平成30年11月1日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑧(小浜島戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は1日、アールムティの特攻艇秘匿壕や震洋隊兵舎跡地、ナークレーやニシンダの慰安所跡地、仮校舎となった嘉保根御嶽など、小浜島(八重山郡竹富町)の沖縄戦戦争遺跡や関連施設跡を見学しました。

 沖縄戦時、小浜島では米軍の上陸や地上戦こそありませんでしたが、空襲が毎日のようにあったといわれています。また日本軍が駐屯し牛などの食糧や資材の供出がおこなわれたり、石垣島での飛行場建設のための徴用などもあり、住民生活に大きな影響を与えました。

 特に小浜島ではマラリアが猖獗を極め、毎日のようにマラリアによる死者が出たといわれています。なおマラリアについては石垣島はじめ八重山諸島一帯で相当の犠牲者が出ています。マラリアが猖獗を極めた理由としては、軍の命令によってマラリア有病地帯へ避難せざるを得なかったり、軍が優先的に「キニーネ」というマラリアの特効薬を確保したなどの理由が考えられます。

 以下、小浜島の見学箇所を紹介します。

アールムティの特攻艇秘匿壕と震洋隊兵舎跡地 小浜島東部のアールムティといわれる海岸に現存する特攻艇秘匿壕。昭和20年(1945)1月、小浜島には海軍の特攻艇部隊である第38震洋隊が駐屯したが、部隊は直後に石垣島へ移動したため、続いて第26震洋隊が駐屯した。第26震洋隊はアールムティの海岸に特攻艇秘匿壕を築造し、アールムティの海で特攻艇の訓練をおこなった。築造は朝鮮人軍夫が主に従事した他、島民も動員させられた。

壕の総延長は130メートルほどで、内部はH型の構造となっており、第26震洋隊犠牲者の卒塔婆が置かれている
特攻艇の訓練がおこなわれたアールムティの海岸

小浜島国民学校の仮校舎となった嘉保根御嶽 最初に小浜島に駐屯した第38震洋隊は、小浜国民学校を兵舎として利用した。そのため子どもたちは学校を追い出され、仲山御嶽や嘉保根御嶽を仮教室として授業を受けた。その後、部隊は学校への駐屯は敵の目につきやすいとして民家にも分屯し、黒島家を司令本部とするなどした。第38震洋隊に続いて駐屯した第26震洋隊も黒島家を司令本部とし、金城家の2階を無線通信所とした。第26震洋隊には朝鮮人軍夫約50人が軍属として連れて来られ、長田家や仲盛家を宿泊先として特攻艇秘匿壕などの築造作業に従事させられた。朝鮮人軍夫が毎朝トラックで築造に向かう姿が目撃されている他、朝鮮人軍夫の食事の様子などを眺めた島民が、食文化の違いを珍しく感じたという証言が残っている。

近くの仲山御嶽とともに島の集落にある仮教室となった嘉保根御嶽

ナークレー、ニシンダの慰安所跡地 第26震洋隊駐屯後、島の東南部のナークレーやニシンダといわれる地域に慰安所が建設された。どちらの慰安所かは不明だが、第26震洋隊の兵士の証言によると、ある慰安所には2坪程度の部屋が5部屋あり、朝鮮人3名、日本人1名の4名の女性が慰安婦にさせられていた。また慰安所建設のため各家庭から畳2枚の供出が命じられ、学校の床板まではぎ取って慰安所建設の資財に充てたという証言も残っている。

ニシンダの慰安所跡地と思われる場所(ナークレーの慰安所は、現在はリゾート地となっている)

「神苑の決意」第25号発行しました

 「神苑の決意」第25号発行しました。読者の皆様のお手許には、近日中に届くと思います。

 昭和45年(1970)11月25日に発生した「楯の会事件」(三島事件、三島・森田事件)より今月で48年となりますが、戦後神道界を代表する言論人・葦津珍彦氏は、同事件について強い関心を抱き、「神社新報」などで複数の記事を執筆し、事件の分析と三島氏の思想の解明を試みています。

 今号巻頭言では、葦津氏の「楯の会事件」評および三島由紀夫論と、その背景にある葦津氏の朝鮮戦争時の日本再軍備・再武装論批判から一貫する自衛隊論・国防論について読み解いています。

 「楯の会事件」の檄文には、沖縄返還に関する本土(自衛隊)の防衛責任や日米繊維交渉など、沖縄返還に関する日米交渉・日米密約・基地の自由使用など現在の通じる問題について論が及んでおり、三島氏が存命であれば沖縄の問題についてどう発言するのかなど夢想していまいます。

 その他、本号各記事の見出しや購読方法など、詳細についてはNEWSLETTERもしくはONLINE STOREよりご確認下さい。

 

国交相が辺野古新基地建設埋立承認撤回の執行停止を決定ー日本政府の横暴を止めるべきは誰か?

