[那覇市長選挙]城間幹子氏大差で再選 県都発展を沖縄発展へ 日本政府は沖縄の声に応答せよ

 今月10月14日告示、21日投開票の那覇市長選挙は開票を終え、現職の城間幹子氏が一騎打ちとなった翁長政俊氏を大差で破って当選し、市政2期目を迎えることになった。

 開票結果は城間氏79,677票、翁長政俊氏42,446票。最終投票率は48.19%であった。なお、自民党沖縄県連会長・国場幸之助衆院議院は21日、県知事選挙、豊見城市長選挙、そして今回の那覇市長選挙と立て続けの敗北の責任を取り、県連会長職の辞任を表明した。また翁長政俊氏は政界引退の意思を示した。

当選確実の一報に喜ぶ城間幹子氏[日経新聞2018.10.21 20:08]

 沖縄県の県都・那覇市のリーダーである市長の責任は重大だが、城間氏は1期目で子どもの貧困対策など数々の結果を出した。こうした城間氏の実行力に多くの人の支持が集まったものと思われる。2期目の市政で那覇市をさらなる高みへ導き、沖縄全体が豊かで平和な島となるようリーダーシップを発揮して欲しい。

 そして故翁長雄志氏がいっていたように、沖縄はアジアのダイナミズムを取り入れ、いまやアジアが沖縄を手放さない状況にある。城間氏には、アジアとしっかりと結びつき、アジアへ、そして世界へ羽ばたく沖縄をデニー知事とともに作り出して欲しい。

 9月30日の沖縄県知事選挙でのデニー知事の勝利、10月14日の豊見城市長選挙での山川ひとし市長の勝利につづき、故翁長氏の後継者として那覇市長となった城間氏の2期目の勝利は、新基地建設反対・基地負担軽減という沖縄の民意をあらためて世界に表明するものでもある。また、こうした沖縄の民意は、これまでの県知事選挙や衆参国政選挙、過去の県民投票や名護市民投票などの住民投票でも示された歴史的な民意でもある。

 日本政府はこうした沖縄の民意をあえて無視し、居直り、辺野古新基地建設を強行している。沖縄県が撤回した辺野古沖の公有水面埋立についても、防衛省が国土交通省に「不服審査」を申し立てるという、政府内での「自作自演」の「茶番劇」をやろうとしている。沖縄の人々へ辺野古新基地建設の政治的・法的・軍事的・経済的・環境的な合理性を何ら説明することなく、「基地負担軽減」の名の下で耐用年数200年の基地をつくることは、民主主義を踏みにじり、沖縄の人々の人権をおびやかす暴挙といわざるをえない。

 「神社新報」昭和31年(1956)6月30日付記事「千島と沖縄」は、昭和31年に発出された「プライス勧告」によって土地の強奪と基地建設が強行される沖縄の現状について、次のように述べる。

全島の四分の一が軍用地に接収され、しかも永代地上権を設定されんとしてゐる沖縄同胞のあの悲壮なる抵抗には政府はもっと親身になる必要がある。

 また「プライス勧告」や基地問題を訴えようと鳩山一郎元総理のもとへ沖縄の人々が訪れた際、鳩山元総理が「昼食中である」「昼寝の時間だ」などといって面会を拒否したことについて、同じく「神社新報」同日記事「沖縄土地問題を訴へる」は、

八十万同胞が血涙を以て訴へてゐるその声に、たとへ五分間でも耳を傾けることが出来ないといふのであらうか。

慶良間島に於ては小学生までが闘ひ斃れた。ひめゆり部隊、鉄血勤皇隊等々の正に鬼神をして哭かしむる最後についてはもはや云ふべき言葉もない。[中略]この様に至誠以て本土を護った沖縄県民に対し、その本土は余りにも冷淡ではなかったか。

 と怒りとも悲しみともいえる言葉を記す。

 「神社新報」にあらわれた当時の状況を顧みたとき、いまから62年前の沖縄と本土・政府の関係性や、本土・政府の冷淡さ、過酷さは、いまとかわらないことがわかる。基地問題は沖縄への「構造的差別」といわれるが、その「構造的差別」は同時に「歴史的差別」でもあるといえるだろう。

