大正12年(1923)9月1日、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生しました。関東大震災です。死者、行方不明者は約10万人、建物の被害は全半壊あわせ約30万棟、焼失約40万棟といわれる未曾有の大災害でした。
また震災発生直後から朝鮮半島出身者はじめ中国人や社会主義者が「井戸に毒を入れた」「婦女を暴行した」「爆弾を仕掛けた」「武装蜂起した」といった悪質な流言飛語が飛び交い、軍や警察、そして民間人「自警団」による誰何尋問が各所で始まり、暴行、虐殺も発生しました。震災犠牲者の実に数パーセントがこうした虐殺による犠牲者ともいわれています。
毎年9月1日、東京都慰霊堂では、震災犠牲者を弔う秋季大法要が営まれています。また東京都慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の前では、朝鮮半島出身の犠牲者の追悼集会が開催されています。
しかし、昨年同様、今年もコロナ禍のためいずれの式典も一般参加者の参列はご遠慮いただき、関係者のみで執り行うこととなっています。なお朝鮮半島出身の犠牲者の追悼集会の様子は、オンラインで配信されるとのことです。
花瑛塾は例年9月1日に歴史の継承と犠牲者の慰霊追悼のため、震災犠牲者を祀る東京都慰霊堂および慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑を訪れ、全ての震災犠牲者と虐殺犠牲者を慰霊追悼しています。その他、東京や千葉にあるいくつかの震災犠牲者や朝鮮半島出身者をはじめとする虐殺犠牲者の慰霊碑や虐殺現場を訪れ、追悼しています。
今年もコロナ禍の情勢や各種行事の開催状況に鑑み、一日早い8月31日に各所を訪れました。
虐殺の事実は様々な歴史修正にさらされていますが、九月、東京の路上で、多くの人の命が奪われた歴史、そして多くの人の命を奪った歴史を忘れてはなりません。
また忘れないばかりでなく、吉野作造が震災後に虐殺事件を振り返り、「今度の災害に際しても〔中略〕一面に於て悲しむべき幾多の罪悪を伴つた事に付ては、昨今遅ばせに報ぜらるゝ司直官憲の検挙所罰等に満足することなく、吾人はもつともつと深く考ふる所がなければならぬと思ふ」といったように、深く考えをめぐらしていかねばなりません。
吉野は虐殺事件の要因の一つとして「力の玩弄」ということを指摘し、「我国の民衆には法律的に若くは社会的に何等かの権力を与へられると其の本旨に遵つて運用する代りに動もすれば無暗に之を振り廻し他の迷惑がるを寧ろ痛快がると云ふ悪癖のあることである」と述べました。いわば吉野は虐殺事件について社会的な考察を加えたといえますが、この指摘は一面の事実といえるでしょう。
私たちもなぜこんなことが起きたのか、今も虐殺事件に通底する社会状況や人々の心性、差別の構造などがあるのではないのか、よくよく考えていかねばなりません。
東京都慰霊堂、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災と東京大空襲の犠牲者のうち、身元不明の遺骨を安置し弔う東京都の施設である東京都慰霊堂を参拝し、東京都慰霊堂に隣接する「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」を参拝しました。
なお東京都知事は例年、「追悼碑」前において開催されている朝鮮人犠牲者追悼集会に追悼文を送っていましたが、小池百合子都知事は追悼文の送付を取りやめました。今年も送付はしないとのことです。
こうした小池都知事の動きの背景には、歴史修正主義のライターが執筆した虐殺の事実を歪曲するトンデモ本をネタ本とした古賀俊昭元都議の都議会質問があるといわれています。
古賀元都議は都議会質問で小池都知事に追悼文の送付の取り止めばかりか追悼碑の撤去すら求めており、追悼文の送付の取り止めはいわば彼らの狙いの「第一歩」でしかなく、最終的には追悼碑の撤去、そして虐殺の事実の抹消につながっており、警戒していかなければなりません。
震災発生のわずか数時間後には「朝鮮人が放火をしてまわっている」といったデマが飛び交いはじめました。さらに市民や官憲、そしてメディアが一体となり民族差別に基づく暴動幻想やレイピスト神話が煽られていきました。これにより関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑のある荒川旧四つ木橋付近では、軍や「自警団」による虐殺事件が発生し、多くの朝鮮半島出身者が犠牲となりました。
なお、この追悼之碑には、官憲やデマを信じた日本人により多くの朝鮮半島出身者が殺されたと明記されていますが、このことは日本人が建立した慰霊碑としては初めてのことであったといわれています。
