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令和2年2月19日 花瑛塾第23次沖縄派遣団③(石垣島沖縄戦関連史跡)

 花瑛塾第23次沖縄派遣団は19日、石垣島の沖縄戦関連史跡を見学しました。

 はじめに石垣島の最北端である平久保にある海軍特設見張所を見学しました。

見張所は正面の山の山頂にあった 現在は立入禁止

 平久保の海軍特設見張所は昭和18年(1943)に大島防備隊により平久保﨑の灯台近くに設置されました(後に安良岳に移転)。見張所には八角形の監視廠やアンテナなどが設けられた他、付近には兵舎が建てられ10人ほどの兵士が常駐していたそうです。

 海軍特設見張所は翌年10月、沖縄一帯を襲った十・十空襲の3日後の空襲により炎上しましたが、見張所はその際、状況報告の電信を発したといわれています。特に十・十空襲においては各地の見張所や部隊が様々な電信を発し、それは日本全体に飛び交いました。米軍は十・十空襲において、こうした電波を傍受し、暗号解読などに役立てたといわれており、物理的な戦闘の背景で熾烈な情報戦が繰り広げられていたことは注目すべきことです。

 その後、登野城小学校正門横にある奉安殿跡を見学しました。

旧登野城尋常高等小学校の奉安殿

 奉安殿とは戦前、天皇皇后両陛下の御真影や教育勅語を安置しておく施設で、奉安殿や奉安室として各学校に設置されました。

 沖縄戦において、こうした御真影の奉護は非常に重要な課題であり、校長や教職員による奉護隊が結成され、沖縄島では北部に奉護壕がつくられるなどしました。石垣島でも御真影が集められ、白水につくられた奉護壕に安置され、校長などが管理したといわれています。

 沖縄には他にも沖縄市と宮古島市に奉安殿が残っています。戦後、「本土」の奉安殿はGHQの神道指令によりほとんど破却されましたが、沖縄は米軍の軍政下にあったため、皮肉なことにこれらの奉安殿が残ることになりました。沖縄では戦前の宗教関係法令である宗教団体法も戦後しばらく残るなど、「本土」とは異なる戦後の歩みがありあす。