 沖縄はあと何度民意を示せばよいのか。どうすれば日本政府は沖縄の民意に向き合うのか。そしてこれまで示し続けてきた民意はどこにいってしまうのか。都合のいい「民意」が出るまでは沖縄の民意を認めず、対立と分断を強制し、沖縄の人々を疲れさせ、諦めさせようとする卑劣な行為を日本政府はただちにやめるべきである。

 昭和30年代の神道人は本土の冷淡さ、過酷さを鋭く告発し、行動していた。花瑛塾は当時の神道人の精神を継承し、日本政府・安倍政権に対し沖縄の声へ応答するよう求めていきたい。

平成30年(2018)10月21日 「出陣学徒壮行の地」記念碑

 秩父宮ラグビー場(東京・青山)敷地内に建つ「出陣学徒壮行の地」記念碑を訪れました。

 先の大戦時、兵役法は中学校以上の学校在籍者の徴集延期を認めていましたが、戦争の激化により下級将校が不足していったため、政府は昭和18年(1943)10月に徴集延期制を廃止し、この年の年末には徴兵検査をおこなった学生約10万人が入営しました。そして徴兵検査に先立つ同年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が挙行されました。このため壮行会から50年の平成5年(1993)、壮行会が開催された明治神宮外苑競技場跡(旧国立競技場)に記念碑が建立されました。

「出陣学徒壮行の地」記念碑

 学徒出陣によって下級将校となった学徒兵出身者たちは、陸軍士官学校や海軍兵学校出身の正規将校たちには差別され、古参兵からは軽く扱われるなど、日本の軍隊の非合理性や理不尽さに悩まされたといわれています。陸海軍特攻隊として搭乗した将校のうち半数以上が学徒兵出身の将校であり、学徒兵出身の将校は、将校のなかでも「消耗品」として使い捨てにされたということができます。

 また先の大戦はじめ総力戦体制下では、兵力不足を補うため、植民地であった朝鮮・台湾からも当初は志願兵として、後に徴兵として兵力が動員された他、女性も少数ながら通信隊に動員されるなどしました。しかし政府は植民地出身者や女性の動員に消極的であり、むしろ学徒兵や少年兵を積極的に動員しました。特に少年兵はいわゆる予科練などが有名ですが、その他にも少年戦車兵や通信兵、海軍特別年少兵などが誕生し、15歳前後の少年兵が多数戦死しました。

 当初、少年兵には特殊な専門教育を施し、下士官として育てることが目的であり、家庭の経済事情などで上級学校に進学できなかった向学心のある少年が多数志願しましたが、結局は即席の兵士として前線に送られ、実戦に投入されたといわれています。彼ら少年兵を送り出した親たちは「子どもを戦争に駆り出しているようでは、この先どうなるか」と不安や疑問を感じていたそうです。

 なお、「出陣学徒壮行の地」記念碑は、4年前に東京オリンピックの工事のため現在の地に移っており、新国立競技場が完成した際には再び移転するそうです。

平成30年10月19日 フィリピン方面戦没者慰霊祭

 フィリピン・ダバオ市ミンタルにある旧日本人墓地にて「フィリピン方面戦没者慰霊祭」(主催:社団法人戦没者慰霊の会「櫻街道」)が開催され、参列しました。

 ダバオは先の大戦以前から多くの日本人が住み、日本人街が形成されていました。日本人移民はマニラ麻といわれる麻の栽培などをおこなったそうです。また先の大戦ではマレー上陸作戦、真珠湾攻撃にならんでフィリピン攻略作戦がおこなわれ、マッカーサー率いる米軍と激しい戦闘がおこなわれました。日本軍はマレーとフィリピンを占領し、東西から挟み撃ちするかたちでインドネシアなどの南方重要資源地域の制圧を目指したといわれています。

 戦争末期では米軍によるフィリピン奪還作戦がおこなわれ、フィリピン各地で激戦となりました。これにより日本が設定していた「絶対国防圏」は崩壊し、沖縄が急速に主戦場とされるとともに、本土決戦が現実化していきました。

 沖縄とフィリピン・ダバオは結びつきがつよく、ダバオへの日本人移民の半数が沖縄県出身者でした。そのため沖縄・摩文仁の丘には「ダバオの塔」があり、またダバオ・ミンタル日本人墓地には「沖縄の塔」が建立されています。

