平成30年11月25日 花瑛塾第16次沖縄派遣団②(沖縄愛楽園)

 花瑛塾第16次沖縄派遣団は25日、ハンセン病患者の療養施設「沖縄愛楽園」(名護市)を訪問・見学しました。

 戦前、ハンセン病は国力を低下させる「国辱病」とされ、患者の強制収容・隔離が行われ、妊娠中の患者の強制堕胎なども行われたそうです。愛楽園もそうした施設の一つであり、当初は「臨時国立らい療養施所国頭愛楽園」と称されました。

沖縄愛楽園交流会館

 特に沖縄戦時、軍はハンセン病を極度に警戒し、患者の強制収容・隔離を進め、隔離した患者を「祖国浄化の戦士」などと評し、徴兵になぞらえるなどしました。施設側も戦争遂行のため「無らいの島をつくってみたい」と意気揚々と患者の強制収容・隔離に協力するなどしました。

 愛楽園の定員は450人程度でしたが、強制収容・隔離が進み、913人もの患者が隔離され、食糧不足なども発生したそうです。こうした施設は宮古島にもあり(「宮古南静園」)、同じく強制収容・隔離が進み、患者は苦しめられたといわれています。与那国島においても日本軍はハンセン病患者を収容し、台湾のハンセン病患者療養施設「楽生園」に連行したという証言もあります。

 こうした隔離政策はつい最近まで続き、平成13(2001)にようやく裁判所が隔離政策について違憲判決を出したそうですが、壮絶な差別や偏見に満ちた患者への取り扱いを知り、居た堪れない思いになりました。

 その後、同園内にある沖縄愛楽園交流会館で開催されたギャラリートーク「沖縄島北部の慰安所」を拝聴しました。

 沖縄戦時、沖縄島だけで100ヵ所以上の慰安所が作られ、北部にも多数の慰安所がありました。沖縄全体では約140ヵ所もの慰安所があり、今後の調査によってはさらに増えると考えられます。

 「慰安婦」とさせられた女性たちは、沖縄の女性と朝鮮の女性が多く、少数ながら本土の女性もいました。ほとんどの女性が意に反して「慰安婦」にさせられました。慰安所での収入は大半が業者にピンハネされ、生活環境も相当に劣悪で、「慰安婦」とされた女性たちが慰安所の近所の住民に食糧をねだる姿も目撃されています。

ギャラリートークの様子

 さらに米軍占領後、北部の慰安所で「慰安婦」にさせられていた女性の一部は、米兵相手の「慰安婦」にさせられるなど、軍の暴力に翻弄され続けました。

平成30年11月25日 第5回自主三島・森田祭

 「楯の会」事件より48年の今日、花瑛塾青年・学生寮において、「楯の会事件」でみずから命を絶った三島由紀夫・森田必勝の両氏を慰霊する第5回自主三島・森田祭を執り行いました。

 また祭典後、朝鮮戦争時に問題となった日本人義勇兵問題や再軍備問題について、葦津珍彦氏ら終戦直後の神社界が明確な反対論を掲げ、反対運動を展開したことについて振り返り、そこにおいて葦津氏らが重視した「建軍の本義」と「楯の会」事件で三島氏らが問うた自衛隊の「建軍の本義」を確認し、両者の共通点・相違点を検討しました。

 「楯の会」事件とは、昭和45年(1970)の今日、三島由紀夫、森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の「楯の会」隊士5名が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で益田兼利総監を人質とし、自衛隊員を集めさせ憲法改正のための決起を要求する演説を行った後、三島・森田両氏が切腹・介錯によって命を絶った事件です。三島・森田両氏以外の隊士は、三島氏の命令どおり捕縛されました。三島事件ともいわれます。

 花瑛塾は毎年11月25日に亡くなった三島・森田両氏を慰霊し、事件の意義を振り返る「自主三島・森田祭」を行っており、今回で花瑛塾の前身となった組織の頃から数えて5回目となります。また来年も開催する予定です。

自主三島・森田祭

平成30年11月24日 花瑛塾第16次沖縄派遣団①(辺野古新基地建設)

 花瑛塾第16次沖縄派遣団はこの日、汀間漁港(沖縄・名護)からグラスボートに乗り、新基地建設が進む辺野古沖・大浦湾へ出港し、新基地建設に抗議するとともに現地の情勢を確認しました。

辺野古沖・大浦湾には5334種以上もの生物が生息するといわれています。昨年の調べで東京湾に生息する生物の数が291種であることを考えれば、辺野古沖・大浦湾にいかに多種多様な生物が生息するかわかるはずです。特筆すべき個体や新種など希少生物も数多く、特にアオサンゴの群は大浦湾にしかない群体といわれています。

大浦湾からキャンプ・シュワブを望む

 辺野古新基地建設再開により再度辺野古沖・大浦湾を切り裂くように設置されたオレンジ色のフロートは、水上表面に生息する微生物を閉じ込め、生態系を乱す恐れが充分にありえると推測されます。推測に留まっているのは実証がいまのところ難しいためですが、それは現在の事態が世界的に見ていかにありえない事態なのかということを示していると思います。

 つまり、辺野古新基地建設を強行するにあたり、多くの人が反対の声をあげ、実力で阻止するために行動するなかで、「それでも新基地建設を強行する」ことが、これまでの人間と生物が共存する社会においてあきらかにタブーでありながら、それがいま行われているかということがわかると思います。

