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令和2年12月8日 対英米開戦79年 大東亜戦争開戦の意義を問い直す

 対英米開戦から79年の今日、千葉県館山市内に残る先の大戦に関するいくつかの戦争遺跡を見学しました。

 館山は東京湾に面し防衛上の要地であるとともに太平洋に近い戦略上の要地であり、軍事上の重要な拠点でした。実際に館山には海軍館山航空隊(「館空」)や海軍砲術学校(「館砲」)などが置かれていました。

 戦局が悪化し本土決戦が現実味を帯びると、館山の軍事的重要性は高まり、上陸する米軍を迎撃するための様々な部隊が配備され、軍事施設が建設されていきました。

 本土決戦が回避され、昭和20年(1945)9月2日に戦艦ミズーリ号で降伏調印式がおこなわれると、翌3日に横浜と館山に米軍が上陸し、占領を開始します。特に館山に上陸した米軍は、数日間ですが館山の地に軍政を敷きました。これは沖縄以外では本土で唯一の措置であり、いかに米軍が館山の軍事的重要性を理解し、また警戒していたかということがわかります。

 以下、見学した戦争遺跡を簡単に紹介します。

米軍上陸の地、海軍館山航空隊水上班滑走台跡

 戦艦ミズーリ号での降伏調印式の翌日の昭和20年9月3日、「館空」の水上機の滑走台に米陸軍第8軍第11軍団の3500名が上陸用舟艇で上陸し、館山の地を占領するとともに数日間ながら軍政を敷きました。これは沖縄以外で本土唯一の直接軍政でした。「館空」は現在の海上自衛隊館山基地となっており、滑走台跡は同基地に隣接する造船所内に現存しています。

水上班滑走台跡
海軍赤山地下壕

 「館空」の南側の小高い山である赤山には全長2kmもの巨大な地下壕があり、海軍航空隊の通信所や航空兵器の開発拠点、あるいは「館空」の対空砲台の指揮所などとして使用されていたといわれています。赤山地下壕に関する資料は全く残っておらず未詳な点も多いですが、司令部や野戦病院などと考えられる形状の壕も残っており、大規模な航空要塞だったと考えられます。なお地下壕は全て人力、道具はツルハシのみで掘られており、壁にはツルハシで掘った窪みが見えます。

 また赤山地下壕の近くには軍用機を隠す掩体壕がありますが、こうした掩体壕と赤山地下壕は連動し、赤山地下壕での航空兵器の開発のために使用される軍用機の掩体壕であったと考えられています。

ツルハシの跡がはっきりと残る赤山地下壕
第59震洋隊特攻艇秘匿壕、出撃地跡

 終戦間近の昭和20年7月、館山の波左間に第18突撃隊隷下として第59震洋隊総員176名が配備されました。また波左間の隣の洲崎地区には第59震洋隊の分隊が配備されました。

 震洋隊とは海軍の特攻艇「震洋」を使用し、夜陰に乗じて敵艦に体当たりして自爆攻撃を行う特攻部隊です。特攻艇は普段、秘匿壕に格納し、有事の際は秘匿壕から特攻艇を海上に前進させ、敵艦めがけて出撃することになっており、第59震洋隊は本土決戦のため米軍の軍艦が近づいてきたら出撃する予定となっていました。

震洋出撃地 桟橋状のブロックをつたって出撃する

 以上のように館山の戦争遺跡を見学しましたが、これほどまでにして戦われた先の大戦とは一体なんだったのでしょうか。

 昭和16年12月8日未明、日本陸軍第25軍はマレーシア・コタバルのサバク海岸に上陸し、英軍と交戦状態に突入しました。その数時間後、日本海軍機動部隊はハワイ真珠湾の米艦隊を攻撃しました。また上海の租界の接収、香港への突入、フィリピン攻略の開始などの軍事作戦も始まり、先行する中国戦線も含め、ここに英米蘭などの国と「大東亜戦争」と呼称される戦争が開戦されました。なお、この戦争については、最近では歴史学的な立場から「アジア太平洋戦争」などと称される場合もあります。

