平成29年8月26日 関東大震災における外国人虐殺被害者慰霊

1923年9月1日に発生した関東大震災より94周年を間近に控え、震災直後の9月3日に惹起された中国人虐殺事件「東大島町事件」の現場(東京都江東区大島8丁目)を訪れ、慰霊・鎮魂の祈りを捧げました。

震災直後に発生した「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「社会主義者が革命を企てている」などの流言飛語により、多数の朝鮮半島出身者や社会主義者が軍や警察そして民間人・自警団により虐殺されましたが、中国人も多数虐殺されました。

東大島町事件とは、震災直後、この付近に住んでいた中国人労働者の宿舎に軍や警察や民間人が押し寄せ、中国人を外に出した上で虐殺したというものです。事件の背景には、日本人のなかにあった中国人労働者への蔑視や、中国人労働者を斡旋する手配師たちによる労働者の整理があったともいわれています。その他にも、中国人留学生・王希天が警察により拘束された後、軍により虐殺される「王希天事件」なども発生しました。

天才的な文学者・民俗学者である折口信夫は、関東大震災発生直後に第2回沖縄採訪を終え横浜港に帰港しますが、帰路、自警団の尋問に合いました。折口はその時のことを、

「道々酸鼻な、残虐な色色の姿を見る目を掩ふ間がなかった。歩きとほして、品川から芝橋へかゝつたのが黄昏で、其からは焼け野だ。自警団の咎めが厳重で、人間の凄ましさ・あさましさを痛感した。」(折口信夫「砂けぶり」自註)

と述べています。さらにその後の日本人による外国人虐殺の悲しみを「砂けぶり 二」という詩に綴りました。

砂けぶり 二

両国の上で、水の色を見よう。
せめてもの やすらひに―。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ

横浜からあるいて 来ました。
疲れきつたからだです―。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい 気がします

夜になつた―。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町で 金棒ひいて
夜警に出掛けようか

井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々―。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめ だらう

かはゆい子どもが―
大道で しばいて居たつけ―。
あの音―。
帰順民のむくろの―。

おん身らは 誰をころしたと思ふ。
かの尊い 御名において―。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい

この詩から、折口による日本人そして人間の残虐さの告発を読み取ることができます。

現代は世界的に歴史修正主義が吹き荒れ、それは日本も例外ではありませんが、国を思い、愛すればこそ、自国の歴史の負の部分から目を背けず、これを引き受ける必要があるのではないでしょうか。

関東大震災における流言飛語と虐殺事件については、内閣府中央防災会議の報告書が簡潔かつ要領よくまとめている他、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜころされたか』青木書店、西崎雅夫『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』現代書館、 田中正敬「関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」(『大原社会問題研究所雑誌』 669号)など、多数の著書や研究論文があります。

 

平成29年8月23日 神仏奉拝(金刀比羅宮、月寒神社)

金刀比羅宮(東京都港区)を参拝しました。

同宮は江戸時代に讃岐国丸亀藩主・京極高和が金刀比羅宮(本宮)の御分霊を藩邸内に勧請したことを創建の契機とします。御祭神は大物主神・崇徳天皇です。江戸市中の人々の尊崇を集め、藩邸を開放し参拝を認めたとの逸話もあります。

月寒神社(札幌市豊平区)を参拝しました。同社は広島県出身の移住民が勧請し、大正7年に村社に列格されました。御祭神は倉稲魂命・大山祇命・市杵島姫命・宇摩志麻遲命です。

同社の鎮座する月寒公園内には忠魂納骨塔があり、日露戦争から先の大戦までの戦没者の遺骨や霊璽簿が納められています。

平成29年8月17日 花瑛塾行動隊街頭宣伝行動

花瑛塾行動隊はこの日、首相官邸前・自民党本部前で安倍政権が強行する沖縄県名護市における辺野古新基地建設や沖縄県東村・国頭村における北部訓練場基地機能強化について抗議しました。

その後、アメリカ大使館前にて、広島・長崎における原爆投下や東京大空襲などアメリカによる戦争犯罪を弾劾した上で、核の実戦使用国アメリカと被爆国こそが全ての被爆者・犠牲者の苦しみの上に立ち、核廃絶に取り組むべきことを訴えました。