埋立承認撤回執行停止、新基地工事再開へ

 今月10月30日、石井国交相は沖縄県の埋立承認撤回について執行を停止すると発表した。早ければ明日11月1日にも工事が再開される見込みだ。

 本年8月30日、沖縄県が辺野古新基地建設の埋立承認を撤回して以降、沖縄県と政府は様々なやり取りがあった。沖縄防衛局は10月17日、行政不服審査法に基づき、公有水面埋立法を所管する石井啓一国交相に審査請求するとともに、撤回の効力を止める執行停止を申し立てた。そして沖縄県は24日、石井国交相へ沖縄防衛局の申し立ての却下を求める意見書を送付したが、これが認められず今回の執行停止となる。

 沖縄県は国地方係争処理委員会への審査申し出を検討しているとのことだが、同委員会の判断が出るまで3か月程度の時間がかかるため、それまでに工事は一定程度進むことになる。

 ここまでの流れは、翁長雄志県知事時代における埋立承認撤回取消しに関する沖縄県と政府の攻防と同じである。行政不服審査法の利用など、政府の対応については様々な問題があり、そうした横暴を許すことはできないが、前回も大きな批判を呼んだ方途と同じ轍を踏まざるを得ないこと自体、政府の手詰まり感をよくあらわしている。

新基地建設はまったく進んでいない

 昨年開始された護岸工事から1年の時が経つが、護岸はいまだ全体の一部しか完成していない。これからさらに完成した護岸のかさ上げを行う必要があり、大浦湾側の護岸工事はほぼ手つかずとなっている。そして大浦湾には「マヨネーズ並み」といわれる軟弱地盤が存在しており、地盤改良などもおこなわなければならない。もちろんキャンプ・シュワブ陸上部の工事も必要だ。全体として見れば辺野古新基地建設はまったく進んでいないのである。

 政府は警察力を背景に工事を再開し、沖縄県民に心理的に大きな抵抗感がある土砂投入をおこない、「あきらめムード」の醸成を狙っている。一方で、工事再開といっても、実際はほとんど何もできないという予測もある。昨年の護岸工事の開始でも「本体工事着工」などと大々的に喧伝したが、やったことは採石が詰まったカゴを海岸に置いただけであった。

 「勝つまで絶対あきらめない」─私たちに政府への直接的な法的対抗手段はないが、デニー知事を支えあきらめることなく粘り強く抵抗していきたい。

 そうした抵抗の一つとして、米国はじめ辺野古新基地建設や在沖米軍基地の問題を世界に訴えようという動きがある。この動きは大変すばらしいものであり、デニー知事を筆頭にぜひとも「沖縄からの報告」を世界に訴えたい。日米安保体制において、米国は日本政府に基地を提供されている側であるが、そこでの基地の使用と軍の運用は米国の責任でおこなわれている。主権国家であり人権と民主主義国家の米国もまた、自国の軍隊が他国民に和迷惑をかけている現状を放置するわけにはいかないはずだ。

日本政府と沖縄基地問題の「主体性」

 ところで、「本土」のごく一部の方面から、辺野古新基地建設はじめ在沖米軍基地の問題の解決について、米国の政治情勢なかでもトランプ大統領の意向に期待する「米国頼み」とも思える声が聞こえてきた。このような主体性なき問題意識は、「辺野古二段階返還論」などという暴論の「風まかせ」に通じる危険性がある。

 戦後、在沖米海兵隊は何度も沖縄撤退を計画し、昭和52年(1977)には「撤退は時間の問題」と当時の防衛庁が判断するに至ったこともあった。平成7年(1995)の沖縄少女暴行事件でも海兵隊撤退が議論されたが、当時のペリー国務長官は日本側が海兵隊沖縄駐留の継続を要望したと証言するなど、日本政府が米軍を食い止め、沖縄駐留を求め続けたのである。

 米国の世論を注視し、米国の世論へ問題を喚起することは大事だ。しかし本土のごく一部の方面が「トランプ大統領が在日米軍撤退を指示か」などと浮き足立ち、問題の本質を見失ったかのような議論をしていることは歓迎できない。それは沖縄基地問題についての主体性を見失うことであり、沖縄の人々を再び傷つけることになる。

 沖縄の人々が本土の人々に期待していることは何か。まさしく今回の埋立承認撤回の効力停止といった日本政府の横暴を自分の問題として受け止め、これを糺すことにある。心当たりがあれば注意されたい。

平成30年10月30日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑦(石垣島事件・尖閣諸島戦時遭難事件慰霊など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は30日、沖縄戦時に石垣島で発生した日本軍による米軍捕虜殺害事件の事件現場や慰霊碑を訪れるとともに、同じく沖縄戦時の石垣島で発生した疎開船への米軍の攻撃とこれによる尖閣諸島への漂流事件の慰霊碑を訪れました。その後、今年度内に着工が目指されている石垣島平得大俣地区の陸上自衛隊駐屯地建設予定地を見学しました。