 ダバオ市ミンタルの日本人墓地は、平時で亡くなった日本人の墓地であるとともに、戦後、フィリピンで戦没した日本人・フィリピン人の御霊を慰霊する慰霊碑が建立され、今回の慰霊祭はそこでおこなわれました。

 参列者も日本人ばかりではなく、現地住民も多数参列しており、全ての戦争犠牲者の慰霊と日本・フィリピンの友好をはかる慰霊祭になったと思います。

 なお「櫻街道」は、東アジア各地で先の大戦の戦没者の慰霊祭や遺骨収容事業と、桜の植樹活動をおこなっています。

慰霊祭の様子
戦争犠牲者慰霊碑

辺野古新基地建設における沖縄県による公有水面埋立承認撤回への政府の「対抗措置」を読み解くー翁長県政時における政府との攻防を事例にー

 昨日10月17日、防衛省・沖縄防衛局は辺野古新基地建設に関し、沖縄県による公有水面埋立承認の撤回について、石井啓一国土交通相に行政不服審査法に基づく審査を請求するとともに、撤回の執行停止を申し立てた。新基地建設に関する政府による沖縄県への「対抗措置」であり、沖縄県知事選挙で示された圧倒的民意を顧みない政府の暴挙は許されず、「対立と分断」を引き起こす政府の対応を糾弾する。

 国交省は比較的短期間のうちに防衛省の申し立てを認め、早ければ数週間以内に工事が再開される見通しだ。政府の「対抗措置」なるものは、そもそも行政の措置に関する私人の救済を念頭にしている行政不服審査法を、防衛省が私人になりすまして「仲間」である国交省に不服を申し立てる「自作自演」「猿芝居」であり、法の濫用といわざるをえない。

 こうした「対抗措置」は、すでに翁長県政時にも政府がおこなってきた「常套手段」でもある。翁長雄志前沖縄県知事は平成27年(2015)10月、仲井真弘多元知事による公有水面埋立承認を取消したが、政府は同じように行政不服審査法に基づき石井国交相に申し立てをおこない、最終的には沖縄県と政府の訴訟となった。今回の「対抗措置」により、沖縄県と政府は前回同様訴訟になることであろう。前回の訴訟においては、沖縄県と政府は一時的に和解したが、政府は「和解破り」をおこない工事を強行した。今回も最終的には訴訟となる見通しのため、前回の公有水面埋立承認取消しに関する沖縄県と政府の攻防を確認することにより、今回の事態を把握し今後の対応について検討したい。

翁長県政時における公有水面埋立承認取消しに関する県と国の攻防

 平成25年(2013)12月、仲井真元沖縄県知事は、公有水面埋立法に基づく沖縄防衛局による辺野古新基地建設の埋立工事の許可申請を承認した。しかし翁長前知事がこの承認を取消したため、国は沖縄県の取消しを違法として提訴、平成28年(2016)12月20日、最高裁は沖縄県の承認取消しを違法とした福岡高裁那覇支部判決を支持、沖縄県の上告を退けた。国はこれを受けて辺野古新基地建設を再開するわけだが、この司法判断は憲法の地方自治規定と地方自治法を踏みにじり、かつ沖縄の基地負担を永続化させるものであり、許されざるものである。

 本件違法確認訴訟とこれに関連する代執行訴訟、そしてその訴訟の和解あるいは行政不服審査法に基づく措置など、沖縄県と国の一連の訴訟の経緯は錯綜しており、いささか分かりづらい。当事者も沖縄県や沖縄防衛局あるいは国土交通省または裁判所や国地方係争処理委員会など多岐に渡る。以下、時系列的に国と沖縄県の紛争を確認したい。

平成25年(2013)

  • 12月27日 防衛省・沖縄防衛局は名護市辺野古での新基地建設のための埋立工事許可を申請し、沖縄県(仲井真前知事)が承認。

平成27年(2015)