またロシア大使館前にて、いまだ不法に占拠されている北方領土の返還と旧ソ連による対日参戦の違法性を訴えるとともに、アメリカに妨害された戦後日本の対ロ交渉の誤りを認めた上で、歴史に裏付けられた原則的で柔軟な日ロ交渉のあり方と、国家に翻弄された北方領土元島民や先住民族アイヌの支援や権利擁護を日ロ両国で取り組むべきことを求めました。

その他、首相官邸前・自民党本部前では、北朝鮮による日本人拉致事件や北朝鮮の核・ミサイル実験といった軍事的挑発など、日朝交渉が暗礁に乗り上げている現状を指摘し、「圧力」「毅然とした態度」などの空虚な言葉のもとに進められた安倍政権のその場限りのパフォーマンス的な対北朝鮮強硬外交の無意味さと危険性を訴えました。

映画『米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー』(監督:佐古忠彦氏)

 佐古忠彦氏の初監督作品『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』が今月8月12日より桜坂劇場(沖縄県那覇市)で先行公開され、26日より順次全国公開される。佐古氏はTBS「筑紫哲也NEWS23」でキャスターを務め、近年では沖縄基地問題に関心を寄せていた。音楽は坂本龍一、ナレーターに大杉漣が加わる。TBSも過去の映像を大量に提供したとのこと。

 カメジローこと瀬長亀次郎は、1907年に沖縄県に生まれ、社会改革を志すも投獄。その後は新聞記者として活躍した。戦後は沖縄人民党結成に参画し、党の代表や那覇市長を務めた。瀬長はアメリカの沖縄統治に強硬に抗った人物であり、その主張や過去の経歴から「コミュニスト」として危険視され、「人民党事件」などアメリカによって徹底的に弾圧を受けた人物である。まさしく瀬長は「米軍が最も恐れた男」なのである。

 平良好利「戦後沖縄と米軍基地(5) 沖縄基地をめぐる沖米日関係 」(『法学志林』107巻4号、2010年)によると、瀬長が逮捕された「人民党事件」とは、1954年、瀬長が沖縄からの退去命令を受けていた奄美出身の2人の人民党員をかくまったとして、同じく人民党中央委員・又吉一郎(豊見城村長)とともに逮捕され、瀬長は懲役2年、又吉は懲役1年の刑を受け、さらに瀬長らの逮捕に抗議するビラやポスターを印刷・配布したとして、立法員議員・大湾喜三郎ら党員19名が逮捕された空前の大弾圧をいう。

 瀬長は56年に出獄し、その頃に公開されたプライス勧告への反対運動に取り組み、さらに同年末には那覇市長選挙に当選し市長となる。この結果に驚いたアメリカと琉球政府は再び瀬長に圧力を加え始める。琉球政府行政主席・当間重剛はアメリカに瀬長追放を要請し、アメリカは琉球銀行を介して那覇市に対する融資や補助金の打ち切り、市の預金を凍結するなど、瀬長市政に圧力をかける。そして布令をもって市町村自治法と選挙法を改正し、「人民党事件」での有罪歴をもって瀬長の被選挙権を剥奪した。

 しかし瀬長は、瀬長の後任を決める市長選挙に社会大衆党・兼次佐一を擁立し選挙戦を戦い、兼次は当選する。現在、瀬長を記念する資料館の名称が「不屈館」である通り、瀬長は「不屈の人」であった。そしてその不屈の精神をアメリカは恐れた。

 それでもけして間違えてはならないことは、アメリカは瀬長個人のみを恐れたのではないということだ。瀬長が弾圧に次ぐ弾圧を受けていた50年代、プライス勧告を受けた反対運動が大きく盛り上がり、いわゆる「島ぐるみ闘争」へ発展していった。若林千代「第二次世界大戦後の沖縄における政治組織の形成、一九四五年―一九五一年 ―沖縄人民党を中心にして― 」(『沖縄文化研究』28号、2002年)は以下のように記す。

…占領の矛盾が住民の反発を招き、抵抗の潮位を押し上げるなか、人びとは地域での集会や陳情、署名といったさまざまな手段を通じての政治参加の経験を積み重ねていった。米軍政府が恐れたのは、そのような場で醸成される人びとの政治意識の覚醒と結合だったのであり、そのために人民党に対して徹底した切り崩しをはかろうとした。