石垣島事件 沖縄戦時、石垣島では連日米・英軍が空襲をおこなっていたが、昭和20年(1945)4月15日午前9時頃、対空砲撃により米軍機が撃墜され、搭乗員の米兵3人は海軍石垣島警備隊によって捕虜になった。午後3時頃からバンナ岳の麓の警備隊司令部で捕虜への尋問が開始され、その日の午後6時頃に全員殺害された。

 殺された米兵はバーノン・L・ディボー中尉(28歳、操縦士)、ウォーレン・H・ロイド兵曹(24歳、通信員)、ロバート・ダグル・ジュニア兵曹(20歳、機銃操作)。

米兵殺害・遺体遺棄現場(手前)と海軍石垣島警備隊司令部跡のバンナ岳(奥)

 捕虜については、日本軍の沖縄守備隊は陸海軍とも当初は沖縄本島に送致しており、戦闘の激化に伴い台湾へ送致することになっていた。しかし海軍石垣島警備隊司令・井上乙彦大佐は、台湾への送致の困難や部隊の士気向上のため捕虜の殺害を企図し、警備隊司令部の南にあった照空隊の駐屯地に長さ4メートル、幅1.5メートル、深さ1.5メートルの遺体を遺棄する穴を準備して100人以上の将兵を召集した。そして将校がディボー中尉とダグル兵曹を軍刀で斬首し、ロイド兵曹は棒に縛りつけられ集団で殴打された上で40人もの下士官・兵により銃剣で刺殺された。

 敗戦後、捕虜殺害という戦争犯罪の発覚を恐れた井上大佐は遺体を掘り起こし、火葬した上で遺灰を海に流し、丁重に葬ったかのように3人分の十字架を建立するよう命じた。こうして事件は隠ぺいされたが、GHQに事件の全貌について情報提供がなされ、井上ら7人が戦犯として絞首刑となった。

尖閣諸島戦時遭難事件 昭和20年6月30日、石垣島島民を載せた2隻の疎開船が台湾へ向けて出港したが、7月3日に米軍の機銃掃射により1隻は沈没し、約50人ほどの機銃掃射による犠牲者や溺死者を出した。もう1隻は航行不能となったが持ち直し、付近の漂流者を救出して翌日には尖閣諸島の魚釣島に辿りついた。

 島の食糧事情は最悪であり、漂流したところを救出された人たちは着の身着のままで携行食糧もなく、次第に衰弱していき、漂着から30日ほどすると餓死や病死で犠牲となるものが続出した。遭難から約40日後に救出されるが、政治情勢や交通の難により犠牲者の遺族たちは尖閣諸島で慰霊などが出来ないため、海に臨む石垣島の海岸に慰霊碑が建立され、いまも犠牲者の霊を慰めている。

 沖縄戦では、こうした尖閣諸島戦時遭難事件など戦時船舶遭難事件が多発している。代表的な事例としては、対馬丸事件が有名である。軍は「口減らし」のため子どもや高齢者の疎開を進めたが、既に疎開船の航路には米軍潜水艦が出没しており、軍の輸送船も攻撃され被害を出すなど疎開の危険性は充分承知していた。軍がその事実を住民に説明せず疎開を進めた責任は重たい。また住民は疎開先の台湾や九州でも飢えや病気など苦しい思いをした。

尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑

陸上自衛隊石垣駐屯地(仮称)予定地 現在、自衛隊はいわゆる「南西シフト」といわれる南西諸島の防衛強化をはかっており、特に宮古諸島・八重山諸島からなる先島諸島では、陸上自衛隊の警備部隊・ミサイル部隊・沿岸監視隊の配備が進められている。石垣島では500人から600人規模の警備部隊・ミサイル部隊の配備が計画されており、今年度内にも石垣市平得大俣で駐屯地建設の着工が予定されている。宮古島でも駐屯地建設がはじまっており、与那国島には既に沿岸監視隊が配備されている。

 石垣島住民の自衛隊配備反対の意思は根強く、賛否を問う住民投票を求める動きもある。今月31日午後7時から石垣市大川公民館で住民投票に向けての署名集めのための集会も開催される。一方的に自衛隊配備を決めた政府や石垣市の対応への不信もあり、先島諸島あるいは南西諸島全体での自衛隊配備強化に対する批判も存在する。

 一方で、島内には自衛隊配備に賛成する声もあり、「自衛隊配備推進」と記されたノボリが道沿いに掲げられている光景も目にする。既に自衛隊が配備された与那国島のように、島の分断・対立・緊張が高まることが懸念される。石垣島では過去、新空港の建設計画によって反対運動がおこったため地域住民が賛否で鋭く対立し、いまに至るまで尾を引いている現実がある。