 辺野古新基地建設を進めることで人間や生物が幸せに生きることができるのだとすれば、フロートなどを設置することもなく工事が進んだことでしょう。辺野古新基地が出来ることで、死にゆく生き物が多くあるということは明らかといえます。

大浦湾の澄み切った海底

11・25「楯の会」事件から48年(下)三島由紀夫「英霊の声」をめぐって

怒りと怨みの長歌

 「英霊の声」は、雑誌『文芸』(昭和41年6月号)に発表された三島由紀夫の文学作品である。「帰神の会」に参加した主人公が、審神者である木村の降霊術によって盲目の青年川崎に二・二六事件で処刑された青年将校の霊や特攻隊の隊士の霊が憑依する場面を目撃し、川崎の口を借りて霊たちが昭和天皇への激しい思慕と、現代日本への憤りを述べ、「などてすめろぎは人間[ひと]となりたまひし」と繰り返し絶叫するのを聞くという、非常にショッキングな内容となっている。

三島由紀夫

 そのためか「英霊の声」は発表直後から大きな反響を呼び、江藤淳はじめ多くの人々が論評した。そのことは葦津珍彦も例外ではない。葦津は、「英霊の声」が当時の時代状況にあって既に忘れ去られていた「天皇の神格」を正面から問い、現代日本の繁栄への非難と不満、そしていわゆる「人間宣言」を発せられた昭和天皇への不信を率直に表明することに衝撃をうけ、「英霊の声」の思想的意味について分析を試みている。

 二・二六事件の青年将校らの霊、すなわち葦津のいう「裏切られた者たちの霊」による現代社会への厳しい非難と「などてすめろぎは人間となりたまひし」との絶叫を、葦津は凄惨な「怒りと怨みの長歌」と表現する。そしてこの長歌には、青年将校らの英雄的な精神に高貴な美を見る三島の意図が表現されていると分析する。

 事実、三島が心ひかれた青年将校の磯部浅一大尉と栗原安秀中尉の獄中日記や遺書には、激しい怨嗟・怨恨が記され、「怒りと怨みの長歌」がつづられている。葦津はここに「怨霊」とは何かを実感すると告白するとともに、この「怨霊」の言葉によって三島をして「英霊の声」を書かせたのであり、そこに怨霊の慰霊や鎮魂、つまり歴史的な名誉回復が必要となるという。

忠誠と反逆─正常の武人とアウト・ロウ

 それでは、なぜ磯部や栗原など二・二六事件の青年将校らは「怨霊」となってしまったのだろうか。古来、忠臣でありながら裏切られ、無念の死や非業の死を遂げた人物は少なくないが、そのすべてが「怨霊」となったわけではない。

 例えばとして、葦津は日本史上の忠臣の代表例として楠木正成の名をあげる。正成は自身の献策が受け入れられなくとも、朝廷の命のまま必死必敗の湊川の戦いに挑み、命を捨てることによって忠誠を尽くした。まさしく絶対随順の忠臣の一典型である。

 一方で忠臣の行動様式は正成のタイプのみではない。例えば維新の先駆けとなった真木和泉守は絶対随順の忠臣のタイプではなく、「その心は楠公の心なるも、その迹は足利」と称してまで勅命に反して天王山で徹底抗戦した。西郷隆盛が西南戦争に立ち上がった際の心情も真木に共通するものがあるだろう。

 真木や西郷は根っからの賊徒ではなく、葦津は彼らも忠臣なのだとする。真木や西郷はあえて勅命に反した。その胸中は烈々たる忠義に燃えているが、それでもなおあえて勅命に反すると決意したのであり、そこには賊徒とされてもけして悔いることのない覚悟があるのだ。彼らの首は血にまみれ獄門にさらされながら忠誠の祈りを続ける。そして葦津は、ここに西郷が「名も要らぬ」人物を求めた所以もあるとする。

 こうした西郷の精神を継承しようとした人物として、葦津は頭山満の名をあげる。頭山は世評をまったく無視し、自分の思うままに生き、それで悔いるところがなかった。これに共感する人物は頭山を国士と評したが、共感しない人物は傍若無人の無法者と評した。頭山は時に売国者の汚名を着せられることも覚悟して、日本政府に追われていた外国の革命家を援助するなど、まさしく「名も要らぬ」人物であった。頭山は賊の汚名を着て平然と殺された石川五右衛門や鼠小僧を「男らしい」とほめるが、葦津はこれを法外の人─アウト・ロウ─浪人の道と表現した。

 しかし二・二六事件の青年将校らはあくまでアウト・ロウではなく「正常の武人」だった。ここに悲劇がある。真木や西郷のように自らを割り切ることはできず、頭山のように達観することもできず、あくまで正成のごとき忠臣としての行動様式をまっとうしたかったのだ。だからこそ青年将校らは最後の時において、誰一人勅令に抗してでも戦うと主張した者はいなかった。けれども、青年将校らは最終的に賊徒の汚名を避けることができなかった。葦津は、ここに彼らが「怨霊」と化す理由を見る。

獄門の首の忠誠の祈り

  既に述べた通り、葦津はこの「怨霊」の慰霊・鎮魂、つまり「名誉回復」の必要性を認め、それを社会的に問題提起したことが「英霊の声」の一つの大きな意味だとする。事件で自刃した青年将校の兄が「英霊の声」に共感したというエピソードを紹介しつつ、葦津はそれは非業の最期を遂げた事件犠牲者の遺族に共通する心情であろうとする。

