沖縄・嘉手納 B52墜落事故から50年 沖縄の置かれている状況は何もかわっていない

嘉手納飛行場B52戦略爆撃機墜落、爆発事故

 昭和43年(1968)11月19日午前4時18分、沖縄の嘉手納飛行場でベトナム爆撃に出撃する米空軍B52戦略爆撃機が離陸に失敗し墜落した。その際、B52に搭載されていた大量の爆弾が誘爆し、キノコ雲が発生するほどの大爆発を起こした。飛行場周辺の住民の犠牲者こそ出なかったが、爆風による被害が発生するなどした。事故は付近住民はもちろん、沖縄県民を恐怖に震え上がらせた。

B52墜落事故現場の様子(読谷バーチャル平和資料館)
ベトナム戦争とB52

 当時、B52は嘉手納飛行場からベトナムに向けて出撃、かの地で空襲を繰り返し、多くの人命を奪っていた。そのため周辺住民は、嘉手納一帯に響き渡ったB52の墜落、爆発による爆音、あるいは爆風や地響きから、「ベトナム戦争の報復攻撃がおこなわれた」と思ったという。さらに立ち上るキノコ雲から、核戦争の開始を思ったそうだ。

 事故と反戦への思いから、これを機にB52の撤退や米軍基地の撤去を求める運動が展開され、米軍施政下から脱却を目指す声も高まり、ゼネストなども企図された。

 このころ、B52はベトナム爆撃により悪名が高かったのみならず、核兵器搭載中のB52の墜落やB52からの核兵器の落下などの事故も世界各地で多発させていた。そして発生した嘉手納飛行場におけるB52の墜落、爆発事故。沖縄の人々の恐怖と怒りは当然のものであった。実際に嘉手納飛行場の付近の知花弾薬庫には核兵器が貯蔵されていると噂され、化学兵器なども配備されていたことから、一歩間違えれば本当に大惨事になっていた可能性もある。

B52撤退を求めるゼネスト(沖縄タイムス社『写真記録沖縄戦後史』)
日米密約とB52

 沖縄の人々の運動の成果もあり、昭和45年(1970)以降、B52はタイに移転することとなった。日本政府は今後のB52の沖縄への飛来を否定したが、実際は日米両政府が沖縄復帰後のB52の沖縄飛来を容認する「密約」を交わしていた。

 また沖縄では、伊江島での核兵器の低高度爆撃訓練中における模擬核兵器誤射事件や、那覇での核ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」の誤射事故なども発生しており、いつ沖縄で核爆発や放射能汚染が発生しても不思議ではなく、いつか沖縄が核戦争に巻き込まれる可能性があったが、日米両政府は沖縄復帰後も有事においては沖縄へ核の持ち込みを認める「密約」も交わしていた。

 日米両政府は常に「密約」によって事態を隠ぺいし、沖縄の人々をだまし、沖縄に基地負担を押しつけてきたのである。

沖縄返還以降の昭和47年(1972)10月、嘉手納飛行場に飛来した103機ものB52(沖縄県公文書館【資料コード:0000137481】)
復帰後50件の米軍機墜落事故

 今月12日には、沖縄県大東諸島付近海域において、自衛隊と共同巡航訓練を行っていた米海軍機FA18戦闘攻撃機が墜落する事故が発生した。幸いにも2名の搭乗員は緊急脱出し命に別状はなく、民間人の犠牲者などもいなかったそうだが、一歩間違えれば大事故になっていた。

 沖縄復帰以降、米軍機の墜落事故は50件にものぼる。つまり沖縄では年に一度は米軍機が墜落している計算となるが、沖縄以外の日本の他の都道府県で、年に一度は米軍機が墜落しているような都道府県はあるのだろうか。沖縄の過重な基地負担がここにあらわれている。沖縄の置かれている状況は、本質として50年前のB52墜落、爆発事故当時とかわっていないのだ。