 戦後神道界を代表する言論人・葦津珍彦は、急迫不正の侵害に対し国民を守るため必死の抵抗をする自衛隊によって、国家と国民の信頼・連帯が維持され、国民の側も自衛隊にそうした期待を抱いているとする。まさしく葦津における自衛隊の「建軍の本義」は、「国家と国民の信頼の防衛」といってよいのではないだろうか。

 一方で葦津は、朝鮮戦争によってはじまる日本再武装について、「建軍の本義」なき再武装の危険性を説いた。国家性に具体的に結びつかず、「自由と民主主義のため」という普遍的な価値観に基づいて建てられた軍は、必ず「自由と民主主義のため」に外国の政治に介入したり、時の政治家に都合よく利用されると葦津はいうのだ。戦後、米軍やソ連軍が諸外国に介入した理由を想起すれば、戦争が終わり間もない時期での葦津のこの指摘は卓見というべきである。

陸自石垣駐屯地建設予定地

 葦津は「建軍の本義」を追及することなく、不純不正の精神によって建てられた軍は、国民に対し深い禍を残すという。いま、自衛隊が「南西シフト」によって南西諸島全体に緊張をもたらし、石垣島はじめ南西諸島の人々に不信感を抱かれ、あるいは不信感をもたらしているのならば、それは国家と国民の信頼・連帯が阻害されていることになる。自衛隊は防衛のために本当に守らねばならないものを「陥落」させているのならば、南西諸島から「名誉ある撤退」をおこなうことによって国家と国民の信頼・連帯を確保する必要があるのではないだろうか。

 人々の声に耳を傾けず、権力者のいうがまま配備を強行するのならば、自衛隊はまさしく葦津の指摘する国民に対し深い禍を残す存在になったというべきであろう。

平成30年10月29日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑥(ババハルさん慰霊など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は29日、戦時中、沖縄戦を控えて日本軍の配備が進んでいた石垣島で亡くなった慰安婦のババハルさん(国籍など不明)が埋葬された地(石垣市川平)を訪れ、慰霊・追悼の祈りを捧げました。

 ババハルさんは石垣市川平に設置された慰安所で慰安婦として働かされていましたが、何らかの理由で亡くなりました。遺体は川平の海岸近くの畑に埋葬されましたが、墓もなく弔う人もいません。同地で亡くなった兵隊も同様に埋葬されたとはいえ、仲間の兵隊が復員にあたって遺骨を持ち帰るといったことがありました。しかしババハルさんは慰安婦にさせられ命を落とし、ただ土に埋められたきり弔う人も顧みる人もいません。彼女の無念や悔しさはいかばかりでしょうか。

ババハルさんが眠る石垣・川平の畑

 沖縄戦時、石垣島には10箇所前後の慰安所があったと推定されています。沖縄本島も入れれば、100以上の慰安所が設置され、日本人や朝鮮人の女性が慰安婦として働かされました。軍は工兵部隊を用いて慰安所を建設し、性病検査をおこなうなどしました。慰安所の管理は軍に委託された業者がおこなうなどしたそうです。

 沖縄戦時、石垣島では地上戦こそなかったものの、連日のように米英軍機による空襲がありました。しかし軍は機密保持を理由に慰安婦を防空壕に入れなかったため、彼女たちは空襲の際に樹の下にうずくまり身を隠していたといわれています。沖縄本島でも戦闘が始まると慰安婦は見捨てられ、戦場に取り残される例もありました。特に朝鮮人慰安婦たちは言葉もわからず土地勘もなく、泣きながら逃げまどう姿が目撃されています。

 普段の慰安婦の待遇は悪く、稼ぎからは沖縄までの交通費や生活費が差し引かれ、食事もままならず付近住民に食べ物をねだる姿も目撃されています。一方で日本人慰安婦は将校専用の慰安所で働かされ、朝鮮人慰安婦より多少はましな待遇にあるなど、出身地や民族での差別もありました。

 また石垣市では、新築したばかりの八重山高等女学校を軍が解体し、建築資材を供出させて慰安所を造った事例もあり、八重山高等女学校の女生徒はじめ地域住民は軍に不信感をもったともいわれています。

 なお、この日、その他に沖縄戦時の石垣島守備隊(独立混成第45旅団)司令部付近の慰安所跡(石垣市石垣)、海軍石垣島警備隊司令部付近の慰安所跡(同大川)、海軍第19震洋隊基地付近の慰安所跡(同川平)などを見学しました。現在は通常の民家などになっているため、画像などはありません。