  • 10月13日 翁長前知事は仲井真元知事による埋立承認には瑕疵があるとしてこれを取消す。
  • 同月14日 防衛省は沖縄県の措置を不服として石井国交相に行政不服審査法に基づく審査請求と承認取消しの執行停止を申し立てる。
  • 同月27日 石井国交相は承認取消しの執行停止を発表。さらに閣議において、地方自治法に基づき沖縄県に代わり埋立承認の取消しを取消す代執行の手続きに着手。
  • 11月2日 沖縄県は執行停止を不服として国地方係争処理委員会へ審査を申し出る。
  • 同月9日 石井国交相は沖縄県に取消しを取消すよう是正指示を出すが、沖縄県はこれを拒否。
  • 同月17日 国交省は承認取消しを違法として、取消しを取消す代執行訴訟を福岡高裁那覇支部に提訴。

平成28年(2016)

  • 3月4日 代執行訴訟について沖縄県と国の和解成立。
  • 同月7日 石井国交相は埋立承認取消しを違法として、取消しを取消すようあらためて沖縄県に是正指示を出す。
  • 同月23日 沖縄県は石井国交相の是正指示について国地方係争処理委員会に審査を申し出る。
  • 6月17日 国地方係争処理委員会は是正指示の違法性を判断せず、沖縄県と国に協議を求める。
  • 同月24日 翁長前知事は安倍首相に文書で協議を求める。
  • 7月22日 是正指示に従わないのは違法として国が沖縄県を相手に違法確認訴訟を提起。
  • 9月16日 福岡高裁那覇支部が埋立承認取消しは違法と判決。
  • 12月20日 最高裁が沖縄県の上告棄却。
  • 同月26日 翁長前知事は埋立承認取消しを取消す。
  • 同月27日 防衛省・沖縄防衛局は辺野古新基地建設の工事再開。

平成29年(2017)

  • 4月25日 辺野古新基地建設の護岸工事がはじまる。
  • 7月24日 沖縄県が岩礁破砕差止訴訟を提起。

平成30年(2018)

  • 3月13日 那覇地裁は沖縄県による岩礁破砕差止の提訴を却下。
  • 6月12日 政府は沖縄県に8月17日以降に土砂投入をおこなうと通知。
  • 7月27日 翁長前知事は埋立承認撤回を発表。
  • 8月8日 翁長前知事逝去。
  • 同月31日 沖縄県は埋立承認を撤回。
  • 9月30日 沖縄県知事選挙でデニー氏が当選。
  • 10月12日 デニー知事と安倍首相が面談。
  • 同月17日 防衛省は国交省に埋立承認撤回の執行停止と審査を申出る。

 平成28年12月20日に最高裁が沖縄県の上告を退けた訴訟は、同年3月4日に和解が成立した代執行訴訟ではなく、代執行訴訟の和解成立後に沖縄県が国の是正指示に従わないのは不作為の違法であるとして、国が福岡高裁那覇支部に提訴した地方自治法に基づく違法確認訴訟である。

 代執行訴訟の和解条項においては、国の是正指示に関しては、沖縄県が国地方係争処理委員会の審査を経て、沖縄県が国を相手に訴訟を提起すると取り決められていたが、国地方係争処理委員会が法的判断を避け、両者の協議を求めたため、沖縄県は提訴を控え、国に協議を申し出たのである。しかし国は沖縄県が是正指示に従わないのは違法として提訴したのであり、その訴訟の結果が平成28年9月16日の福岡高裁那覇支部判決と最高裁判決である。

 しかし違法確認訴訟はあくまで文字通り違法の確認であり、執行力を伴うものではない。同時に、国が沖縄県を相手として違法確認訴訟を起こすことは、和解条項に反するものである。その意味で沖縄県は和解条項に従う必要がないともいえる。

司法判断の是非と今後の見通し

 違法確認訴訟に関する最高裁判決では、福岡高裁那覇支部の判決に上告した沖縄県の意見を聞く弁論が開かれなかった。ただでさえ地方自治法に基づく違法確認訴訟は2審制を採用し、主張・審理の機会が少ない。事件の重大性から考えても、最高裁が弁論を開かなかったことは許しがたい。本来であれば大法廷での審理があってもいいものであるが、小法廷において弁論を開くことのないまま判決が確定してしまった。

 そもそも福岡高裁那覇支部判決は、仲井真元知事の埋立工事承認に瑕疵はないとし、翁長前知事の埋立工事承認の取消しを違法とするものである。そして、その結論を導くため、在日米軍の沖縄駐留は妥当であるとし、沖縄の基地負担を認容している。さらに辺野古新基地建設により基地負担が軽減されるなどと、政府の主張を丸のみするものとなっている。

