国家公務員法改正と検察庁法改正について、政府・与党が今国会での改正を見送った。与野党国対間では次回国会への継続審議で一致したそうだ。
検察庁法改正の問題についてはこれまで何度も取り上げてきたことであり、ここであらためて繰り返さないが、かかる問題の多い検察庁法改正が見送られたことは、継続審議でいいのかどうか議論は様々あるとしても、ひとまず了としたい。
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新型コロナウイルス感染症の蔓延にともない、国全体として早急に様々な対策をとる必要に迫られているなか、今どうしても検察庁法改正をやらねばならないのかとの批判が高まっていた。
こうした批判に対し、安倍首相は「地方自治体での条例成立などの観点から、今国会で改正しなければならない」と説明していたが、結局はこのたびの見送りにより、不要不急の改正案だったということを政府・与党みずから暴露した。
他方、検察官も含む国家公務員の定年引き上げそのものは野党も認めており、国民的なコンセンサスも得られている。批判は検察官の定年に関する勤務年長などの内閣の特例措置であり、国家公務員法改正と検察庁法改正を一括して見送ったのは不可解極まりない。定年引き上げは必要なのだと強調してきたこれまでの政府答弁や、それに対し理解を示してきた野党、そして国民的の声に対し、大変不誠実といわざるをえない。
また、そもそもの発端ともいえる今年一月末に閣議決定された東京高検黒川検事長の勤務延長の違法性は解消されておらず、検察庁法改正を見送るだけで済む問題ではないことはしっかりと確認したい。
政府・与党は黒川検事長の違法な勤務延長を取り消すとともに、特例措置により検察官人事への内閣の恣意的な介入を許す検察庁法改正案を廃案とし、国家公務員法の改正とは切り離した上で、野党の対案なども検討・研究しつつ、あらためて上程するべきだ。
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このたびの検察庁法改正については、多くの市民が反対の声をあげたり、疑問を示した。その一方で、日本維新の会と大阪維新の会の代表である大阪市松井一郎市長は、SNS上で「自公は圧倒的な議席を持っている。政局ごっこしても成立するのならば、付帯決議によって権力を牽制するのが少数野党の役割」などと述べた。
志位さん、自公は圧倒的な議席を持っているんです。政局ごっこしても可決成立するので有れば、付帯決議を付け権力を牽制するのが少数野党の役割です。 https://t.co/o6DAqnh4Gi
— 松井一郎(大阪市長) (@gogoichiro) May 17, 2020
こうした権力への屈服と現状追認のどこが「維新」なのかはなはだ疑問であるが、それはともかくとしても、圧倒的な議席を有する与党と民意を無視し悪政を敷いてきた政府を、市民の声が動かしたのである。市民が松井市長とは逆に権力に屈服せず、現状を追認しなかったからこそ事態は動いたのだ。松井市長は今、何を思っているのだろうか。この動きをどう言い訳するのだろうか。全く情けなく、つまらない男といわざるをえない。
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官僚人事を掌握し、政権におもねる官僚を重用することが安倍政権の求心力の源泉であったが、今回の見送りにより安倍政権の官僚統治の歯車は狂った。政権崩壊の序曲といっても過言ではなかろう。
黒川検事長の違法な勤務延長と検察庁法改正に関する検察OBの意見書の一節には、「法が終わるところ、暴政が始まる」とのジョン・ロックの言葉がひかれていたが、まさに安倍政権は法を終わらせ、民主主義を停止させ、暴政をほしいままにしてきた。
しかし「桜を見る会」の問題一つとっても、国会議員が国会で追及し、マスコミがメディアで追及し、市民が街頭で追及すれば、安倍首相の目は途端に泳ぎ始める。安倍政権を攻略する道は、ここにあるのだ。
占領からの独立間も無く、法相による指揮権が発動された造船疑獄における検察の捜査について、戦後神社界を代表する言論人である葦津珍彦は、次のように述べている。
現状より判断すれば、われわれは司法検察当局の勇断を切に望まざるを得ないけれども、政党の腐敗が国民自らの政治勢力によつて粛清されないで、この粛清が、主として検察司法官僚に依存せねばならぬと云ふ事は、最も深く考ふべきところではあるまいか。──神社新報、昭和29年3月1日
河井克行・案里夫妻の疑惑なども含め、検察の捜査に期待する向きもあるが、検察はけして正義のヒーローではなく、検察もまた強大な捜査権限を持つ捜査機関・公権力であり、市民がしっかりとチェックをしなければならない。
大事なことは、葦津のいうように、何よりもまず国民の声を聞くしっかりとした政治が行われるべきだということであり、それは法を終わらせることなく、民主主義を生かしていくということである。
法を終わらせず、民主主義を生かすことにより安倍政権を倒し、全ての人々が豊かである国にしていきたい。