 しかし葦津の次の注意には気をつけなければならない。つまりあくまでも「怨霊の声」と「英霊の声」は異なるものであり、青年将校らの「怒りと怨みの長歌」は「英霊の声」ではなく「怨霊の声」なのだということ、そしてこの怨霊が激しい怨嗟をたたきつけるいわゆる「人間宣言」について、それを異例の詔書ではあるが、これをもって日本の国体が亡びるというようなことはなく、また昭和天皇が終戦以来時流に流されてしまったかのような「怨霊」による恨み言は偏見に過ぎないという注意である。

 しかし怨霊の悲しみと怨みは切なるものがあり、昭和天皇のお気持ちもわからないのかもしれない。そのためにも、あらためて葦津は慰霊と鎮魂の必要性を説くのである。

 「楯の会」事件の檄文に見える三島の政治情勢の冷静な分析とその背景にある沖縄返還問題を振り返るとともに、そうした三島由紀夫と「楯の会」事件を同じく冷静かつ的確に論じた葦津。その葦津は事件の4年前に三島の文学作品すなわち「英霊の声」について、怨霊と化した青年将校らの霊の慰霊・鎮魂の必要性という神道的立場から批評し、作品の訴えの重要性をしっかりと位置づけていた。同時に、青年将校らがなぜ怨霊となるのかを考究する上で、日本史上の「忠誠と反逆」の論理を駆使するにおよぶ。重大な価値のある批評といっていいだろう。

 あるいは葦津は、「英霊の声」における終戦やいわゆる「人間宣言」へのショックという点に、「天皇非即神論」までも論じられた終戦直後の戦後神道界・神社界の混乱を想起したため、この作品に強くこだわったのかもしれない。

 それについてここで詳述はできないが、いま考えたいことは、葦津による「忠誠と反逆」の論理から、三島や「楯の会」事件はどのように論じられるべきかという点である。三島や森田、あるいは「楯の会」隊士らは「正常の武人」であったのか、アウト・ロウであったのか。三島と森田の霊は怨霊となったのであろうか。その慰霊・追悼はどうあるべきなのだろうか。自衛隊に武人の理想を見て、武人の理想どおり立ち上がることを求め、事敗れ武人の古式にもとづいてみずから命を絶った三島と森田の首は、血にまみれてなお忠誠の祈りを続けているのであろうか。

 11・25「楯の会」事件から明日で48年。三島と葦津の問いかけは続く。

(おわり)

11・25「楯の会」事件から48年(中)葦津珍彦が見た三島由紀夫と「楯の会」事件

葦津の「楯の会」事件への関心

 昭和45年11月25日に発生した三島由紀夫以下「楯の会」隊士による「楯の会」事件は、発生直後から様々に批評された。当時の佐藤栄作首相は「狂気乱心の沙汰」と一刀両断のもとに評し、中曽根康弘防衛庁長官も「迷惑千万」と断じた。そうした評価はいまなお一部で続いているものと思われる。しかし事件発生直後から多くの人が三島の文学作品を買い求め、都内の書店から三島の作品は姿を消した。また三島の憲法改正と決起の呼びかけに多くの自衛隊員が怒号を飛ばし、あるいは嘲笑したが、一部隊員に深刻な影響を与えたともいわれている。

 戦後神社界を代表する思想家・言論人である葦津珍彦も、「楯の会」事件に衝撃をうけ、事件の分析を試みている。葦津は、早くも事件直後の11月30日に「三島由紀夫自刃す 沈黙せる国民心理への影響」との記事を執筆している。続いて同年12月5日には「三島事件の教訓」との論考を執筆している。三島の葬儀や事件の公判の様子などもリポートしており、葦津の事件への強い関心がうかがわれる。

三島とサイレント・マジョリティ

 葦津「三島事件の教訓」によると、葦津は事件前後に佐藤が国会で臨時国会の施政演説を行っていたことをとらえ、もし三島の呼びかけに自衛隊員が呼応していれば、実際に国会が制圧されていたかもしれないとし、事件について三島の狂気乱心といった見方を否定している。葦津はある種の「軍事作戦」としても「楯の会」事件の深刻さを認めた上で、「狂気乱心の沙汰」との佐藤の事件評を「鈍感」と非難する。また三島の決起の呼びかけに怒号でこたえた自衛隊員を、中曽根が「自衛隊には民主平和の憲法思想が定着している」などと評したことについて、「三島自刃後の下士官・兵の感想を聞いてみよ」と応答し、三島自刃にショックをうけ、深い感銘をうけた自衛隊員の声を紹介している。

 そして葦津は、

(中曽根─引用者註)長官のみならず、憲法定着論者は、現憲法に対する三島由紀夫の憤りが、社会のどこにもっとも深く大きな、共感の波紋を投げかけてゐるかを、克明に調べてみたらいい。それは経済繁栄でブタのやうに肥えた経済人でもなければ、社会的地位の高い老年者でもない。敗戦屈辱後の日本に生れ、しかも光栄ある伝統の復活をもとめてゐるわかい二十年代の青年なのだ。しかもそのわか者の数は少なくない。この明白瞭然たる事実をはっきりと知っておくがいい。(「三島事件の教訓」)