 若林氏の指摘する通り、アメリカは瀬長を恐れ、そして瀬長とともにあった沖縄民衆を恐れたのである。強行された基地建設など米軍統治の問題は様々あるが、沖縄民衆の怒りの爆発を警戒し、ある種の「善政」や妥協をアメリカが行ったことも事実なのである。瀬長の戦いや不屈の精神に学び、一人一人が強くあることが、沖縄を、そして日本をかえることになる。

 こうした点も含めて映画の公開を楽しみにするとともに、多くの人に鑑賞して欲しい。

8月15日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」 戦争の記憶の継承と慰霊

昭和20(1945)年8月15日正午、ポツダム宣言受託を国民に告げる終戦の詔書を読み上げる昭和天皇の玉音が放送されました。連合国には既に前日14日にポツダム宣言受託の旨は通知されており、正式な降伏調印は翌月9月2日に行われ、沖縄や北方地域あるいはアジア各地では8月15日以降も戦闘が継続されましたが、先の大戦の一つの大きな節目は8月15日に他なりません。この日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされ、政府主催の全国戦没者追悼式も開催され、天皇陛下もお言葉を述べられます。「戦争の記憶の継承と慰霊」を掲げる花瑛塾では13日より15日までの3日間、各所で先の大戦にて戦陣に散った戦没者と戦禍に倒れたすべての犠牲者を慰霊・追悼し、世界の平和を祈念しました。

14日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて行われた第52回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典に参列しました。この式典は新日本宗教青年会連盟によるもので、新日本宗教団体連合会や新日本宗教青年会連盟加盟の新宗教系各宗教団体が教義や信条の違いを乗り越え、戦争犠牲者を慰霊し、「絶対非戦」を誓うものです。各団体が合同しつつ、それぞれの作法・所作をもって慰霊・礼拝をする様子から、真摯な慰霊と平和への思いを感じました。各宗教団体の信者や一般参列者など多数の参列者があった他、新宗教系のみならず伝統宗教など宗教界や宗教学者など学界からの参列者はもちろん、衆議院議長や厚生労働大臣、野党党首など政界からも多数参列があり、国民的な慰霊のあり方を思いました。

同じく14日、静岡県護国神社(静岡県静岡市)を参拝しました。静岡県護国神社では13日より15日までの3日間、「万灯みたま祭」が行われ、御祭神をお慰め申し上げることから、境内には奉納された提灯が多数飾られ、たくさんの人が参拝に訪れていました。なお同社社務所2階には戦没者遺族より寄せられた戦争に関する遺品を収蔵した遺品館などもあり、戦争の記憶の継承と慰霊の施設ともなっています。

15日、埼玉県護国神社(埼玉県さいたま市)にて行われた「みたま祭」に参列し、同社本殿にて昇殿参拝しました。生憎の雨でしたが、埼玉県出身の殉難者遺族を中心に、多数の参列がありました。祭典では童謡の奉納なども行われ、同社御祭神をお慰め申し上げました。

13日および14日は、埼玉県護国神社清掃奉仕の会による埼玉県護国神社「みたま祭」の準備奉仕に参加し、境内の清掃や設営、飾り付けなどを行いました。また14日はみたま祭前夜祭が行われ、参列しました。前夜祭では手作りの行燈が奉献された他、奉納演奏なども行われ、遺族を中心に心のこもった慰霊が行われました。

15日、靖国神社(東京都千代田区)を参拝しました。同社は明治2(1869)年に東京九段に創建された東京招魂社を起源としますが、明治元年の太政官布告と江戸城西の丸広間で執行された東征大総督・有栖川宮熾仁親王らによる官軍将兵の招魂祭をさらなる淵源とします。これらは人霊祭祀や招魂祭祀といった当時にあっては革新的な神学に基づく祭祀であることにも注意が必要です。戦前の靖国神社は実質的に陸軍省主管の国家的な神社でしたが、戦後は単立の神社として祭祀を継続しています。例年8月15日には戦没者遺族を中心にたくさんの参拝者が訪れますが、この日も時折激しく雨が降るなか多くの方が参拝に訪れた他、「全国戦没者追悼式」での黙祷に合わせ、参拝者全員で黙祷を執り行うなどしました。