 日本政府は沖縄の基地負担軽減のため、地位協定の改定はもちろん、海兵隊を中心とする米軍基地を大幅に縮小させ、事態の根本的な解決に向けて努力するべきだ。

トークイベント「やまとぅ問題を斬る! 沖縄への視点/沖縄からの視点 Vol.2」が毎日新聞(地方版)で取り上げられる

 毎日新聞2018年11月16日(地方版)で以下の記事「辺野古移設 右派も「NO」 米追随、安倍政権に「民意守れ」 東京で沖縄基地問題トークイベント」(西銘研志郎記者)が掲載された。有料記事ではあるが、ぜひご覧いただきたい。

辺野古移設 右派も「NO」 米追随、安倍政権に「民意守れ」 東京で沖縄基地問題トークイベント

 トークイベントの登壇者は中村友哉氏(「月刊日本」副編集長)、山口祐二郎氏(憂国我道会々長、フリーライター)、渡瀬夏彦氏(ノンフィクションライター)、木川智(当塾々長)の4名。

 中村氏が副編集長を務める「月刊日本」は、保守系政治家のインタビュー記事などを誌面とする「日本の自立と再生をめざす」と銘打った保守系言論雑誌。山口氏は民族派団体代表を務め、公安警察から「右翼活動家」と分類されている人物。つまり登壇者の顔ぶれは、この記事の言葉を借りれば「保守」「右派」が多い。

 一方、渡瀬氏は「週刊金曜日」などで沖縄基地問題に関する記事を執筆するなど、「保守」「右派」とは立場が異なる。また前回のトークイベントでは山口氏と木川の他に「保守」「右派」側として仲村之菊(当塾副長)が加わった他、香山リカ氏(精神科医)や安田浩一氏(ジャーナリスト)が登壇するなど、「右」と「左」が沖縄基地問題や沖縄が置かれている状況について語り合うのがこのトークイベントの特徴である。

満員となったトークイベントの様子(登壇者は左から山口氏、渡瀬氏、中村氏、木川)

沖縄基地問題と「右」「左」

 沖縄基地問題というと、いわゆる「左」の運動が想起されるかもしれないが、

  • 「相次ぐ米軍機事故や米兵犯罪、騒音被害といった基地負担について、米軍の無法・横暴を許していいのか」
  • 「国土を米軍にいわれるがまま差し出していいのか」
  • 「米軍に防衛を任せきりでいいのか」
  • 「日本のなかで沖縄にだけ過剰な基地負担を押しつけていいのか」
  • 「沖縄戦で壮絶な犠牲を強いた沖縄に、これ以上基地問題で迷惑をかけていいのか」

といった「右」の立場から沖縄基地問題に意識・関心が高まるのは当然でもある。前沖縄県知事・故翁長雄志氏はそもそも保守政治家であり、沖縄自民党が一時期、明確に辺野古新基地の「県外・国外」移設を求めていたことは記憶に新しい。

 また大阪教育大准教授・櫻澤誠氏(日本近現代史・沖縄現代史)は、復帰運動など戦後沖縄における保守勢力の動向に着目し、沖縄における保守あるいは革新の意味を問い直している。

 「右」からの沖縄基地問題への関心の高まりについて、前出の安田氏は「辺野古移設 右派も「NO」 差別問題に詳しいジャーナリストの安田浩一さんの話/群馬」との記事で「右翼の原点回帰か」とコメントしている。こちらの記事もご覧になっていただきたい(有料記事)

葦津珍彦と沖縄基地問題

 「神社新報」主筆を務め、戦後神道界を代表する言論人・思想家として名高い葦津珍彦氏は、昭和31年(1956)6月30日付「神社新報」にて「沖縄の同胞は起ち上がった 祖先の墓地はゴルフ場に」との記事を執筆し、この頃沖縄で発表された米軍基地のための土地の強制接収を認める「プライス勧告」と、これに反対する沖縄の人々による「島ぐるみ闘争」について論じている。

 葦津氏は神道家として、沖縄における伝統的祖先祭祀の要である「墓」に着目し、これらの墓が接収され改葬する間も無くブルトーザーで潰されていく現状に深い同情を寄せ、

「痛恨の情、禁じがたい島民の目の前には、広々としたゴルフリンクやテニスコートや娯楽用のドライヴ・ウエーまでが造られて行く」(昭和31年6月30日付「神社新報」)