と指摘し、自刃をともなった三島の呼びかけは、憲法定着論などとは無縁に、確実に人々を揺さぶっているとするのである。

 しかし葦津は、事件を無批判で礼賛しているわけではない。例えば三島が憲法改正という政治目標をかかげ、その実現のための主体として自衛隊を選んだ政治戦略について、葦津氏は批判をしている。

かれは、現憲法によってもっとも屈辱を強ひられてゐるのは、自衛隊の武士であると信じたがそれはちがふだらう。現憲法によって屈辱を強ひられ、これに反撥の念をもってゐるのは、日本民族の沈黙せる土着大衆(流行語で云へばサイレント・マジョリティ)なのだ。(同)

憲法の問題を解決すべき主体は現憲法以前から現存し、そして伝統の精神に屈辱を強ひられ、この憲法に違和感をもちつづけてゐる民族大衆である。かれが決起を期待すべきは、この黙々たる国民大衆の中にこそある。(同)

東大全共闘と語る三島由紀夫(東大駒場キャンパス:1969年)

 葦津はこのように「楯の会」事件が、あるいは三島が、自衛隊への呼びかけを政治戦略とした点については批判し、事実として「サイレント・マジョリティ」は、三島の武士的行動に感動していると指摘する。

 また批判とは異なるが、葦津は、伝統的な武士の作法にのっとった最期とはまったく異なる三島の日常の言動や行動の著名人的な華やかさがあだとなり、誰も決起に応じなかったのではないかとも分析している。「楯の会」を結成した頃の三島の宣伝や行動は、ウルトラ・モダンな印象をあたえ、日本的な古武士の重厚・沈黙・果断という気風とは大きく異なり、そうした印象が三島の決起工作を挫折させる要因ともなったとする。

 葦津「三島事件の教訓」における「楯の会」事件についての分析や批判は、事件直後に記されたものということもあり、様々な情報や資料、他の事件評などを総合した深まりあるものとはいえないが、事件を小馬鹿にするような態度は微塵もなく、むしろ畏敬の念に基づいた誠実さが感じられる。

 そして三島らの武士的行動は、憲法定着論を吹き飛ばし、自衛隊員よりも国民・民族大衆に、あるいは自衛隊員においては、自衛隊員以前の国民・民族大衆としての各人の個性に影響を与えているという分析は、非常に冷静であり、なおかつするどいものがあるといえる。

 前回は三島の憲法改正や自衛隊治安出動の狙い、あるいは沖縄返還と自衛隊沖縄配備に関する分析の冷徹さと正確さを指摘したが、葦津もまた三島の行動に激しい衝撃をうけながらも、三島同様に冷静に、かつ正確に三島と「楯の会」事件を分析していることは、非常に興味深い。

 ところで葦津は事件以前から三島の文学作品について関心を抱き、それを神道家の立場から批評しつつ、さらに「忠誠と反逆」の論理を展開している。次回は葦津の三島文学論について論じたい。

(つづく)

平成30年11月23日 東アジアフォーラム第16回研究会

 東アジアフォーラム第16回研究会に参加しました。

 前回の東アジアフォーラム第15回研究会は、佐藤知也氏(平壌・龍山会々長)をゲストに「平壌の日本人墓地」とのテーマのお話しを伺いました。今回は渡辺雅之氏(大東文化大学教職課程センター准教授)がゲストとして登壇し、「差別の生まれるトコロ たたかうチカラ」をテーマにお話しを伺いました。

 渡辺氏によると、ジェノサイド・戦争・ヘイトクライムといた差別表現は、攻撃的なヘイトスピーチや政治的・社会的な差別、そして例えばLGBTなどを嘲笑する風潮やデマやフェイクに踊るといったカジュアルヘイト、そして無関心やミーイズム(NIMBY:Not in my back yard)といった下部構造が下支えするとともに、ヘイトクライムによってさらに下部構造が強化・助長されるといった関係があるとのことで、渡辺先生は本年9月にこうした構造を取り上げた論文「ヘイトスピーチと“カジュアルヘイト”に関する心理学的アプローチ─社会の中に埋め込まれている無頓着な差別的言動─」を執筆してます。

 例えば、社会的な無関心やNIMBYを背景に、行政による朝鮮学校の補助金打ち切りといった政治的・社会的な差別、政治家による朝鮮半島情勢の危機を扇動する発言、SNSなどでの外国人犯罪の多発や生活保護受給といったデマなどといったカジュアルヘイトが、朝鮮学校への攻撃的なヘイトスピーチへとつながっていくこと、さらにそうした攻撃的なヘイトスピーチがエスカレートして北朝鮮関連施設・団体へのヘイトクライムにつながることは、容易に推測できます。

 こうした「差別の生まれるトコロ」を知れば、自然と「たたかうチカラ」も見通せるかと思います。差別・ヘイトという権力的構造のなかにおける「どっちもどっち」論の悪質さや、2013年以降の反ヘイトスピーチの取り組みやそれ以前からの人々のたたかいについての解説などもあり、勉強になりました。

