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【東京大空襲76年】東京大空襲・城北大空襲犠牲者および米兵捕虜慰霊追悼

 東京の下町地区一帯が襲われた東京大空襲から76年を迎えます。

 空襲犠牲者の遺骨を安置する東京都慰霊堂では例年3月10日、春季大法要が営まれますが(昨年および今年はコロナのため一般参列者の参列については制限等があります)、感染症対策として密を避けるため、一日早い今日、東京都慰霊堂や空襲犠牲者の遺体を仮埋葬した地に建つ慰霊碑、下町以外の空襲の犠牲者を供養する地蔵、また撃墜された米軍機の搭乗員である米兵が処刑された地を訪れ、総ての犠牲者を慰霊追悼しました。

東京都慰霊堂

 東京大空襲による犠牲者の遺体の多くは猛火に焼かれたため生前の面影を留めず、身元がわからないため親族が遺体を引き取ることもかなわないため、上野公園や隅田公園、錦糸公園など下町の大きな公園や社寺の境内等に仮埋葬され、終戦後に仮埋葬から掘り起こされた遺骨が東京都慰霊堂に安置されたといわれています。仮埋葬地であった上野公園と隅田公園に建つ慰霊碑をお参りしました。

 こうした遺体の仮埋葬は戦時下にあって丁重かつ正確におこなわれたとはいえず、遺体の状況もあって一人一人を埋葬したというよりも、まさしく「処理」という言葉がふさわしいような扱いであったといわれています。そのため仮埋葬した遺体の数もアバウトであり、そもそも仮埋葬した場所もはっきりしておらず、空襲犠牲者の数も正確なところはわからず、今なおどこか仮埋葬の地で眠っている犠牲者の遺体もあると考えられています。

仮埋葬地の一つである上野公園の近くに建つ慰霊碑

 空襲犠牲者の遺体は土葬による仮埋葬だけでなく、可能な限り火葬も行われたといわれています。上野公園一帯は東京大空襲の犠牲者を仮埋葬した地の一つですが、上野公園内に建つ西郷さんの銅像の周辺では空襲犠牲者の遺体を野焼きしたといわれ、いわば臨時の火葬場でもありました。

臨時の火葬場であった西郷像

 東京大空襲というと3月10日の下町地区の空襲を想起しますが、それ以外にも東京各地が空襲に見舞われています。

 東京大空襲の約一ヶ月後の4月13日夜から14日未明にかけての城北大空襲では、現在の板橋区や豊島区など東京の城北地区一帯が襲われました。板橋区大山に建つ空襲犠牲者供養の地蔵は、その際の犠牲者を供養しています。

空襲犠牲者供養の地蔵

 軍需工場があった立川も空襲に見舞われましたが、戦争末期の8月、立川を襲ったB-29が撃墜され、搭乗員の米兵が捕えられました。米兵は錦国民学校(現在の立川市立第三小学校)の校庭に連行され、柱に縛り付けられ、多数の市民に竹の棒などで殴打された上で、近くの寺院である正楽院の墓地で日本軍将校により斬首され、そのまま埋葬されたといわれています。

 米軍による市民を巻き込む空襲という戦争犯罪を忘れてはなりませんが、戦中、日本の各地でこうした米兵捕虜の虐殺事件や虐待事件という戦争犯罪が起きていたことも忘れてはなりません。

米兵捕虜が斬首埋葬された墓地のある正楽院

 また民間人の空襲犠牲者への補償は戦後76年経った今なお満足に行われておりません。それとともに空襲はたくさんの戦争孤児を生みましたが、孤児たちを支える政治や社会の仕組みは十分でなく、大変厳しい生活を送ったといわれながら、孤児たちの戦後がどのようなものであったのか今でも十分に解明されていません。

 あらためて米軍による市民を巻き込む空襲という戦争犯罪を忘れてはなりませんが、その犠牲者被害者に対し日本の政治や社会が十分に対応し、寄り添ったのか、考えていく必要もあります。

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