と米軍の無法・横暴を告発している。

 さらに熾烈な沖縄戦を紹介し、日本軍が沖縄の人々を過酷な状況に追いやったことにも触れつつ、

「この島の人たちは、文字どほり死力を尽くして米軍と戦ひ抜いた人々のみである。それだけにあまい考へはない。抵抗の決意は、沈痛にして強固である」(同)

 と沖縄でプライス勧告に抗して戦われている「島ぐるみ闘争」へ敬意を表す。その上で、

「十年前に、女も子供も手榴弾をもって死守抵抗した同胞たちが、今や再び起ち上がった。だが今度は身に寸鉄をおびずして、ただ精神のみによる抵抗を決意してゐる」(同)

「かつての戦争では、沖縄の同胞を救援し得なかった日本政府も、今度こそは義務を果たすべきである。日本国民の人権を保護することは日本政府の当然の義務である」(同)

 と結ぶ。戦後かなり早い時期、「保守」「右派」あるいは「神道信仰」といった立場からの沖縄基地問題に関する葦津氏の言論は、いまこそ顧みられるべきであり、沖縄基地問題の解決に資するものである。

 なお、トークイベント「やまとぅ問題を斬る! 沖縄への視点/沖縄からの視点」は不定期ながら継続的に開催予定とのことなので、次回に注目したい。

平成30年11月19日 御幸森天神宮、彌栄神社(大阪市生野区)参拝

 大阪市生野区の生野コリアンタウンの中の旧猪飼野地区に鎮座する御幸森天神宮を参拝しました。同社の御祭神は仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命の三神です。

御幸森天神宮

 境内には「王仁博士歌碑」が建立されていますが、これは1600年前に百済からの渡来した王仁博士が御祭神の仁徳天皇の御即位を春の到来になぞらえて祝い歌った「難波津の歌」の歌碑であり、日本人と朝鮮半島の人々の古くからの交流を記念し、今後の友好を願う歌碑となっています。

 また同生野区に鎮座する彌栄神社を参拝しました。御祭神は素戔嗚尊および仁徳天皇です。明治43年(1910)、旧岡村の御館神社を合祀しました。なお御館神社は現在は彌栄神社の御旅所となっています。

 なお、両神社のある生野区のコリアンタウンの近くには共和病院という総合病院があります。この病院は、健康保険に加入出来なかった在日韓国人や在日朝鮮人が経済面から専門的な医療を受けられなかった事や病院で言葉が適切に伝わらなかった事などから、昭和43年(1968)に外科医である兪順奉医師が開業しました。

中央の茶色建物が共和病院

 この病院があることによって、多くの在日の人々が命を救われています。海外に行くと日本人村や日本人街も沢山あって、その一角だけ日本語表記の店が連なっていたりしますが、海外の病院で言葉の通じない医師に病症を伝え適切な処置をしてもらうことは非常に難しいことは想像に難くありません。そうした事を考えた時、こうした病院は在日の方々にとって心強いこと間違いないと感動しました。

平成30年11月18日 埼玉県護国神社清掃奉仕(埼護会)

 埼玉県護国神社清掃奉仕の会(埼護会)による埼玉県護国神社の清掃奉仕活動に参加しました。

 参加者全員で正式参拝後、境内の掃き掃除や玉砂利の整備などを1時間ほど行いました。秋も深まり落ち葉が目立っていましたが、全員で奉仕することができました。

 また境内に建立されている特攻隊で出陣し散華した英霊を顕彰する「特攻勇士の像」に関連し、特攻参加者の名簿の整理などを手伝いしました。

 埼護会の清掃奉仕活動は10年以上続けられており、近年は年4回の清掃奉仕活動やみたま祭の準備・参列、餅つき大会の準備・参加などを行っている他、神具の奉納などをしています。

埼玉県護国神社

平成30年11月18日 超党派懇親会(大阪)