お話しされる渡辺先生

11・25「楯の会」事件から48年(上)三島由紀夫と沖縄返還

「楯の会」事件と三島の檄文

 昭和45年(1970)11月25日、三島由紀夫を隊長とする「楯の会」隊士5名が陸上自衛隊東部方面総監部において総監益田兼利を人質にとり、総監室前のバルコニーから集まった自衛隊員に憲法改正のための決起を訴える演説を行うものの、自衛隊員のなかにこれに応える者はなく、三島由紀夫と「楯の会」学生長森田必勝は割腹・介錯によって命を絶ち、他の隊士3名は捕縛された。事件は「楯の会」事件や三島事件などと呼ばれ、いまなお戦後史を代表する事件の一つとして語り継がれている。

 事件にあたって三島は「檄」と記した檄文をしたため、バルコニーから自衛隊員に向けて撒布するとともに、マスコミ関係者に送付し、万一警察により檄文の内容が秘匿されるような場合は公表して欲しいと伝えたとそうだ。三島にとって檄文が非常に重要なものであったことが理解される。

自衛隊の治安出動を狙っていた三島由紀夫

自衛隊員に決起を呼びかける三島由紀夫(毎日新聞2017.1.12)

 繰り返しとなるが、事件において三島が憲法改正を訴えたことはよく知られている。しかし檄文をよく読むと、三島は憲法改正により自衛隊が「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」という「建軍の本義」に立った「国軍」になることを目指しつつも、それは現実的には困難であると受け止めていたことがわかる。

 そのために三島は、当時激化していた左翼革命運動を警察が抑えきれないような状況が訪れれば、その時こそ「国体」を守る軍隊つまり自衛隊が治安出動し、これにより「建軍の本義」が回復されると考えた。そもそも三島にとって「楯の会」自体が、自衛隊が治安出動した際の前衛となる組織と位置づけられていたのだ。

 だが、結果として自衛隊の治安出動はなかった。三島が治安出動の絶好の機会と考えた昭和44年10月21日の「国際反戦デー」闘争は、出動した機動隊の圧倒的な警察力で過激派セクトの闘争が押さえ込まれ、事態は収拾されてしまった。三島は、これにより憲法改正は政治プログラムから外れたのであり、自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたとのだとする。そして自衛隊のなかからそれに反発するような声もあがらないことに憤激し、憲法改正のために立ち上がることを呼びかけるというのである。

 「楯の会」事件というと、三島が憲法改正を自衛隊に訴え命を絶った事件とだけ理解されているかもしれないが、三島が憲法改正を第一としつつも、その困難に直面しながら治安出動という別の方途を企図していたことが檄文にはっきりと記されていることはあまり知られていないだろう。

檄文に見える「沖縄返還」

  三島の檄文に見えながらあまり世間的に知られていないことといえば、沖縄施政権返還に対する三島の問題意識である。檄文には次のように記されている。

沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

 「楯の会」事件の起きた昭和45年といえば、長らく米軍施政権下にあった沖縄の施政権返還(沖縄返還)が大きな政治課題となっていた時期である。前年昭和44年には佐藤栄作首相とニクソン大統領による日米共同声明が発出され、昭和47年の沖縄返還が取り決められた。そして日米交渉が進められ、在沖米軍基地のあり方など沖縄返還がどのように実現されるのか注目が集まっていた。昭和46年には沖縄返還協定の調印・承認に関する「沖縄国会」が与野党の一大政治決戦となるなど、この時期は日本中が沖縄返還に関連して騒然としていたのである。

 当時の情勢を振り返りながらあらためて三島の檄文を見ると、三島は沖縄返還に関して、特に自衛隊による沖縄防衛や自衛隊沖縄はいび、あるいは日本の自主防衛と米軍駐留など米軍との関係について強い意識を持っていたことがわかるだろう。

 また当時、毛織物や化学合成繊維の貿易に関する日米繊維交渉が繰り広げられていたが、檄文でもそれについて言及がある。繊維産業の盛んな米南部での支持を取り付けるため、ニクソンは日本に対し繊維製品の輸出規制を求めたが、当初日本側はこの要求をつっぱねた。しかし佐藤は沖縄返還を最重要政治課題としていたこともあり、沖縄返還と核密約などを背景に日米繊維交渉での妥協、つまり輸出規制を決定したと噂され、日米繊維交渉は「『繊維』を売って『沖縄』を買った佐藤外交」(『朝日ジャーナル』1977.7)とも非難された。

 三島は檄文で

繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

と述べ、日米繊維交渉と沖縄返還を直接結びつけて論じてはいないが、こうした三島の主張の背景には、沖縄返還というものが存在していたのである。

沖縄返還と自衛隊

 実際、沖縄返還に関する日米共同声明以後、返還後の沖縄防衛と自衛隊沖縄配備に関して、自主防衛の観点から沖縄局地防衛の責務を負い、そのために自衛隊沖縄配備を進めようとする日本政府と、自衛隊沖縄配備による在沖米軍の展開への支障を懸念する米側との間で様々な議論が行われていた。

 米側は、自衛隊沖縄配備と沖縄局地防衛について、あくまで米軍の沖縄駐留により東アジアの平和が保たれ、それによって沖縄の安全も保障されているとし、能力の低い自衛隊が沖縄に配備され米軍にとって代わることなどを強く警戒した。また米側は、自衛隊沖縄配備が旧日本軍との連想の中で東アジア諸国に懸念を与えることは望ましくないとも考え、自衛隊沖縄配備による新施設建設は最小限とし、米軍の行動を妨げず、さらに日本全体の自主防衛のための沖縄局地防衛と自衛隊沖縄配備ではなく、沖縄の局地防衛に専念するかたちでの自衛隊沖縄配備を認容していった。