 同時に、福岡高裁那覇支部判決は、国の統治行為のためには、地方の意見を聞いていれば物事が前に進まないから、国の判断に重大な不合理のない限り、地方は国の要求を唯々諾々と聞くべきという内容であったことはしっかりと確認したい。これは憲法の地方自治規定や国と地方との対等性を明確にした地方自治法を踏みにじるものであり、沖縄のみならず原発問題などを抱える全ての地方自治体を委縮させる恐るべき判決である。

 最高裁判決では、国と地方のあり方や辺野古新基地建設の妥当性までには踏み込むことはなかったが、その骨子においては福岡高裁那覇支部判決を踏襲するものであり、最高裁判決を認めることはできない。そして最高裁判決を「天裕」とばかりに辺野古新基地建設の工事の再開をはかる国の対応も許すことはできない。

 翁長前知事は仲井真元知事による埋立承認の取消しを取消したが、今回の承認撤回は大浦湾における軟弱地盤の存在など新たな材料をもっての承認「撤回」である。沖縄県側にも相当な覚悟があり、前回の国との攻防を踏まえての準備もあるだろう。デニー知事を支える圧倒的な民意も存在する。

 私たちが行政上の手続きや法的なやり取りに直接関与することはできないが、前回の県と政府の攻防を確認し、政府のやり口を知ることは、今回の事態を冷静に把握することにつながり、新たな一手を見つけ出すことにもなる。そして何より、前回の攻防を知ることは、政府は法的根拠に乏しい強硬な措置でしか辺野古新基地建設をすすめることができないということを明白にさせる。しかし弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶのだ。デニー知事を支え、来たる那覇市長選挙、そして来年4月の統一地方選挙と参院選挙で勝利し、世論の力で安倍政権を追いつめ、新基地建設を断念させよう。

葦津珍彦は山口二矢による浅沼稲次郎刺殺事件をどう論じたか─非合理なるものへの憧れと、政治とテロとの宿縁

浅沼稲次郎刺殺事件

 解散総選挙を間近に控え、緊迫した政局を迎えていた昭和35年(1960)10月12日、東京の日比谷公会堂では自民党・民社党・社会党の三党首立会演説会が開催されていた。

浅沼を刺殺する山口

 民社党委員長西尾末広が演説を終え降壇、続いて登壇した社会党委員長浅沼稲次郎が演説をはじめて間も無くの午後3時5分頃、わずか17歳の右翼少年山口二矢が壇上に駆け上り、短刀で浅沼を刺殺した。浅沼はパトカーで付近の日比谷病院へ緊急搬送されたが即死状態であり、逮捕された二矢も翌11月2日、勾留先の東京少年鑑別所で自ら命を絶った。

 二矢は大日本愛国党で活動していた兄朔生が昭和35年5月に右翼事件で逮捕されたことに影響されて同党に入党、以来右翼運動に挺身していた。なお二矢は事件前に同党を脱退、「全アジア反共青年連盟」に参画している。

葦津珍彦の二矢への関心

 戦後神社界を代表する言論人葦津珍彦は、浅沼刺殺事件に大きな衝撃をうけ、事件を敢行した二矢に関心を抱き、これ以降、浅沼刺殺事件や二矢について積極的に論じている。

二矢の事件と自殺について論じる葦津のコラム「時の流れ」(「神社新報」昭和35年11月12日)

 例えば、葦津はこのころ「神社新報」で「時の流れ」というコラムを連載していたが、葦津は事件発生以降、「右翼テロを語る テロへの恐怖はテロを誘ふ」、「山口二矢君の自決 新しい世代の心理を探る 」など、浅沼刺殺事件や二矢を何度も取り上げ論じている。また事件の翌年に刊行された著書『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』(神社新報社、昭和36年)には、浅沼刺殺事件と二矢をテーマとする複数の論文が収録されている。

 そればかりでなく、二矢が自殺した翌月の12月15日、日比谷公会堂で二矢の父晋平の参列のもと、「烈士山口二矢君国民慰霊祭」が右翼関係者などにより開催されたが、どうも葦津はこの慰霊祭にも参列したようだ。