 祖国を愛し、自国の歴史をわが歴史として感じ、過去の戦争について深い思いを持てばこそ、慰安婦とされた人々の苦労に思いを致し、国策のあやまちを反省し、これからの国の歩みに生かさなければならないと思います。

平成30年10月28日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑤(沖縄戦戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は28日、沖縄戦の最激戦地の一つ嘉数高地(宜野湾市)および運玉森(西原町)を見学しました。沖縄戦時、首里にあった日本軍沖縄守備隊(第32軍)の司令部を防衛するため複数の防衛線が築造されましたが、嘉数高地はそのうち第1防衛線の主陣地、運玉森は最終防衛線の首里東側の主陣地とされ、日米・軍民問わず多くの人が犠牲となりました。

 以下、紹介します。

嘉数高地 読谷・北谷の海岸へ上陸した米軍は、一部部隊を北進させ、主力は首里の第32軍司令部攻略のため南進した。この米軍を第32軍は宇地泊・大謝名・嘉数・西原・我如古・和宇慶の第1防衛線で迎え撃った。特に嘉数高地では約2週間におよぶ日米の激戦となった。南進する米軍にとって、嘉数高地は高地という軍事上の優勢のみならず、高地手前に比屋良川という川が流れ堀のようになっており、天然の要害となっていた。

比屋良川(手前)から嘉数高地(奥)を望む

 第32軍は嘉数高地に無数の壕やトーチカを築造し、さらに米軍と対峙する高地の斜面の反対側(首里側)の斜面から砲撃する「反射面陣地」によって米軍を苦しめた。米軍は嘉数高地の戦いで一時的に第32軍以上の被害を出し、1日に1mしか前進できない日もあり、「いまいましい丘」と呼称した。

 嘉数高地陥落後、第32軍は第2防衛線である前田高地に部隊を撤退させ、進撃する米軍とさらなる戦闘を継続した。いわゆる「ハクソーリッジの戦い」である。米軍は戦車や火炎放射装甲車など猛烈な火力で攻め立てたが、あまりの戦闘の激しさから精神に異常をきたす兵士が続出したといわれている。

 また沖縄戦では多数の住民が戦闘に巻き込まれ、あるいは防衛隊などとして軍に召集・協力し犠牲となったが、それは嘉数高地の戦いも例外ではなく、嘉数付近の住民は戦闘前は陣地構築に動員され、戦闘中は防衛隊として自爆攻撃を強いられ、敗北色が濃くなると避難壕を追い出されるなどした。実際に沖縄戦で嘉数住民の半数以上が戦死している。

嘉数高地の住民避難壕デラガマ(崩落を防ぐため支柱で補強している)

運玉森 米軍がコニカル・ヒルと呼称した運玉森は、嘉数高地・前田高地陥落後の首里東側の最後の防衛線である。ちなみに首里西側の最後の防衛線は、有名なシュガーローフ・ヒル(安里52高地)である。米軍は中城湾(バックナー・ベイ)から運玉森へ砲撃を加えつつ前進し、突破した。ここでも住民が戦闘に動員された記録が残っている。

首里方面から運玉森(奥)を望む

 最終的に運玉森と安里52高地が陥落し、米軍は首里の司令部陥落も時間の問題であり、沖縄戦は間も無く終結すると予測していたが、第32軍は島尻へ撤退し、摩文仁を司令部としてさらなる抗戦をはかる。本土決戦のため1秒でも時間を稼ぎ、1人でも多くの米兵に出血を強要するためであり、首里撤退はまさしく沖縄戦が「捨て石」であることを示している。

運玉森から米軍が布陣した我謝・安室集落(奥)と中城湾(同)を望む

平成30年10月27日 花瑛塾第15次沖縄派遣団④(沖縄環境ネットワーク結成20周年記念シンポジウム「沖縄の環境を考える」)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は27日、沖縄国際大学で開催された沖縄環境ネットワーク結成20周年記念シンポジウム「沖縄の環境を考える」に参加しました。

 シンポジウムは第1部「報告:沖縄の今」として、砂川かおり氏(沖縄国際大学講師)「沖縄環境ネットワーク結成から20年、活動の歴史と今」、牧志治氏(水中写真家)「辺野古・大浦湾の海と、現在」、吉川秀樹氏(ジュゴン保護キャンペーンセンター国際担当)「ジュゴン訴訟、埋立て承認撤回、今後の展開」、花輪伸一氏(元世界自然保護基金ジャパン)「復刻版『琉球弧の住民運動』から学ぶこと─本土での沖縄との連帯運動の視点で」との報告がありました。

発表・報告の様子と満員の会場

 第2部では台湾のグラミー賞とも呼ばれる「金曲奨」を受賞したHIRARA(宮古出身の歌手)さんの宮古伝統音楽や台湾伝統音楽などのコンサートがおこなわれました。台湾アミ族との交流も踏まえたHIRARAさんの歌では、姪子さんのお囃子などもあり、大変盛り上がりました。