 コミニティースペース’Pangea’(大阪市堺区)にて、超党派懇親会(主催・発起人:三谷氏)に参加しました。

 この会は大阪を中心に活動する「自由市民の会」と有志によるもので、不定期にゲストを招いて意見を聞き、時事問題などを真っ向から議論し、事象の真相究明を行うなどしています。

 この日は政治・社会・市民運動の意味、その継続方法や問題提起のあり方、啓蒙、ネットの使用方法など、参加者で多岐に渡り議論しました。

 またこの日、MBS(大阪毎日放送)のドキュメンタリー番組の取材がありました。

超党派懇親会参加者の皆様と

平成30年11月16日 花瑛塾は結成2周年を迎え、墓参と街宣をおこないました

 平成28年(2016)11月16日に結成した花瑛塾はこの日、結成2周年を迎え、花瑛塾「道統の祖」と仰ぐ先覚者の墓参をおこない、結成よりこれまでの取り組みと今後の決意をお伝えしました。

 同氏は、昭和初期に東京に生まれ私立大学に進学しますが、終戦直後の混乱の時代にあって中途で退学、その後は東京・渋谷で青春を過ごし勇名を馳せるとともに、昭和後期からは千葉・館山に道場を設け、多くの青少年の指導に当たりました。今後とも私たちはその足跡を学び、遺志の継承・発展に務めてまいります。

故人は関東平野を一望する奥多摩に眠り、いまでもそこから私たちを睥睨しているかのようです

 その後、首相官邸・外務省・自民党本部などにて、先日のシンガポールでの日ロ首脳会談における自称「外交の安倍」による四島返還から二島返還への北方領土交渉の方針転換を問い質すとともに、先日発生した大東諸島付近海域における米海軍機墜落事故などに象徴される沖縄への基地押しつけ・過重な基地負担の見直しを訴えました。

 今回の日ロ首脳会談は、今年9月、ウラジオストクで行われた東方経済フォーラムの席上、プーチン大統領が安倍首相に「年末までに領土問題などの前提条件なく日ロの平和条約を締結したい」と呼びかけたことに始まります。

 日本政府の基本方針は、北方領土(四島)の帰属確認後に日ロ平和条約を締結するというものであり、これまで数々の首脳会談を繰り返しながら、安倍首相の提案はプーチン大統領に何ら理解されていなかったことが明るみとなりました。

 その点から今回の首脳会談によってどのように日ロ交渉が進展するのか注目されていましたが、両首脳は従前のプーチン大統領の提案や北方領土交渉の基本方針に沿って、昭和31年(1956)の日ソ共同宣言を基礎として平和条約締結交渉を加速することで一致したとされ、これにより四島すべての帰属確認をおこなわず平和条約締結後に色丹島と歯舞諸島が返還されるという方向、つまり二島返還で北方領土問題が決着する可能性が高まりました。

 戦後70年以上、北方領土問題がまったく進展しなかったことを振り返れば、これまでの交渉のあり方を見直し、原点に戻って交渉をやり直すことは、けして悪いことではありません。

首相官邸(西門側)

 しかし、そうであれば、これまでの四島返還とは一体何だったのか、これまでの対ソ・対ロ交渉に誤りはなかったのか、真剣な総括が必要です。そして、今後、国後島・択捉島の二島の返還はどうするつもりなのか、明確な説明が必要なのではないでしょうか。

 安倍首相は自分のことを「外交の安倍」などといって得意になっているようですが、第2次安倍政権の6年間で目立った外交的成果はあがっていません。さらに日ロ首脳会談は今回を含めて23回実施されながら何らの進展もなく、安倍首相が「点数かせぎ」のために功を焦って二島返還に舵をきったとすれば、日本とロシアの将来、なかでも北方領土元島民や現在北方領土に住んでいるロシアの人々に、大きな禍根を残すことになります。

 事実、プーチン大統領は日ソ共同宣言の内容をさらに詰めるとし、色丹島と歯舞諸島の「主権」のあり方についても検討する必要があるとしています。色丹島と歯舞諸島すら返ってくるかどうかわからないのが実情であり、「外交の安倍」は本当に「外交の安倍」なのかよく考え直すべきではないでしょうか。