8.9 ソ連対日参戦・長崎原爆投下の日 街頭行動

ソ連対日参戦の日・長崎原爆投下の日の9日、ロシア大使館に要請書を投函し、アメリカ大使館前にて核廃絶を訴えました。

1945年8月9日、日ソ中立条約の有効期間内にも関わらず、ソ連はアメリカの教唆のもと対日参戦しました。ソ連の対日参戦とこれによる領土侵略は国際法違反であり、この過程において発生したソ連兵による蛮行も含め、許しがたい戦争犯罪です。

こうした米ソの非道は許されませんが、日ロ交渉は日魯和親条約による樺太島雑居地化や樺太・千島交換条約など、日ロ両国の北方政策の柔軟な歴史を参照しつつ、新たな道筋を模索すべきです。特に日本政府が主張し続けた北方四島返還論はサンフランシスコ条約の領土条項の観点から矛盾があり、国際法上もっとも適法な状態に国境線をロールバックし、その上で北方地域の現状を踏まえた原則的で大胆な交渉が求められています。さらに戦後一貫して日ソ・日ロ交渉に陰に陽に介入し続けたのはアメリカであり、今後の日ロ交渉においてアメリカの影響力を断固として排除する必要があります。

同時に領土交渉とは切り離した上で、国家に翻弄された北方領土元島民・北方先住民族アイヌの人々の支援や権利擁護を、北方地域に責任を有する国家としての日ロ両国が行う必要があるのではないでしょうか。

アメリカ大使館前では、核兵器の実戦使用国米国と唯一の被爆国日本こそが連携し、朝鮮人被爆者も含めすべての犠牲者を悼み、核廃絶と世界平和を実現することを求めました。日本政府は核兵器禁止条約に反対し、アメリカは依然として世界有数の核保有国であり続けています。72年の沖縄返還では、沖縄に配備されていた戦略核の撤去が合意された一方、有事に際しては沖縄へのアメリカの核兵器の持ち込みを認める日米密約が存在するなど、日米の核の許容は被爆者への重大なる冒涜です。

さらにオーストラリア東部沿岸でのMV-22オスプレイの墜落事故を受け、沖縄はじめ各国の駐機・演習地周辺の人々と乗員の米兵をも危険に晒すMV-22などオスプレイの飛行中止を要求しました。

その他、首相官邸前、外務省前、自民党本部前、国会前などで日ロ交渉の見直しと核廃絶を求めました。

8月9日旧ソ連対日参戦の日を前にー日ロ両国による原則的かつ大胆な北方政策をー

 8月9旧ソ連による対日参戦の日を前に、花瑛塾は、ロシア政府に対し国際法違反の対日参戦とこれにより侵略した北方領土の返還を、日本政府に対し戦後の対ロ外交・対米外交の見直し、日ロシ平和・友好の確立を、そして北方地域に責任を有する国家として日ロ両国に対し国家に翻弄された北方領土元島民および北方先住民族アイヌの人々の権利擁護を求める。

 昭和20年8月9日、旧ソ連は日ソ中立条約の有効期間内にも関わらず対日参戦し、満州・朝鮮・南樺太・千島列島に進軍し、これを占拠した。爾来、72年の長きに渡り、不法に占拠されている。旧ソ連の対日参戦が国際法違反の侵略行為であることは明白であり、さらに戦闘において旧ソ連が行った殺人・強盗・放火・略奪など数々の蛮行・戦争犯罪、そしてその後の抑留と強制労働は許しがたく、厳しく糾弾する。

 日本は1951年に単独講和の道を選び、東側諸国との関係が悪化していたが、旧ソ連との領土返還・国交回復交渉が進展し、1956年に日ソ共同宣言を締結する。これにより日ソ国交は回復し、日本は国連に加盟し国際社会へ復帰した。その上で日ソの領土返還・国境画定交渉が進む予定であったが、難航し現在に至る。

 領土返還・国境画定交渉における日本政府の主張は、国後島・択捉島・色丹島・歯舞諸島の北方四島は、北海道の一部であるから返還せよという主張であったが、国後島・択捉島は実際には千島列島の一部であり、そのことは日本政府も認めている。そして日本政府はサンフランシスコ条約で千島列島の主権を放棄している。つまり日本政府の領土返還要求に根拠はなく、ロシア・旧ソ連が反発し領土返還・国境画定交渉が座礁したのも無理はない。

