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【沖縄戦76年】慰霊の日「魂魄の塔」お参り、6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」(ユンタンザミュージアム)

 沖縄「慰霊の日」の23日、沖縄戦の犠牲者を慰霊する「魂魄の塔」をお参りするとともに、読谷村のユンタンザミュージアムが慰霊の日に関連してオンライン配信した6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」(講師:豊田純志氏、読谷村教育委員会文化振興課村史編集係)を視聴しました。

魂魄の塔と雨のなか訪れた人たちの献花、お供えなど

 沖縄戦直後、現在の糸満市米須付近では、亡くなった犠牲者の遺体がまだ白骨化しきっておらず、髪の毛や皮膚が残っているような状況で野ざらしとなっており、ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善氏によると付近は「幾万の屍がるいるいとして風雨にさらされ、亡魂恨み泣き、身の毛のよだつ荒野」が広がっていたそうです。

 そうしたなかで昭和21年、金城和信村長主導のもと、米軍により米須付近に一時的に移転収容されていた旧真和志村の人々が野ざらしの遺体や遺骨の収容を始め、納骨しました。これが魂魄の塔の淵源です。

 旧真和志村の人々は同年5月に米須を去りますが、その後も地元住民が遺骨収容作業を続け、魂魄の塔に納骨しました。そうしたこともあり、魂魄の塔に合祀された犠牲者の数は約3万5000柱といわれ、沖縄最大の慰霊塔となりました。当初は自然の大きな穴に納骨していましたが、あまりの遺骨の多さで次第に山になっていったそうです。

魂魄の塔を訪れた自民党青年部慰問団 昭和34年撮影:沖縄県公文書館所蔵

 その後、魂魄の塔に納骨されていた遺骨は、識名の戦没者中央納骨所へ移され、さらに摩文仁に整備された国立沖縄戦没者墓苑に移され、魂魄の塔は現在のようなかたちの慰霊塔となりました。

 例年、慰霊の日は魂魄の塔にたくさんの参列者が訪れますが、沖縄戦から76年の今年の慰霊の日は大雨であり、また昨年も含めコロナの影響でお参りする人も少なく、物寂しい慰霊の日となりました。

 その後、読谷村のユンタンザミュージアムが慰霊の日にあわせて配信した6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」を視聴しました。

 ユンタンザミュージアムでは今年、慰霊の日に関連し第34回平和創造展「沖縄戦と読谷村の軍事要塞化」を開催予定であり、慰霊の日には6.23慰霊の日講座として「読谷村における軍事飛行場建設について」との講演がなされる予定でしたが、コロナによる緊急事態宣言のためミュージアムが休館となり展示も行われず、6.23慰霊の日講座のみオンライン配信されるかたちとなりました。

 講師の豊田さんによると、沖縄戦の地上戦以前より読谷村では日本軍北飛行場の建設が進められ、それにより沖縄戦では米軍上陸ポイントとなり読谷村一帯は激戦地となったそうです。また上陸した米軍は北飛行場の接収を進め、拠点としていきますが、それは他方で義烈空挺隊の空挺特攻や日本軍特攻機の攻撃対象になるということでもあり、読谷村では引き続き激戦が続きました。

 北飛行場は沖縄戦後、米軍の読谷飛行場として拡張されるとともに、北飛行場北西にはさらにボーロ―飛行場という新たな飛行場が建設されるなど、読谷村一帯は軍事要塞と化していき、住民の被害や負担は長く続いていきました。特に昭和40年には、読谷飛行場でのパラシュート投下訓練中のトレーラー落下事故により女子小学生が犠牲となる痛ましい事故が起きています。

 この講座は慰霊の日が過ぎてもYouTubeで引き続き視聴することができますので、ぜひ視聴し沖縄戦とその後の米軍統治による読谷村での飛行場建設や住民の被害、基地負担などについて学んでいただきたいと思います。

令和2年6月23日 沖縄慰霊の日(魂魄の塔、平和の礎)