 また今月12日、沖縄県大東諸島付近海域において、自衛隊と共同巡航訓練を行っていた米海軍機FA18戦闘攻撃機が墜落する事故が発生しました。幸いにも2名の搭乗員は緊急脱出し命に別状はなく、民間人の犠牲者などもいなかったそうですが、一歩間違えれば大事故になっていたことでしょう。

 米軍統治下から沖縄県が復帰して以降、米軍機の墜落事故は50件にものぼり、年に一度は米軍機が墜落していることになります。沖縄以外の日本の他の都道府県で、年に一度は米軍機が墜落するような都道府県はあるのでしょうか。沖縄の過重な基地負担がここにあらわれています。

外務省

 昨年は沖縄県東村高江で米軍ヘリが大破・炎上する事故が発生し、普天間第二小学校にヘリの部品が落下する事故なども起きています。

 今回の墜落事故に関連し、菅官房長官は「米軍機の事故はあってはならない」と発言しましたが、今回の事故やこれまで繰り返されてきた数々の墜落事故などに対し、政府が米軍に飛行停止や機体の点検などを強く求め、実行させたことはありません。

 米軍ヘリの窓枠が落下した普天間第二小学校では、いまでも米軍機が学校上空を飛行し、その都度、避難の合図があり、子どもたちはシェルターに逃げ込むという、まるで空襲警報のようなことが行われています。

 こうした米軍の無法・横暴を放置していると、いつか人身に関わる大事故の発生につながります。

 政府は沖縄の基地負担軽減のため、地位協定の改定はもちろん、在沖米軍基地の大幅な縮小という事態の根本的な解決に向けて努力するべきです。

第23回安倍・プーチン日ロ首脳会談開催、昭和31年日ソ共同宣言を基礎に平和条約締結交渉加速へ─「外交の安倍」が功に焦ったか─

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 ASEAN関連首脳会談のためシンガポールを訪れている安倍晋三首相は14日午後、ロシア・プーチン大統領と首脳会談を行った。安倍首相とプーチン大統領による首脳会談は、今回を含め23回目となる。

14日午後、シンガポールで会談する日ロ首脳【毎日新聞

 今回の首脳会談は、ウラジオストクでおこなわれた9月の東方経済フォーラムの席上、プーチン大統領が年末までに領土返還などの前提条件なしの条約締結を提案し、その場にいた安倍首相が何らの反応を示すことがなかったため、国内的に大きな問題となったこともあり、非常に注目されていた。会談の結果、日ロ両首脳は鳩山一郎内閣が昭和31年(1956)にソ連と締結した日ソ共同宣言を基礎とし、平和条約締結交渉を加速させる方針で一致したと報じられている。

 日ソ共同宣言には、平和条約の締結後、色丹島と歯舞諸島を日本側に引き渡すと明記されているが、北方四島のうり国後島および択捉島、あるいは他の千島列島や南樺太の帰属・返還については何らの言及がない。これまでプーチン大統領は日ソ共同宣言について「いまだ有効」との見解を示しており、政府・自民党の従前の北方四島返還交渉と大きく異なる「二島返還」で日ロ交渉が加速する可能性がある。

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 日ソ共同宣言では、日ソ両国の国交回復、ソ連による日本の国連加盟の支持、戦犯の引き渡し、通商交渉の開始や漁業での協力など、領土問題以外での懸案事項の解決もはかられており、その点は評価するべきものと考える。当時、ソ連の対日参戦やシベリア抑留問題、あるいは共産主義の脅威や東西冷戦の激化のなかで、対ソ外交の進展は国内的な感情にも配慮する必要があり、難しいものであった。そうしたなかでの鳩山内閣による対ソ交渉の開始と共同宣言締結は、戦後日本外交史上、大きな意味があるといえる。

 一方で、繰り返しとなるが、日ソ共同宣言は最大の懸案事項である北方領土問題について、平和条約締結後の色丹島と歯舞諸島の引き渡しを明記するものの、その他の領土の帰属・返還について言及がない。戦後、領土問題を中心に日ソ・日ロ交渉は何らの進展がなかったこともあり、日ソ・日ロ交渉の原点でもある日ソ共同宣言に回帰して交渉をやり直すことはアプローチの一つとして有用でもあろうが、それでは昭和31年に時計の針を戻しただけでもあり、領土問題の根本的な解決にはならない。

