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令和2年5月15日 五・一五事件88年 犬養毅・頭山満墓参

 五・一五事件より88年を迎え、事件実行犯の海軍青年将校三上卓らによって殺害された「木堂」犬養毅元首相の墓所(青山霊園)をお参りしました。

犬養元首相の墓所

 事件で殺害された犬養元首相は、冷徹なリアリストであり、徹底した「帝国」の宰相でしたが、一方で中国革命を支援し、孫文の日本亡命の最大の支援者となるなど、中国人革命家と結ぶ豪傑肌の亜細亜主義者でもありました。犬養元首相を殺害した青年将校も犬養元首相を畏敬しており、犬養元首相への個人的な怨みは全くなかったと述べています。三上は戦後、犬養元首相の御霊も含め、事件関係者の慰霊祭をおこなうこともありました。

 それではなぜ犬養元首相が殺害されたかというと、国家改造を訴える青年将校にとって、犬養元首相は権力の象徴であり、そのために殺害されたといわれています。すなわち海軍青年将校らにとって、軍に圧迫を加える政党政治と、それを支える特権階級を打倒することこそ国家改造であり、その象徴として時の首相つまり犬養元首相が狙われたと指摘されています。

 他方、政党政治の終焉は、五・一五事件によって直接的に打倒されたというよりも、事件がある種の引き金となり、政党、元老、軍部、そして天皇など、様々な思惑が入り乱れるなかで、「憲政の常道」が破綻し、各方面による挙国一致・非政党内閣としての斉藤実内閣が誕生していったといわれています。

 事件により軍部が台頭し、戦争へと突き進んでいったと一言でまとめられるほど事件は単純なものではなく、また犬養元首相と青年将校らの関係も敵と味方とざっくりくくれるほど単純なものではなく、歴史の事実を学んでいく必要があるのではないでしょうか。