 沖縄返還後の自衛隊沖縄配備については、米軍基地を自衛隊が使用(共用)しつつ配備を進めることで合意され、沖縄返還とともに陸上自衛隊第1混成団はじめ自衛隊沖縄配備がはじまる。

 三島のいうとおり、米側は日本の自主的な軍隊による国土の防衛を望まず、自衛隊の任務は沖縄の局地防衛に限り、その上で沖縄への米軍の駐留と基地の自由使用を認めさせ、核などの密約も締結した沖縄返還は、檄文のとおり自衛隊が米軍の「傭兵」、あるいは「ガードマン」になった。その結果、沖縄にはいまなお重い米軍基地の基地負担が残る一方、自衛隊と米軍は一体化を進め、自衛隊による米国製兵器の大量購入や共同訓練、基地の共同使用や安保関連法に基づく米軍の後方支援の認容といった事態も起きている。三島の懸念は現実のものになったといえるだろう。

 「楯の会」事件における三島は、非常に冷静に現実を分析し、冷徹に情勢を見抜き、将来の展開を見通していたことがわかる。憲法改正や自衛隊の国軍化といった三島の主張に対する賛否は様々あるだろうが、事件当初から、そしていまでも続く「狂気乱心」といった事件評だけで「楯の会」事件や三島の思想を片づけるべきものではないはずだ。

 そのようななか、事件直後より、まさしく「狂気乱心」といった事件評を厳しくいましめ、事件に強い衝撃をうけながらも、三島と同様の冷徹さをもって事件と三島由紀夫を見ていたのが、戦後神社界を代表する思想家・言論人である葦津珍彦であった。次に葦津の事件評を見ていきたい。

(つづく)

「心神ヲ傷ルコトナカレ」 新嘗祭の夜の天照大神の神教え

新嘗祭と大嘗祭

 11月23日、宮中および全国神社で新嘗祭が行われます。天皇陛下はこの日午後6時、神座・御座が設けられた宮中三殿の神嘉殿で新嘗祭「夕の儀」にお出ましになり、天皇陛下みずから天照大神そして天神地祇に神膳をお供えする祭儀を執り行われます。また深夜には「暁の儀」の祭儀が執り行われます(なお、陛下のご負担軽減のため、「暁の儀」のお出ましは数年前から取り止めとなっているそうです)。

今上天皇傘寿を機に公開された新嘗祭の様子(平成25年11月23日:宮内庁提供)

 そもそも新嘗祭とは、年ごとの11月に行われる収穫祭であり、1年の豊穣を予祝する2月の「祈年祭」と対をなす農耕祭祀とされています。中国における「嘗祭」が秋における稲の祭儀であるように、新嘗祭は日本の代表的な稲作儀礼であり、その起源は稲作の開始とともにあったと考えられているそうです。なお、新嘗祭はもともとは11月の下卯日を祭日としていましたが(三卯あれば中卯日)、明治6年の新暦採用により23日と定められました。

 ちなみに、今上天皇は来年4月30日に退位され、翌5月1日に皇太子殿下が皇位を継承します。そう考えると、今上天皇がお出ましになられる新嘗祭は、今回が最後となるわけです。一つの時代の終わりを実感するとともに、そこでの営みがただちに次代に継承されるという「生成発展」の神道的あり方に気がつきます。

 なお、天皇即位による一世一度の新嘗祭は「大嘗祭」といわれ、来年11月に行われることになっています。大嘗祭では、天皇みずから天照大神・天神地祇に神膳をお供えするとともに、五穀豊穣と国家国民の安泰、そして災害の予防と国土の安全を神々に起請することになっており、歴代天皇の起請文なども残っています。災害の予防と国土の安全、つまり「防災」が天皇即位の一世一度の起請であることは、現代においても重要な意味を持つと指摘されています。

「心神」思想の発展

 ところで、平安時代末期から鎌倉時代にかけて撰述されたといわれている神道書『造伊勢二所太神宮宝基本記』には、垂仁天皇26年丁巳冬11月、天照大神が宮中を離れ伊勢神宮に鎮座した直後の新嘗祭の夜、倭姫命が天照大神の教えをうけて

人ハ乃チ天下之神物ナリ。須ラク静謐ヲ掌ルベシ。心ハ乃チ神明之主タリ。心神ヲ傷ルコトナカレ。神垂ハ祈禱ヲ以テ先ト為シ、冥加ハ正直ヲ以テ本ト為ス。其ノ本誓ニ任リ。皆大道ヲ得シメバ、天下和順シテ。日月精明ナリ。風雨時ヲ以テ。国豊カニ民安カナリ。

云々と神主部・物忌らに託宣したと記されています。つまり天照大神は新嘗祭の夜に、「人間の本性は神そのものである」「その本性を人は自ら不明としている」「清浄を極め、本性に戻れば天下安穏となる」という神教えを私たちにお伝えになったのです。

 こうした天照大神の神教え、つまり「心神」思想は、中世においては吉田神道の『神道大意』における「心ハ則神明ノ舎」として継承され、近世においては林羅山『神道伝授』においても「心ハ神明之舎也」として「心神」の教えが語られ、近世伊勢神道や垂加神道にも引き継がれながら発展していきます。