 開戦の背景には、昭和12年からの日中戦争の行き詰まりと、対日禁輸政策など日米交渉の難航といった危機的情勢があります。東南アジアへの進出により状況の打開をはかった日本ですが、いっそうの世界的孤立を強めていきました。同時に、当時の世界情勢はドイツがフランスを降伏させ、英国およびソ連と戦争状態にあるなど急展開しており、日本は急速に対英米開戦に傾いていったのです。

 対英米開戦時の日本の軍事戦略と終戦構想は、東南アジア一帯を勢力圏とし、重要資源を確保し、ドイツがソ連と英国を降伏させた上で、米国と講和を締結するというものでした。しかし既にドイツは対ソ戦で敗走を始めており、開戦前において日本の軍事戦略と終戦構想は崩壊していたともいえます。

 それでも開戦された戦争の初期、日本軍は東南アジア各地に進出し、軍政を展開しました。軍政の第一目標は石油などの重要資源の確保と日本への輸送であり、第二目標は現地に展開する日本軍のための物資獲得でした。これにより現地住民の生活や経済に大きな負担をもたらしました。

 日本の終戦構想が東南アジアにおける勢力確保であり、中国戦線のために蒋介石率いる国民党を援助する援蒋ルート遮断が重要戦略に位置づけられるなど、コタバル上陸作戦が真珠湾攻撃に先立つこともふくめ、この戦争は「アジアの戦争」であったということができます。

 事実、日本は昭和18年に大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を発出し、アジア解放とアジア諸国の互恵・平等を宣言します。またそこで、日本を盟主としアジアを従属させる意味合いの強かった「大東亜共栄圏」構想を放棄し、「大東亜同盟」構想ともいうべきアジア諸国の対等・独立を目指します。

 大東亜共同宣言は、連合国による大西洋憲章に対抗する意味もあり、フィリピンやビルマの独立を認めるなど、内容そのものは先進的な価値を有しています。しかしインドネシアの民族主義者スカルノなどは会議に招請されず、また日本はジャワやセレベスといった戦略的要所は日本領とするなど、問題も存在していました。

 ソ連の反撃とドイツの敗走という戦略的の崩壊とともに、真珠湾攻撃では日本海軍潜水艦部隊が何らの成果をあげられず、マレー沖海戦では航空作戦を用い英軍の戦艦を撃沈させながらも、日本軍攻撃機の被弾率が40パーセントを超えるなど、連合軍の防空能力の強さが示され、戦術的な失敗が存在していました。既に開戦前後において、戦局には暗雲が立ち込めていたのです。しかし開戦初期の大勝利のなかで、こうした戦術的失敗は真剣に検討されず、昭和17年6月のミッドウェー海戦での大敗北以降、情勢打開の見込みなき戦いが繰り返されていきます。

 戦況の悪化は、軍政下のアジアにも大きな被害をもたらしました。重要資源を日本へ運ぶ輸送船は、ことごとく連合軍によって撃沈され、アジア諸国の食料や生活用品などの輸送にも支障をきたし、食糧難や生活難が発生します。そして連合軍の逆上陸に備え、軍政下の地域の経済などは全て軍事動員されていきました。こうした日本軍政の反発のなかで、抗日ゲリラ闘争が高まり、独立運動が展開されるなどしました。

 このように先の大戦を対英米開戦というだけでなくアジアの視点から振り返った時、多くの人々の悲劇と痛苦を感じずにはいられません。奇しくも昨年の開戦の日、アジアの人々を傷つけ苦しめている技能実習生制度の問題点を曖昧にしたまま改正入管法が成立しました。そしてコロナ禍にあって、多くのアジアの技能実習生が日本において迫害に近い状況にあっています。

 今日という日にあらためて私たちの国の「アジアへの視線」を問う必要があるのではないでしょうか。