 領土返還・国境画定交渉における日本政府の主張は、国後島・択捉島・色丹島・歯舞諸島の北方四島は、北海道の一部であるから返還せよという主張であったが、国後島・択捉島は実際には千島列島の一部であり、そのことは日本政府も認めている。そして日本政府はサンフランシスコ条約で千島列島の主権を放棄しているのである。つまり日本政府の領土返還要求に根拠はなく、ロシア・旧ソ連が反発し領土返還・国境画定交渉が座礁したのも無理はないことだ。

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 花瑛塾はこれまで、日本とロシアが以下の4つの点を確認することにより、新たなアプローチで北方問題に取り組む必要があることを訴えてきた。

  1. 旧ソ連の対日参戦は国際法違反の侵略行為であり、これにもとづく領土占拠の無効。
  2. 旧ソ連の対日参戦は第2次世界大戦の連合国の基本方針である「領土不拡大」に反し、これを追認するサンフランシスコ条約の領土条項の無効。
  3. 過去の日本政府の不当な領土返還要求の撤回。
  4. 旧ソ連の対日参戦を教唆したのはアメリカであり、過去の領土返還・国境画定交渉に際し、陰に陽に介入をし続け、日ソ・日ロの友好を妨害し続けたのもアメリカであって、今後の日ロ交渉へのアメリカの干渉の排除。

 これらの点を踏まえた上で、国際法上もっとも適法であった状態、すなわち1945年8月8日の状態へ国境線をロールバックし、日本の主権を確認した上で、70年以上もの旧ソ連・ロシアの統治という歴史の重みを理解し、そこにおいて築かれた人々の暮らしや文化を尊重し、北方地域の現状を根底から覆すことのない、新たな領土返還・国境画定交渉のあり方を模索する必要があるのではないだろうか。

 江戸幕府と帝政ロシアの日魯和親条約以来、樺太・千島交換条約やポーツマス条約と、国際法にのっとり国境線は幾度も変更された。従って日ロともに、いまにおいて国境線の変更をためらう理由はない。さらに日魯和親条約における樺太島雑居地化など、日本とロシアは柔軟な北方政策を展開した。こうした先人の知恵に学び、過去の経緯に固執して北方政策の歴史的本質を見失うことなく、日ロ関係を展開していく必要があるはずである。

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 同時に、領土返還・国境画定交渉とは切り離した上で、北方領土元島民の故郷への自由な往来や交流、北方地域の先住民たるアイヌの人々の権利擁護を日ロ両国で支援するなど、国家に翻弄された元島民や先住民のために、北方地域に責任を持つ国家である日ロが連携して果たすべき役割は数多い。

 その上で、二島返還論で日ロが妥結するのであれば、政府・自民党はこれまでの四島返還を主軸とする日ソ・日ロ外交とは一体何だったのか、総括をする必要がある。23回も繰り返してきた日ロ首脳会談。いよいよ結果を出す段階に入らなければならないが、自称「外交の安倍」がこれまで外交的成果をあげられなかったため、功に焦って事態の本質を見失い、取り返しのつかないことになることを強く警戒するものである。両国首脳の果たすべき責任は重いことを自覚して欲しい。

米軍機が那覇市の東南東約290キロの海域に墜落─米軍は軍用機、化学兵器、核爆弾など、あらゆる「危険」を沖縄の海に捨ててきた─

 11月12日、米海軍FA18戦闘攻撃機1機が那覇市の東南東約290キロの海上で墜落した。墜落機搭乗員2名は緊急脱出し、米軍ヘリに救助され無事とのこと。漁船が墜落事故に巻き込まれるなどその他の人的被害も確認されていない。

 墜落現場は空域と海域が米軍に提供されている沖縄近海の訓練区域「マイク・マイク」とされる。事故当時、自衛隊と米軍が共同巡航訓練を行っており、墜落機は米空母「ロナルド・レーガン」から発艦した機体だった。