 引き続き第3部「基地からの環境汚染」では、ジョン・ミッチェル氏(調査報道ジャーナリスト、沖縄タイムス特約通信員)「情報公開法でとらえた米軍基地環境汚染」、桑江直哉氏(沖縄市議会議員、沖縄環境ネットワーク世話人)「沖縄市サッカー場の土壌汚染と、沖縄市の情報公開の問題点」、桜井国俊氏(沖縄大学名誉教授、沖縄環境ネットワーク世話人)「基地環境問題にどう立ち向かうのか」との報告がありました。

報告するジョン・ミッチェル氏

 第1部および第3部の発表・報告では、「基地と環境問題」をテーマに、古くは勝連半島の埋め立てなど金武湾一帯をCTSといわれる石油備蓄基地をはじめとする「平和産業」の拠点とするための開発計画に対する反対運動「金武湾闘争(CTS反対運動)」や、近くは辺野古ジュゴン訴訟における国防総省と日本政府の動向と米国における裁判の問題、あるいはジョン・ミッチェル氏による在日米軍と環境破壊・汚染問題の実態報告など様々なお話を伺いました。

 なおジョン・ミッチェル氏は、これまで米国の情報公開法を利用し、神経ガスの海中投棄や枯葉剤の地中への埋伏など、沖縄での米軍による環境汚染を調査・告発しており、日本政府はミッチェル氏の告発によって米軍による環境破壊・汚染の事実を把握するような状況にあります。これらミッチェル氏による調査をまとめた『追跡 日米地位協定と基地公害』が大きな話題となっていますが、この日の「沖縄タイムス」には同氏による嘉手納・普天間飛行場などでの米軍の泡消火剤流出による猛烈な環境汚染についてのスクープが掲載されており、タイムリーな報告でした。

ミッチェル氏による調査結果を1面に掲載する「沖縄タイムス」2018.10.27

 辺野古新基地建設はじめ沖縄の基地問題は、民主主義や地方自治、あるいは防衛政策や安全保障、日米関係はじめ日本外交のあり方、法律手続きの適正さ、経済的合理性、そして騒音・犯罪・土地収用など住民の被害など、様々な視点からその問題点を指摘することができますが、動植物などの自然環境の保護、あるいは人間の健康被害など「環境」という点からも考えるべき問題だと気づかされました。

平成30年10月26日 花瑛塾第15次沖縄派遣団③(沖縄戦戦争遺跡見学など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は26日、伊江島(伊江村)にて沖縄戦の戦争遺跡や戦後の基地問題に関する施設などを見学しました。

 沖縄戦における伊江島の戦いは、強制集団死(いわゆる「集団自決」)や防衛隊による民間人殺害などの悲惨な出来事が発生したり、少年義勇隊や女子救護班・婦人協力隊といった子どもや女性が防衛隊として動員され、「斬り込み」といわれる敵陣への自爆攻撃や万歳突撃を強制されるなど、沖縄戦の縮図のような悲惨な戦場となりました。

 また戦後、伊江島住民は故郷の伊江島から遠く離れた久志や慶良間諸島の収容所に隔離されました。帰島はなかなか許されず、帰島した頃には伊江島には米軍の巨大な基地ができていました。さらに昭和28年以降はいわゆる「銃剣とブルトーザー」による土地の接収がおこなわれ米軍基地は拡大していき、核模擬爆弾投下訓練なども行われました。住民は土地の強制接収や過酷な基地負担に猛反発し、抗議運動を展開しますが、これが後の「島ぐるみ闘争」に発展していきます。

 以下、見学した戦争遺跡や参拝した慰霊碑などを紹介します。

【公益質屋跡】 公益質屋とは、戦前に設立された市町村などの公的機関による市民向け金融機関。井川正少佐(後に大佐)率いる日本軍伊江島守備隊は、城山(タッチュー)とその手前の高地を陣地としたが、公益質屋はその高地にあり、米軍の砲撃にさらされた。米軍は昭和20年4月16日に島の南西に上陸し城山を目指して進撃したため、公益質屋も建物の南西側が際立って破壊されている。

公益質屋

【ニィヤティヤガマ】 伊江島の南側海岸に面する海食洞。もともとは子授けの神の伝説が存在する自然壕。伊江島では昭和18年から飛行場建設が進められ、多数の兵隊や徴用人夫が配備されており、彼ら軍人軍属や住民が米軍による空襲の際の避難場所として利用された。

ニィヤティヤガマ(内部空間は相当に広い)