 罪穢れを祓によって除き、心が清浄の極みへ至ることにより神に通じる、あるいは神そのものである自身の本性を発見していくという思想は、ある意味において「原罪」を信じることのない思想であり、それは中国の道家思想や仏教思想の影響を受けながら独自に発展していった日本の歴史的な神観や人間観であるといえます。私たちはこの「心神」思想、つまり新嘗祭の夜の天照大神の神教えは非常に重要なものだと考えています。

修理固成の神学

 天照大神が神教えを示された伊勢神宮では、10月15日より神嘗祭が行われます。この神嘗祭は、祭祀構造からいっても新嘗祭と連動するものと指摘されています。先ほどの『宝基本記』における天照大神の神教えも、天照大神が伊勢の地に鎮座した直後の新嘗祭の夜のことであり、同床共殿であった宮中での新嘗祭が伊勢で行われたこと、それが神嘗祭の淵源となったことが推察されるわけですが、こうした新嘗祭と神嘗祭の連動は、早くに幕末の国学者・鈴木重胤が指摘していたといわれています。

 重胤は、天照大神は皇孫に神物たる稲穂を授け(「斎庭之穂の神勅」)、皇孫はそれを人民に勧農し、人民はその収穫を貢物として皇孫に納め、皇孫はそれを皇祖神に捧げ(神嘗祭)、また自ら聞食し(新嘗祭)、人民も賜る(節会)という神勅に見える日本のあり方やそれを構成する天照大神─皇孫─人民という三者の関係は、神嘗祭そして新嘗祭や神祇祭祀を通じ現実世界に具現化していると主張したともいわれています。

 また重胤は『延喜式祝詞講義』において、天津神諸々より伊邪那岐命・伊邪那美命に下された「修理固成」の神勅について、

神は人を賛けて天地造化に功を施し人は神に受けて天下経世に徳を致すべき物と定め給へり、是以て宇宙の事、善悪正邪吉凶損益有るなり、修理固成の用無くば神も人も無用の長物と云べし、

といいます。こうした重胤の神と人の相承関係は、新嘗祭・神嘗祭の連動における神話伝承が神祇祭祀を通じ現実世界に具現化するという理解に通じるものがあり、人の存在する意味や価値を明確に主張し、神と人の隔絶を強調するのではなく、人を神の生みの子とし、神と人の関係における人間存在の重要性を指摘するものと考えられています。

 以上、先人の教えや研究を踏まえ、新嘗祭に関連していくつかの神と人との「回路」についての考察や、またそこにおける人間の精神のあり方やあるべき所作、はたすべき使命についての先人の議論を確認することができました。新嘗祭の夜を間も無く迎えるにあたり、あらためて神に通じる人として何をなすべきか考えてみたいと思います。

日産ゴーン会長逮捕で「司法取引」実施ー司法取引制度導入後に新設された「共謀罪」初適用も間近か

日産ゴーン会長逮捕

 19日夜、東京地検特捜部は日産自動車カルロス・ゴーン代表取締役会長と同グレッグ・ケリー代表取締役を金融商品取引法違反の容疑で逮捕し、日産本社などの家宅捜索をおこなった。事件の全貌や捜査の行方はいまだ不明ながら、日産の内部調査ではゴーン会長が会社の資金を私的に使用したことも明るみとなっており、特別背任事件などに発展する可能性もささやかれている。

日産ゴーン会長(朝日新聞デジタル2018年11月20日)

 ゴーン会長は平成11年(1999)、仏ルノー社から当時多額の債務を抱え経営危機に陥っていた日産に派遣され最高執行責任者に就任した。ゴーン会長は日産再建のため「リバイバルプラン」を発表し、主力工場の閉鎖や労働者の解雇など大規模な事業整理をおこない、債務返済や売上高上昇など業績回復を果たした。その一方でゴーン会長による強引な労働者の解雇は社会問題ともなり、「コストカッター」の異名をとった。

 ゴーン会長は近年では、ルノー社会長や三菱自動車会長も兼務し、ルノー・日産・三菱のアライアンスの総帥として辣腕を振るってきたが、長年取材を続けていた人物によれば、ゴーン会長による会社の私物化や派手な私生活、あるいは経営責任を免れるための懲罰人事といった驕りも見え隠れしていたそうだ。破綻寸前であった日産を立て直した「救世主」は、「独裁者」へと変貌しはじめていたのだろうか。

 実際、ゴーン会長逮捕をうけて記者会見した日産西川廣人社長は、ゴーン会長への権限の集中によるガバナンス不全を指摘し、ゴーン会長について「功罪両方ある」と意味深長な発言をしている。

実施された「司法取引」、「共謀罪」初適用も間近か

 今回、ゴーン会長の捜査・逮捕について、司法取引が実施されたといわれている。司法取引とは、捜査に協力する見返りに刑事処分を軽減する制度のこと。平成28年(2016)の改正刑事訴訟法で導入され、今年6月から実施された。三菱日立パワーシステムズ元取締役らの収賄事件に続き、適用は2例目となる。なお、今回の司法取引では、ゴーン会長の容疑に関与した日産社員が司法取引をおこなったといわれている。