墜落現場略図(「琉球新報」より)

 「琉球新報」によると、沖縄県内で発生した米軍機の墜落事故は沖縄の日本復帰以降、計50件に上るとのこと。さらに県内では6月、嘉手納基地所属のF15戦闘機が那覇沖に墜落した事故が発生したばかりであり、16年12月にはMV22オスプレイ(普天間飛行場所属機)が名護市安部の海岸に墜落した他、17年にはCH53Eの不時着・炎上や部品落下など米軍機の事故やトラブルが相次いでいる。

 墜落機搭乗員はじめ、人的被害がなかったのが唯一の救いだが、一歩間違えれば多数の犠牲者が発生していたかもしれないありえない事故である。事故原因はいまのところ不明であるが、米空母「ロナルド・レーガン」の整備兵の疲労が事故の遠因ともいわれている。また自衛隊との共同巡航訓練中の事故とのことだが、おそらく自衛隊が米空母の護衛をしながら共同巡航していたものと考えられ、はからずもこの事故によって自衛隊と米軍の一体化が明るみとなったとの指摘もある。

 機体は水没したため引き揚げ・回収は不可能といわれ、このまま機体の残骸が沖縄近海に放置されることになる。これにともなう海洋汚染や漁業への被害も懸念される。墜落機は爆弾を実装していたのだろうか。安全面での心配もある。

 沖縄戦後、米軍は沖縄洋上に多数の危険物品を投棄してきた。ジャーナリストで「沖縄タイムス」特約通信員のジョン・ミッチェル氏は、著書『追跡 日米地位協定と基地公害 「太平洋のゴミ捨て場」と呼ばれて』(岩波書店、2018年)において、米軍が過去、大量の化学兵器(毒ガスなど)を沖縄洋上の海中に投棄した事実や、沖縄近海の海中に米軍の核兵器が打ち捨てられている事実を指摘している。

 1969年、沖縄・知花弾薬庫でサリン爆弾の定期補修中に漏出事故が発生し、多数の米兵が負傷した。米軍は事故を隠ぺいしたが、報道により事実が明るみとなると地域住民の化学兵器の撤去要求が高まり、1971年から「レッドハット作戦」といわれる化学兵器撤去計画が実施された。しかし作戦を担った米陸軍荷役担当者は、撤去・移送のため化学兵器を入れた金属容器を積載した船が沖縄沿岸を出発し、数時間後、沖縄洋上でその金属容器を海中に投棄したと証言している。この頃の米軍の科学者たちは、化学兵器は海中に投棄すれば危険性が希釈されると考えていたようである。

レッドハット作戦で知花弾薬庫にある毒ガスを移送するトラック(沖縄県公文書館【0000108844 /037625】)

 また1959年、那覇米空軍基地に配備されていた「ナイキ・ハーキュリーズ」といわれる核ミサイルが海に誤発射された。幸い核ミサイルそのものは不発であったが、一つ間違えれば那覇沖で核爆発が起きていたという恐るべき事故であった。さらに1965年、横須賀に航行中の米空母から核爆弾を搭載した軍用機が転落し、水没する事故が発生した。これまで事故は陸地から800kmの地点で発生したとされていたが、米海軍の文書には琉球諸島の東130kmの地点で事故が発生したと記されていた。那覇沖に発射された核ミサイルと空母から転落した核爆弾という2つの核兵器は、いまでも沖縄の海域に沈んでいる。

 今回の墜落機はじめ、米軍は沖縄の海に化学兵器や核爆弾などを捨て、海と人の命を危険にさらし、汚染させてきたのである。米軍基地返還地の土壌汚染など、陸地の汚染・危険はいうまでもない。日米地位協定の抜本的な見直しや沖縄駐留米軍の大幅な縮小など、事態の根本的な解決に向けて動き出さねばならない。

平成30年11月10日 在日韓人歴史資料館第113回土曜セミナー

 在日韓人歴史資料館(東京・港区)で開催された第113回土曜セミナーに参加しました。「三韓征伐─古代朝鮮支配『言説』の消長─」とのテーマで、同資料館館長で早稲田大学教授の李成市氏よりお話しを伺いました。

