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令和3年4月28日 富岡八幡宮「天皇陛下御野立所」

 昭和の日を前に、富岡八幡宮(東京都江東区富岡)の境内にある「天皇陛下御野立所」をお訪れました。

昭和天皇は画像右側の灯篭の近くに立たれたといわれる 後ろに建つのが御野立所の碑

 昭和20年3月10日、富岡八幡宮のある江東区や墨田区など東京の下町地区一帯が米軍の空襲をうけました。東京大空襲です。その約一週間後の18日、昭和天皇は下町地区を自動車で巡幸し、被害状況を視察しました。その際、富岡八幡宮の境内で内務大臣より被害状況について上奏をうけました。その場所に現在「天皇陛下御野立所」の記念碑が建っています。

 東京大空襲により富岡八幡宮本殿も焼け落ち、無惨な痛ましい姿となったといわれています。幸いにも摂末社は無事でしたが、空襲の影響で摂末社の鳥居の上部が破損しているところをみると、その被害の甚大さが伝わってきます。

 ところで昭和天皇の東京大空襲戦災地巡幸は、きわめて異例の巡幸であったといわれています。すなわち東京大空襲からわずか約一週間後、戦災の傷の全く癒えていないなかでの巡幸であり、通例の巡幸ではなく人員や車両、警備などを最低限にし、「総てを簡約のものとなすの趣旨」で簡素略式を旨に実施されました。

 戦災地をみずから視察した昭和天皇は、焦土と化した東京に衝撃をうけたようであり、関東大震災と比較し、「あの頃は焼け跡といっても、大きな建物が少なかったせいだろうが、それほどむごたらしく感じなかったが、今度はビルの焼け跡などが多くて一段と胸が痛む。侍従長、これで東京も焦土になったね」と藤田侍従長に語りかけたといわれています。

 巡幸に供奉した木戸内大臣も感慨ひとしおだったようで、この日の日記に「一望涯々たる焼野原、真に感無量なるものあり、此灰の中より新日本の生れ出でんことを心に祈念す」と記しているそうです。

戦災地巡幸を伝える当時の新聞

 こうして昭和天皇にも大きな衝撃をもたらした戦災地巡幸ですが、それをもって戦争が終わるということはありませんでした。経済人で衆議院議員も務めた渡辺銕蔵などは、昭和天皇の東京大空襲戦災地巡幸の報に接し、これで一両日中に戦争は停戦となると確信していたといいますが、その確信は裏切られ、戦争が終わるにはなお5ヶ月の時間と多大な犠牲を必要としました。

 また巡幸に関する資料によると、巡幸の沿道では防疫措置がおこなわれたそうです。資料には「不潔箇所ニ対シテハ本日迄七日間ニ亘リ〔中略〕反復消毒ヲ実行セリ」とあり、防疫措置の徹底がうかがえます。実際、昭和天皇の巡幸が決定したことにより遺体の処理も急速に進められ、仮埋葬として公園や社寺境内に穴を掘り、そこに埋められるなどの出来事もあったといいます。

 歴史には様々な面があり、東京大空襲戦災地巡幸という昭和天皇の御事績一つをみても多くのことが考えられますが、その全てから目をそらさずしっかりとうけとめ、木戸内大臣の「此灰の中より新日本の生れ出でんことを心に祈念す」の言葉どおり歩み出す決意をもって、明日の昭和の日を迎えたいと思います。

富岡八幡宮の合末社の鳥居 上部が破損している