【アハシャガマ】 伊江島北東の自然洞穴。沖縄戦時、住民や防衛隊など100人以上が避難していたといわれる。4月21日、伊江島守備隊が壊滅したが、翌日22日、ガマにいた防衛隊が米兵の接近に気づき爆雷を爆発させ、住民を巻き込む強制集団死をした。ガマ内部はその際に崩落があり、遺体は当分の間そのまま放置された。その他、サンザタ壕やユナッパチク壕でも強制集団死が発生した他、母親が泣き止まない赤子を殺害したり、防衛隊が住民に手榴弾を投げつけるといった出来事も発生した。

アハシャガマ

【伊江島守備隊第3中隊関連壕および城山】 伊江島守備隊の司令部があった城山の手前の高地(学校高地)には、地下壕が築かれ伊江島守備隊第2中隊、第3中隊が配備され、巨大な砲撃陣地となっていた。一帯では日米の熾烈な戦闘が行われ、米軍は「血塗られた丘」「血の稜線」などと呼称した。城山山頂からは島全域が見渡せる。また伊江島の戦いの前日、米軍は伊江島の南に浮かぶ水納島を制圧し、水納島から城山を砲撃するなどした。

伊江島のシンボルともいえる城山(タッチュー)

【アーニー・パイル記念碑および芳魂之塔】 アーニー・パイルは米軍従軍記者として伊江島の戦いに参加していたが、4月18日に伊江島守備隊の機銃掃射により戦死した。芳魂之塔は伊江島の戦いで犠牲になった軍民約3500人を慰霊するもの。守備隊壊滅の日の毎年4月21日に平和祈願祭が執り行われている。

従軍記者アーニー・パイル記念碑

【団結道場およびヌチドゥタカラの家】 戦後、米軍は伊江島住民の家にガソリンで火をつけ、ブルトーザーでなぎ倒し、土地を強制接収し基地を建設していった。抗議する住民には容赦なく暴行をふるい投獄までしたが、阿波根昌鴻ら住民は「伊江島土地を守る会」を結成し団結道場を拠点に抗議活動を続けた。伊江島住民の抗議活動は、後に沖縄全域で展開した「島ぐるみ闘争」の淵源となる。なお、ヌチドゥタカラの家は当時の運動の資料館である。

往時の雰囲気が伝わる団結道場

【LCT慰霊碑】 終戦後間も無くの伊江港で発生した米軍の爆弾処理船(LCT)の爆発事故「波止場事件」犠牲者を慰霊する碑。沖縄戦の戦後処理のため未使用の爆弾や不発弾を積載したLCTだが、荷崩れが発生し爆発した。多数の犠牲者を出した他、焼けただれた鉄片が島内各地に飛散するなど被害をもたらした。

LCT慰霊碑

平成30年10月25日 花瑛塾第15次沖縄派遣団②(沖縄戦戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は25日、特攻艇秘匿壕群(読谷村)、旧栄橋(嘉手納町)、旧美里国民学校奉安殿(沖縄市)の沖縄戦戦争遺跡を見学しました。

 沖縄戦は現在の沖縄基地問題の原点でもあります。旧日本軍が建設した飛行場などを米軍が接収し、さらに拡大していった事例もあり、沖縄戦とこれに続く軍政・施政権下のなかで基地が拡大していきました。沖縄戦では壮絶な地上戦が戦われ、日米・軍民約20万人もの犠牲者を出しましたが、こうした膨大な沖縄戦での犠牲者は、日本軍が沖縄を軍事的「捨て石」とする戦略持久作戦を展開したために発生しました。そしていま日本政府は「抑止力」「安全保障」の名の下で沖縄に基地を押しつけ、沖縄を政治的「捨て石」としています。

 沖縄戦の悲惨さとそこに見え隠れする沖日米の歴史的関係を知れば、沖縄への基地の押しつけなどはできないはずですが、花瑛塾は沖縄戦戦没者追悼のためにも歴史を振り返り、それを現実の行動につなげていきたいと思います。

 以下、見学した戦争遺跡を簡単に紹介します。

【特攻艇秘匿壕群】 読谷村渡久地の比謝川河口に面する人工壕。現在は小さな漁港となっている。昭和19年12月より陸軍海上挺進基地第29大隊が築造し、翌年2月より陸軍海上挺進第29戦隊が配備され、この人工壕に特攻艇「マルレ」(連絡艇)を秘匿し、米艦艇への海上特攻作戦に備えた。基地隊には多数の朝鮮人軍夫が動員され、過酷な軍務に従事した。その他、近くの北谷町にも秘匿壕がある他、慶良間諸島渡嘉敷島や石垣島などにも存在する。特攻艇による海上特攻による戦果は、現在も不明な部分が大きいが、沖縄戦時、海上特攻や航空特攻など数々の特攻作戦が展開された。