 『古事記』『日本書紀』など記紀神話に語られる神功皇后のいわゆる「三韓征伐」譚は、記紀の編纂当時の日本が置かれていた対外関係─特に新羅国を念頭においた─を背景に生成していった神話であり、朝鮮半島出兵や任那日本府の存在などは歴史的実証に耐えうる性格のものではありませんが、一方でこうした古代日本の朝鮮支配の言説は、いわゆる元寇・蒙古襲来といわれる異国合戦や豊臣秀吉による朝鮮出兵、あるいは幕末・維新期や明治新政府の征韓論、そして韓国併合など、日本の対外関係の進展に伴い変容しながら、その基底に存在し続けました。

 例えば中世においては、神功皇后の「三韓征伐」譚は当時の神国思想の展開と相まって『八幡愚童訓』『太平記』などにおいて様々に語られ、神功皇后は皇后であっても「女帝」として評価され、さらに天照大神と同一視する「神」としての認識も高まりました。また自然と人々の間には隣国に対する優越した意識も生まれていきました。

 近世においても錦絵などに「三韓征伐」が描かれ、古代日本の朝鮮支配の「事実」が視覚的に庶民へ広まっていきました。そのため、朝鮮から江戸幕府へ派遣された朝鮮通信使は、日本側の知識人の一部では尊敬をもって迎えられたものの、庶民は朝鮮通信使一行から「三韓征伐」譚を想起し、古代からいまにいたるまでこのような「服属儀礼」が行われてきたのだと誤解していたといわれています。

 近代においてもこうした認識は基本的に改まらず、戦前の歴史学者も韓国併合にあたって「三韓征伐」譚を想起し、古代日本の朝鮮支配という「事実」の再現を見ていたのであり、昨今のいわゆる「徴用工」問題における河野太郎外務大臣の韓国を恫喝するような発言の背景にも、こうした古典的で自国優越的な古代朝鮮支配「言説」を読み取ることができます。

お話しされる李先生と聴講者

平成30年11月8日 花瑛塾行動隊街頭行動(沖縄基地問題など)

 花瑛塾行動隊は8日、首相官邸・米大使館・自民党本部周辺などにて、安全保障や抑止力の観点からも、沖縄の発展の観点からも、まったく無意味かつ有害な辺野古新基地建設の中止など、沖縄の民意に向き合うよう日米両政府に訴えました。

 沖縄に駐留する米軍の大半は海兵隊であり、辺野古新基地も海兵隊の基地の新設ですが、海兵隊そのものは防衛のためではなく敵国への出撃・上陸・占拠のための攻撃用部隊であり、沖縄の防衛に役立つものではありません。そして米軍再編に伴い、在沖海兵隊は部隊兵員も小規模となり、かつ年の半分は沖縄にいないといった状態にあります。

内閣府下(首相官邸付近)

 そもそも沖縄返還に伴い、沖縄の局地防衛は自衛隊に任されており、日米新ガイドラインにおいても島嶼部防衛は日本側が担うことになっています。つまり在沖海兵隊は名実ともに日本(沖縄)を守るものではありません。

 経済的な面でも、既に沖縄の発展にとって基地の存在は阻害要因であることが明るみとなっており、近年では米軍基地の存在による猛烈な環境破壊や人々の健康への影響が問題視されています。事実、返還された沖縄の米軍基地跡から土壌汚染が発覚したり、危険な薬品の不法投棄などが発見されています。また普天間飛行場周辺でも高濃度の汚染が確認されています。一体、米軍基地が私たちに何をもたらすのか、冷静に考える必要があるのではないでしょうか。

 沖縄は選挙をはじめ様々な機会でこうした民意を何度も示し、あらゆるルートを通じて日米両政府に基地負担軽減の要請や基地の危険性の注意を行っておりますが、これを聞かず、沖縄の美しい自然を軍事基地建設のためひたすら破壊する日米両政府は、まるで神話に出てくる神の裁きにあう愚かしく罪深い人間を象徴しているかのようです。

米大使館