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令和3年8月23日 シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い

 昨年に続き、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催されたシベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集いに参列、献花黙とうしました。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

 76年前のこの日、スターリンの秘密指令により、満州などにいた日本兵らがソ連国内に移送された上で抑留され、シベリアやモンゴル、遠くはウクライナ、ベラルーシ、バルト三国などソ連勢力圏内各地で過酷な労働を強いられました。抑留者は男性兵士だけではなく、満蒙開拓で現地にいて、軍の看護業務などについていた女性たちも抑留されたといわれています。

 強制抑留、強制労働された日本兵らは約57万5000人にもおよび、抑留は最長で10年以上も続き、約5万5000人もの人が犠牲となりました。

 無事抑留から解放され日本に引き揚げた人たちも、強制労働と寒さ、飢えという過酷な生活による肉体的な疲弊や、ソ連側がつくりあげた抑留者同士での相互監視や相互密告、つるし上げなどによる精神的な荒廃に悩まされ、さらには「シベリア帰り」として白い眼で見られ就職差別をされることもあったといいます。

 こうした抑留経験者、引揚者に対し、日本政府はこれまで十分な支援や補償をしてきませんでしたが、11年前にいわゆるシベリア特措法が成立し、抑留者への特別給付の実施や抑留の全容解明などが政府に求められました。

 しかし今にいたるまで抑留の経緯の解明は進んでおらず、遺骨の収容なども停滞しています。コロナ禍で遺骨収容が全面的に停滞する昨年までに、約2万2000人分の遺骨が収容されたとはいえ、それでもなお半数であり、いまだに多くの遺骨が彼の地に眠っています。

 そればかりか一昨年には、遺骨収容作業で抑留者の遺骨として持ち帰った遺骨が日本人の遺骨ではなく、現地の人たちと思われる外国人の遺骨だった、しかもそうした情報に接しながら確認などしなかったという、重大な問題が明るみとなりました。

献花台にて献花合掌する参列者たち

 日本人抑留者が埋葬された現地の埋葬地は荒れ果てているようですが、同じようにソ連に連行されたドイツ兵の埋葬地は現在も整然としているといわれます。その違いの要因はなんでしょうか。

 ソ連がドイツ人抑留者の埋葬地を丁重に管理し、日本人抑留者の埋葬地を軽視したということもあるかもしれませんが、遺骨問題などに象徴される日本政府の抑留問題への関心の薄さを思うと、ドイツ政府がソ連に対し埋葬地の管理を要請したり、みずから進んで管理していたが、日本政府はまったくそういうことをしなかったのかもしれない、両政府の抑留問題への意識の差があらわれているのではないかとも思います。

 集いで挨拶された抑留体験者の方も、埋葬地やこれまで建立した慰霊碑の荒廃を憂い、政府に再三再四、管理を要請していました。今年の追悼の集いには、御遺族や関係者、一般参列者とともに、厚生労働大臣の代理として厚労省幹部や与野党の国会議員も参列していましたが、それぞれの立場を越えてこの問題にあたって欲しいと思います。

 また近年、日本軍に徴用され軍属等となっていた朝鮮半島出身者約2万人のうちの1万人ほどがソ連の捕虜となり、そのうち約2000人がシベリアで強制抑留され、少なくない朝鮮半島出身者が犠牲になっていた事実が調査により明るみとなりました。しかしソ連側の資料提供などの状況から、犠牲者の数もさらに増える可能性があるなど、実態は判然としていません。

 こうした朝鮮半島出身者のシベリア抑留の実態解明や犠牲者の遺骨の収容、葬送なども、日本政府の責任として行っていく必要があります。戦後76年もの年月が経ちながらまったく戦争が終わっていない現実を直視し、早急に具体的な対策を進めていくべきではないでしょうか。

令和2年8月23日 シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い