追悼之碑近くの荒川河川敷では例年、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会や市民グループ「ほうせんか」の方々など有志による例年追悼式典が開催されていますが、今年は9月4日に追悼式典が開催されるそうです。また最近、震災や虐殺の事実を継承するための証言集『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(編著:ほうせんか、出版:ころから)が増補復刊したそうです。
中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場
震災時に虐殺されたのは、朝鮮半島出身者だけではありませんでした。
9月3日、軍の騎兵連隊など部隊は大島8丁目(現東大島文化センター付近)に中国人労働者数百名を連行し、虐殺しました。「大島町事件」です。
事件の背景には、中国人への差別、蔑視があったことはもちろんながら、第一次世界大戦後の不況下にあって、手配師が安価な労働力の供給源である中国人労働者を敵視し、これを「整理」する狙いがあったともいわれています。
亀戸事件犠牲者之碑
虐殺は朝鮮出身者や中国人というアジアの人々に対するものでおさまることはありませんでした。
9月3日頃、軍の騎兵連隊などの部隊は、日本人労働運動家を虐殺しました。「亀戸事件」です。
亀戸事件発生の要因には、震災後の朝鮮半島出身者に関するデマと一緒に飛び交った社会主義者に関するデマの存在があるとともに、震災による混乱を奇貨とした官憲が、かねてより危険視していた労働運動家を抹殺すべく検束、虐殺したといわれています。
亀戸の浄心寺の境内には犠牲者を弔う碑が建立され、犠牲者10名の名前が刻まれています。
地方出身者虐殺事件「検見川事件」遺体遺棄現場
9月5日には、千葉市検見川で3人の日本人が虐殺されました。検見川事件です。
事件は、震災により沖縄出身の儀間次郎や秋田出身の藤井金蔵など3人の青年が検見川停留所周辺に逃れたところ、「自警団」に誰何尋問され、言葉のなまりなどから「朝鮮人に違いない」として殺害されたというものでした。
途中、警察官が3人の青年を派出所で保護し、身分証明書を確認し「朝鮮人ではない」と「自警団」に伝えましたが、「自警団」はこれを信じず、逆に派出所を襲い3人を連れ出して殺害したそうです。
最終的に3人の青年を取り囲む「自警団」に、さらに数百人の群衆が群がり、そうした群集心理の沸騰の中で3人は虐殺されたともいわれています。遺体は花見川橋から花見川に東京湾に向けて捨てられたそうです。
関東大震災福田村事件追悼慰霊碑
被差別部落出身の人たちも虐殺されました。
9月6日、旧福田村(現千葉県野田市)で香川出身の行商人ら15人が自警団に襲われ、乳児や胎児を含む9人が虐殺されました。「福田村事件」です。
犠牲となった行商人らが被差別部落出身であったため、事件後も被害者の救済などはほとんどなされず、犯人たちは処罰されたものの早々に釈放されたといわれています。
中国人宗教家、社会活動家虐殺事件「王希天事件」現場
虐殺事件は国際問題にも発展しました。「王希天事件」です。
9月12日、軍は震災による中国人被災者の救援を行なっていた宗教家で社会活動家の王希天を現在の旧中川逆井橋付近で殺害し、遺体を斬り刻み川に投げ捨てました。
王希天虐殺は隠蔽され、日中間の国際問題にまで発展しました。しかし日本政府は王希天虐殺をうやむやにし続けたといわれています。
関東大震災犠牲同胞慰霊碑
船橋市の馬込霊園内に建つこの慰霊碑は、終戦後、虐殺された朝鮮半島出身の犠牲者を追悼するため在日朝鮮人連盟千葉県本部が建立したものです。
既に法界無縁塔という朝鮮半島出身の犠牲者を弔う供養塔が建立されていましたが、碑文に虐殺の事実が記されていないなど歴史的事実と経緯を踏まえた供養塔でないことから、この慰霊碑が建立されました。
関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑
習志野にあった習志野支鮮人収容所では、収容中の朝鮮出身者を軍が付近の集落の「自警団」に引き渡し、彼らに虐殺させることもありました。
千葉県八千代市高津でもそうして6人の朝鮮出身者が虐殺され、後に遺骨が高津の観音寺に安置されたことから、境内に慰霊碑が建立されました。慰霊碑の横には韓国から贈られたという韓国式の鐘楼もあります。
以上、東京、千葉の震災関連の地、特に震災時の虐殺に関連する地を訪れ、慰霊追悼しましたが、東京や千葉にはこれ以外にも多くの関連の地があり、また神奈川や埼玉などにもあります。その他、慰霊集会や行事なども毎年各所で開催されています。
この記事をご覧になり、関心を持っていただき、ご自分で関連の地や慰霊集会などを調べ、足を運び、参加し、歴史と向き合い、そして慰霊追悼のまことを捧げてほしいと思います。