特攻艇秘匿壕群

【旧栄橋】 嘉手納町屋良、現在の嘉手納高校の裏に流れる比謝川に架かっていた橋。二重アーチ状の鉄筋コンクリート造りの堅牢な橋梁だったが、昭和20年4月1日の米軍上陸とともに日本軍が爆破・破壊した。日本軍は読谷・北谷など比謝川河口に上陸してきた米軍について、水際で上陸を阻止するのではなく、これを上陸させつつ遊撃戦を展開し出血・消耗を強制させながら第1線防衛線である大謝名・嘉数・我如古・和宇慶ラインに米軍を引き込み南下させ、そこで打撃を与える作戦を企図していた。このため第1線陣地の増強と遊撃戦展開のため、米軍の進行を遅滞させるべく主だった橋を爆破・破壊した。

木々が生い茂りわかりにくいが、破壊され露わになった橋脚が見える

【旧美里国民学校奉安殿】 沖縄市美里児童園内。「奉安殿」とは天皇・皇后両陛下のお写真である「御真影」を保管する施設。沖縄戦時、御真影奉護は教員・学校長の重大任務であり、沖縄各地の御真影が集められ「奉護隊」が戦災を逃れるため御真影とともに避難するなどした。最終的に御真影は昭和天皇の御真影のみを残して奉護隊はやんばるの森の大湿帯をさまようが、第32軍壊滅の連絡を遊撃部隊である護郷隊・村上隊長より聞き、昭和天皇の御真影を奉焼した。本土の奉安殿などはGHQの指令で破壊されたが、沖縄はGHQではなく米軍が直接統治したため破壊を免れた。歴史の皮肉といわざるをえない。奉安殿には沖縄戦時の弾痕が生々しく残っている。

現存する奉安殿

平成30年10月24日 花瑛塾第15次沖縄派遣団①(沖縄県議会傍聴など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団はこの日、沖縄県議会米軍基地関係特別委員会における辺野古県民投票条例や各種陳情などの審議を傍聴しました。

 先日の本会議でデニー知事を侮辱するような質問を繰り返した米軍基地関係特別委員会の委員でもある自民党県議らは、本日の委員会でも辺野古新基地に関する沖縄県の認識についての県職員の発言のあげ足とりに終始し、県民投票の必要性や今後の沖縄米軍基地のあり方を展望するような議論の深まりはありませんでした。保守政治家としての知的誠実さや品格、あるいは基地問題への議論の高まりや愛郷的な問題意識が欠如しているように感じました。

沖縄県議会

 自民党沖縄県連会長・國場幸之助衆院議院は、県知事選挙・豊見城市長選挙・那覇市長選挙と立て続けの敗北をうけて県連会長職を辞任しましたが、実際には既婚女性への卑猥な言動が週刊誌に取り上げられており、スキャンダル含みの辞任でした。

 國場議員は「沖縄四天王」の1人で國場組創業者・國場幸太郎氏を祖父とし、昭和45年(1970)に瀬長亀次郎氏らと共に戦後初の沖縄選出の国会議員となった國場幸昌氏を大叔父とする人物であり、5年前まで普天間飛行場県外移設を主張していた「沖縄保守」の政治家でもあります。結局、安倍・石破ラインの圧力に屈服し辺野古新基地建設容認派に転落しましたが、いまやその政治力や指導力が問われ、さらに人間性まで問題視されています。

 また那覇市長選挙で再選された城間幹子氏に挑んだ翁長政俊氏は、長く県議などを務め、自民党沖縄県連幹事長など沖縄自民党の要職を歴任した人物でもありました。翁長氏は選挙の敗北により政界引退を余儀なくされましたが、選挙の敗因は官邸が那覇市長選挙の敗北を見切り、選挙中にも関わらず辺野古埋立承認撤回への不服審査申し立てるなど、沖縄切り捨て・東京本位の振る舞いをしたからといわれています。沖縄保守政界の中枢人物であっても中央政界の「系列保守」である限りためらいもなく利用され、使い捨てにされるのです。

 こうした一連の出来事や今日の委員会質疑からいえることは、沖縄保守政界から「沖縄保守」の伝統や高潔な精神が消えようとしているということです。自民党沖縄県連はいわば「東京の自民党の沖縄支店」ではなく「沖縄の自民党の総本店」として、「系列保守」から脱却した本来の「沖縄保守」としての堂々の旗を掲げるべきではないでしょうか。

沖縄県議会米軍基地関係特別委員会

 その他、糸満・摩文仁の平和祈念資料館を見学するとともに、沖縄戦を戦った歩兵第22連隊壊滅の地に建つ「栄里の塔」や米軍沖縄攻略部隊司令官であり沖縄戦で戦死したバックナー中将を弔う「バクナー慰霊碑」をお参りしました。

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は昨日23日に沖縄入りし、辺野古新基地建設が再開されようとしている状況下、しばらくのあいだ沖縄にて取り組みをする予定です。