中隊(隊長:大石喬中尉)が竹富島に配備された。人口1200人程度の島に150人もの部隊が駐屯することになり、のどかな島にも緊張が走りました。

 大石部隊は接収した竹富国民学校を兵舎とし、その付近の住宅も接収され中隊本部や大石隊長の宿舎となりました。

旧竹富国民学校

 米軍は竹富島には「4000フィートの滑走路が適している」などと報告しており、竹富島を制圧する何らかの意志や関心があったと考えられます。日本軍も米軍は石垣島上陸の前進基地として竹富島を攻略する可能性があるとし、米軍上陸の可能性が高いと見られた島の南海岸に銃眼を設置するなどしました。

島の南海岸に残る銃眼

 その他、住民のうち男子青年は「くろがね隊」として、女子青年は「薫風隊」として集められ、竹槍訓練や急造爆雷を背負っての敵戦車への自爆攻撃の訓練などに動員された他、防空壕掘りや陣地構築作業などにもかりだされました。

竹富町出身戦没者「慰霊之塔」

 米軍の上陸が間近となると西表島への疎開もおこなわれ、住民は疎開先で飢えや病気に苦しめられたといわれています。