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令和3年5月15日 五・一五事件89年 犬養毅・田中五郎墓参

 五・一五事件より89年のこの日、事件実行犯の海軍青年将校三上卓、黒岩勇、山岸宏らによって殺害された犬養毅元首相の墓所(青山霊園)と、同じく三上によって殺害された犬養の護衛役の警視庁田中五郎巡査の墓所(多摩霊園)をお参りしました。

「犬養毅之墓」

 犬養は多年、政策型の政治家として存在感を発揮し、革新倶楽部など少数政党ながらも党領袖として国政に関わっていました。護憲運動における桂太郎内閣攻撃など、その政治的な攻撃や追及は時にすさまじいものがあり、政友会総裁として臨んだロンドン軍縮条約をめぐる政局においても浜口雄幸内閣を激しく追及し揺さぶりました。

 一方で犬養は、頭山満と並び当時の大陸浪人たちのいわば「総元締」ともいえるような人物であり、中国革命を支援し、孫文の日本亡命の最大の支援者となるなど、中国人革命家と結ぶアジア主義者でもありました。孫文逝去の折には、頭山らとともに訪中し「祭文」を読み上げ弔意を示している他、その際には蒋介石とも親しく通じました。それ以外にもインドのビハリ・ボースやホーチミンに思想的影響を与えたベトナムのファンボイチャウらと交わったことも知られています。

 こうした犬養の事績は、あまり知られていないのが実情です。犬養が「満州国」の承認をためらったり、軍縮を求め軍部と対立傾向にあったことなどは、今こそもっとよく知られるべきことではないでしょうか。

 犬養を殺害した青年将校らも犬養を畏敬しており、犬養への個人的な怨みは全くなかったと述べています。三上は戦後、犬養や護衛役の田中も含め、事件関係者の慰霊祭をおこなっていますが、そこで三上は、

「時の宰相は犬養木堂翁、老骨をささげて何物にも屈せず、救国済民の一念に生きる憲政護持の尊い先駆者でありました。この尊き老宰相に対して、いささかの憎しみも憤りもなく、その故にこそただやむにやまれぬ、昭和維新の尊き人柱たれかしと乞い求めたのは私共でした」

「最も忠実に命もて官邸護衛の任務を果された田中五郎の命のたふとき犠牲をおろがみまつったのも私共でした」

と述べています。

「田中五郎之墓」

 実際、青年将校らの計画は犬養の首相就任前から存在したものであり、事件当時も「君側の奸」といわれていた牧野伸顕内大臣や警視庁など犬養とは直接関係のない襲撃がおこなわれていることからも、三上らの狙いは犬養個人ではなく、政党政治や特権階級を狙うなかでのある種の象徴として犬養襲撃があったといえます。

 犬養は三上に銃を突きつけられながらも「話せばわかる」「話を聞こう」と繰り返したといわれています。それはけして命乞いの言葉でなく犬養の本心であったことは、犬養が三上らに撃たれた後も「あの若者を呼んでこい、話せばわかる」と繰り返したことからも明らかです。

 三上は「話せばわかる」「話を聞こう」という犬養の言葉に触れ、犬養の最期の言葉を聞き届けてもよいかと思ったともいわれていますが、後世において事件に関連する青年将校らの意志の継承を思う人々ならば、無念にも倒れた犬養が最期に三上に何を伝えたかったのか、犬養を畏敬し犬養の最期の言葉を聞き届けようとも思った三上にかわって感じ取るためにも、まずは犬養という人物の事績を学び、その人を知る必要があり、それでこそ五・一五事件の歴史的な継承と顕彰につながるのではないでしょうか。

令和2年5月15日 五・一五事件88年 犬養毅・頭山満墓参

令和元年5月15日 五・一五事件87年 犬養毅・頭山満墓参