 領土返還・国境画定交渉が事実上破綻しているいま、日本とロシアは、以下の4つの点を確認することにより、新たなアプローチで北方問題に取り組む必要がある。

  1. 旧ソ連の対日参戦は国際法違反の侵略行為であり、これにもとづく領土占拠の無効。
  2. 旧ソ連の対日参戦は第2次世界大戦の連合国の基本方針である「領土不拡大」に反し、これを追認するサンフランシスコ条約の領土条項の無効。
  3. 過去の日本政府の不当な領土返還要求の撤回。
  4. 旧ソ連の対日参戦を教唆したのはアメリカであり、過去の領土返還・国境画定交渉に際し、陰に陽に介入をし続け、日ソ・日ロの友好を妨害し続けたのもアメリカであって、今後の日ロ交渉へのアメリカの干渉の排除。

 これらの点を踏まえた上で、国際法上もっとも適法であった状態、すなわち1945年8月8日の状態へ国境線をロールバックし、日本の主権を確認した上で、72年に渡る旧ソ連・ロシアの統治という歴史の重みを理解し、そこにおいて築かれた人々の暮らしや文化を尊重し、北方地域の現状を根底から覆すことのない、新たな領土返還・国境画定交渉のあり方を模索する必要がある。

 江戸幕府と帝政ロシアの日魯和親条約以来、樺太・千島交換条約やポーツマス条約と、国際法にのっとり国境線は幾度も変更された。従って日ロともに、いまにおいて国境線の変更をためらう理由はない。さらに日魯和親条約における樺太島雑居地化など、日本とロシアは柔軟な北方政策を展開した。こうした先人の知恵に学び、過去の経緯に固執して北方政策の歴史的本質を見失うことなく、日ロ関係を展開していく必要があるはずである。

 同時に、領土返還・国境画定交渉とは切り離した上で、北方領土元島民の故郷への自由な往来や交流、北方地域の先住民たるアイヌの人々の権利擁護を日ロ両国で支援するなど、国家に翻弄された元島民や先住民のために、北方地域に責任を持つ国家である日ロが連携して果たすべき役割は数多い。

 折しも、駐日ロシア連邦特命全権大使は、中国大使を務めた時代、中ソ国境交渉に従事し、国境画定を果たしたエフゲニー・アファナシエフ閣下である。日ロ交渉の進展は、けして「できない話」ではない。日ロ両国に原則的かつ大胆な北方政策の展開を求める。

(画像は、昨年7月サハリン・ユジノサハリンスク<北方領土・旧南樺太豊原市>における元島民日本人合同慰霊祭のNHK報道 花瑛塾塾長が祭員を務めた)

オーストラリアでのMV-22オスプレイの墜落事故について

 8月5日日本時間午後3時頃、米海兵隊所属MV-22オスプレイがオーストラリア東部沿岸に墜落した。乗員26人のうち23人が救助されたが、残る3人の行方は不明とのこと。米海兵隊が捜索を打ち切ったとの情報もある。引き続きの捜索・救助と乗員の無事を祈りたい。

 事故機のMV-22オスプレイは、キャンプ・ハンセン(沖縄県金武町)に拠点を置く在沖米海兵隊第31海兵遠征隊(31MEU)に所属し、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に駐機されている機体である。31MEUは1年のうち約6~8ヶ月はオーストラリアやタイなどアジア太平洋各国を巡回し、同盟国軍との共同訓練を行っている。今回の墜落事故もオーストラリアにおける共同訓練中の事故と見られる。

 そもそもV-22オスプレイ(海兵隊所属機の場合は、MV-22オスプレイ)は、ティルトローター式回転翼を有する垂直離着陸が可能な航空機だが、試作・配備にあたって重大事故を起こしたことから「未亡人量産機」とも揶揄された。その危険性と巨額の開発費用や開発の遅れにより米軍は開発・配備を中断したが、製造元の軍需産業の意向により復活したといわれている。つまりV-22オスプレイは軍事的要請に基づく航空機ではなく、「政治的兵器」ともいえる。このような危険な航空機を配備し、兵員を搭乗させた米国の罪は重い。