 ところで、司法取引導入の翌年、組織犯罪処罰法が改正され、「共謀罪」が新設された。「共謀罪」は国会などで激しい議論となった他、国民的な批判も集まったことは記憶に新しい。「共謀罪」の「組織的犯罪集団が犯罪を謀議・合意し、その準備行為を行う」という構成要件は、事実上、捜査機関の裁量に負うものであり、捜査機関による恣意的運用と捜査権限の拡大をもたらす危険なものとして反発が高まったのである。

 例えば、基地問題に関する市民団体の座り込みも、捜査機関が市民団体を組織的に威力業務妨害を行う組織的犯罪集団と解せば、座り込みの打ち合わせが「犯罪の謀議・合意」となり、座り込み日時の連絡などが「準備行為」とされ、組織的な威力業務妨害共謀罪として取締まりを受ける可能性もある。

 これまでの刑事法体系は、ある犯罪の実行行為を取締まり対象とするため、捜査機関は犯罪の実行行為に関する捜査(例えば薬物密売に関する電話の盗聴など)を行うことになるが、「共謀罪」は犯罪の「合意」を取締まり対象とするため、捜査機関は「合意」の前段階にある市民の何気ない日常的な電話やSNSなどを恒常的に捜査対象とすることになる。市民の日常生活を捜査機関が監視する、非常に危険な法律なのだ。

 「共謀罪」は現段階ではどの事件にも適用されていないが、今回のゴーン会長逮捕など司法取引の適用が進んでいる状況を見ると、何らかの事件に対して「共謀罪」が初適用されるのも間近といえるのではないだろうか。

なし崩し的な刑事捜査の拡大と治安維持法

 「共謀罪」新設に関して反対の声が高まったことは上述のとおりだが、一度新設されてしまえばその改正はたやすく、なし崩し的に捜査権限の拡大が行われる可能性もある。戦前の治安維持法も成立後すぐに改正され、昭和16年(1941)には事実上の新法ともいえるような改正が行われた。これにより治安維持法の取締り対象である「結社」を、厳密な意味での結社から「集団」と解釈し、取締りの網が拡大していった。さらに予防拘禁が認められ、控訴審の省略や広範囲の強制捜査権を捜査機関に認めるなど、治安維持法に関して特別な刑事訴訟制度を新設するなどした。

帝国議会に上程された治安維持法案(国立公文書館)

 最終的に治安維持法は法制当時の政府の説明から全く変貌し、恐るべき弾圧の法令となっていった。大正14年(1925)の法制以来、その取締り対象は拡大し続け、10万人もの検挙者を生むにいたる。さらに治安維持法の運用は民族差別的なものがあり、治安維持法違反における死刑執行は日本ではおこなわれなかったが、朝鮮では死刑が執行されるなどした。

 同時に、当時の治安当局は治安維持法制定後、治安維持法の適用対象を探しあぐねていたことに注意するべきだ。この頃すでに共産党は壊滅状態にあり、アナキストも力を失っていた。そこで治安当局は同志社大学の掲示板に軍事教育反対のビラが貼られていたことに端を発する京都学連事件について、無理やり治安維持法を適用する。まさしく治安維持法の恣意的運用・拡大解釈による捜査・取締りであり、以降、治安維持法の適用が進んでいくのである。

 いよいよ間近に迫ったかもしれない「共謀罪」初適用。治安維持法のごとき恣意的運用・拡大解釈の無理やりの適用となるか。「共謀罪」初適用の行方を見守ることは、「共謀罪」が治安維持法化するかどうか見極めることにもなる重大な意味を持つ。

平成30年11月19日 花瑛塾行動隊街頭行動(沖縄基地問題、北方領土問題)

 花瑛塾行動隊は今日、総理官邸・自民党本部・米大使館・ロ大使館周辺にて街宣を行いました。

 特に今日は昭和43年(1968)11月19日未明に嘉手納飛行場で発生した米B52戦略爆撃機の墜落・爆発事故から50年ということもあり、沖縄へ基地負担を押しつけ、米軍機の危険な飛行など米軍の無法・横暴を追認する日米安保体制の見直しを訴えました。

 今月12日には、沖縄の大東諸島付近海域において、自衛隊と共同巡航訓練を行っていた米海軍機FA18戦闘攻撃機が墜落する事故が発生してます。普天間第二小学校での米軍ヘリの窓枠落下事故や高江での大破・炎上事故などは記憶に新しいところですが、沖縄復帰以降、米軍機の墜落事故は50件にものぼります。つまり沖縄では年に一度は米軍機が墜落している計算となりますが、沖縄以外の日本の他の都道府県で、年に一度は米軍機が墜落しているような都道府県はあるのでしょうか。沖縄の過重な基地負担がここにあらわれており、沖縄の置かれている状況は、本質として50年前のB52墜落・爆発事故当時とかわっていません。

米大使館

 また北方領土交渉の方針転換について、安倍政権に明確な説明と総括を求めました。平和条約締結交渉を加速させ、平和条約締結後に歯舞諸島・色丹島の返還、つまり二島先行返還が行われるということだが、国後島・択捉島の帰属が明確とはなっていない。またロシア側は歯舞諸島・色丹島の「主権」の問題について触れるなど、二島返還すら本当に実施されるのか、よくわからない状況にある。

 これまでの政府・自民党の四島返還論とは一体何だったのか、外交方針を転換するのならばこれまでの総括と今後の外交方針の説明をはたすべきだ。