 現在建設中の辺野古新基地(沖縄県名護市)にもMV-22オスプレイの配備が予定されている。そして至近の北部訓練場(沖縄県東村・国頭村)ではMV-22オスプレイ用ヘリパッドが建設され、MV-22オスプレイを用いた演習が予想されているが、騒音や墜落の危険などにより、付近住民はじめ沖縄の人々の暮らしは大打撃を受ける。さらに猛烈な下降気流や高温の排熱により、北部訓練場が位置する「やんばるの森」が「干上がる」ともいわれ、希少生物にも深刻な負荷を与えることになる。

 日本政府は90年代には米軍によるV-22オスプレイ沖縄配備計画を把握していたが、ごく最近までそれを公表せず、隠し続けた。政府は辺野古新基地建設も北部訓練場ヘリパッド建設も「沖縄の基地負担軽減」とするが、「基地負担」そのものであるV-22オスプレイの配備を受け入れ、国民に公表しないといった姿勢を見れば、政府のいう「基地負担軽減」などデタラメそのものといえる。

 また「V-22オスプレイの沖縄配備は、尖閣諸島有事をはじめ中国の軍事的伸長への抑止力となる」といった議論が散見されるが、「中国脅威」論なるものがリアリティあるものかどうかは別の議論として、V-22オスプレイは機体が小さいため兵員を大量に運ぶことはできず、車輛を積み込むこともできないといわれている。V-22オスプレイの沖縄配備は「抑止力」にはつながらない。上述のように、31MEU自体が1年の半分近くを沖縄以外で訓練を行っていることを考えれば、そもそも在沖海兵隊そのものに「抑止力」が存在するのかどうか、考え直さねばならない。

 V-22オスプレイへの乗務という危険を強いられる米兵や、駐機・訓練実施により墜落・騒音といった危険性と基地負担を強いられる沖縄や各国の人々のためにも、日本政府はV-22オスプレイの配備撤回を行うべきである。

(画像は、オーストラリア東部沿岸で行方不明となった隊員の捜索を行う米艦船 時事ドットコムニュース 2017.8.6 21:05より)

広島・長崎原爆投下の日 核廃絶を訴える街頭宣伝

花瑛塾行動隊は6日、アメリカ大使館前、首相官邸前、外務省前、自民党本部前にて、アメリカによる広島・長崎への原爆投下を弾劾し、朝鮮人被爆者も含む全ての犠牲者のために、日米こそが核廃絶を目指すよう求めました。

1972年沖縄返還にいたる返還交渉は「核抜き、本土並み」が標語でしたが、実際には沖縄に配備中の戦略核などが撤去される一方、有事の際には沖縄への核の持ち込みを認める密約が存在しました。日米の核の”許容”はただされるべきです。

街宣にあたり、関東大震災犠牲者とともに東京大空襲犠牲者の御遺骨をお納めする東京都慰霊堂を参拝し、東京大空襲犠牲者に哀悼の意を表しました。原爆投下のみならず、東京大空襲など米国による都市空襲も巨大な戦争犯罪であり、許されません。特に東京大空襲は「無差別爆撃」ではなく、あえて非戦闘員を狙い住宅街を目標とする「選別爆撃」だったことが米軍資料から明確になりつつあります。

こうした歴史的事実を踏まえつつ、いまを生きる私たちは怨讐を乗り越えて犠牲者の無念を晴らすためにも、日米こそが手を取り合い核廃絶と世界の平和を目指すべきではないでしょうか。

花瑛塾第9次沖縄派遣団 平敷兼七ギャラリー

花瑛塾第9次沖縄派遣団は6日、平敷兼七ギャラリー(沖縄県浦添市)で開催中の写真展「二人展シリーズVol.6 社交街」を鑑賞し、その後、トークイベント「社交街から見た沖縄」を拝聴しました。

米兵を相手とする歓楽街・真栄原社交街(沖縄県宜野湾市)に生きる人々を写した平敷氏や中川大祐氏の写真から、沖縄現代史への思いを新たにしました。

またトークイベントでは真栄原社交街の成立や最盛期の状況、あるいは基地撤去運動の盛り上がりのなかで、米兵の外出禁止令という米軍の措置を受けた社交街の苦境や反発などの話を伺い、同じ地域に生きる人々のなかに強者によって持ち込まれ敷かれる「分断」について考えました。