 あるいは事件から14年後、韓国で朴正煕大統領暗殺事件が発生した際も、葦津は「二矢による浅沼刺殺の際の日比谷公会堂を想起した」云々とコラムに記している。葦津にとって浅沼刺殺事件、そして二矢への関心は非常に強く、その後も長く印象に残っていたことが伺える。

 葦津は次のようにいう。

警視庁の取調べにさいして、山口少年が語ったところによれば、かれが浅沼刺殺を決意したのは、刺殺に用いた短刀を入手した時から約十日間、独りで考えぬいた後の結果だといわれる。この十日の間に、少年はしばしば明治神宮に参り、時には終日、神宮の神域で考えぬいた日もあったという。この間、かれの神宮参拝は、四、五日に及んでいる。もとよりかれは神宮の神主には会いもせず話もしなかった。けれどもかれが熱心に明治神宮の神明に祈ったという事実、しかして浅沼氏を刺殺し、然るのちに自らの生命を絶つとの決断を下したのが神宮の神苑だった事実だけは、明らかとなっている。神道的ジャーナリストとして、この事実だけからでも、私は山口事件に対して無関心ではおられない。(「神苑の決意─政治とテロとの宿縁─」〔『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』所収〕)

 みずからを「神道ジャーナリスト」と名乗る葦津にとって、二矢が明治神宮を何度も訪れた上で浅沼を刺殺したというこの事件は、当然、自身の「取材対象」「担当分野」というわけだが、そればかりではなく、葦津の神道信仰に基づく信仰的・宗教的な強い関心があったことも容易に推測される。

非合理なるものへの憧れ

 とはいえ、葦津は二矢の信仰や宗教観などを取り上げて論じるのではなかった。もちろん葦津はその点に全く無関心であったわけではなく、二矢が新宗教団体「生長の家」創設者谷口雅治の著書をよく読んでいたことを紹介しているし、二矢が取り調べ時に供述した「一人一殺」の言葉について「井上日召の影響があろうか」などと推測している。さらには二矢が法廷闘争を全く考えていなかったことを取り上げ、来島恒喜の影響があったのかなどと二矢の信仰・信条・思想形成などにも迫っている。

 一方で葦津は、二矢個人の精神世界にのみ注目し、何がしかの発見を目指すのではなく、「非合理なるものへの憧れ─信頼と忠誠との情理─」(『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』所収)において、広く人間心理一般のなかにある非合理的な精神を分析し、さらに日本における非合理的な精神の連鎖や継承に浅沼刺殺事件や二矢を結び付けようとする。

二矢が眠る梅窓院の山口家の墓

 すなわち葦津は、エチオピアのマラソン選手アベベが昭和35年のローマ・オリンピックのマラソン競技で優勝した際、自身の勝利を喜ぶのではなく「エチオピアが勝って嬉しい」と祖国の勝利を喜んだ事例などを紹介し、人間には「俗物合理主義者」には理解し難い非合理なるものへの憧れや情熱、欲求が存在しているとする。

 そして、このような「非合理なるものへの憧れ」は、日本においては、例えば楠木正成の「抗戦による犠牲と苦闘をもとめて、妥協による栄達と安逸とをもとめることを知らない」ような忠烈、すなわち天皇と民族の「信頼と忠誠」による結びつきとしてあらわれるという。

 俗物合理主義者はそのような精神的意義を理解できず、それを封建的で非合理なる心情として片づけるのであるが、浅沼を刺殺した二矢が合理主義者による戦後教育を受けながらも、楠木正成が湊川の戦いで発した「七生報国」の言葉を残して自らの命を絶ち、そんな二矢の慰霊祭に十代から二十代の多数の若者が参列したという事実から、「右翼ハイ・ティーン」の心理を封建的非合理と非難してもそれは見当違いであり、現代の合理主義の枠のなかでは満足しきれない人間的な欲求、「非合理なるものへの憧れ」がそこにはあるのだと葦津は指摘するのである。

政治とテロとの宿縁

 「非合理なるものへの憧れ」という葦津の指摘は、いわば浅沼刺殺事件を人間の心理的側面から分析したものといえる。一方で葦津は、フランス革命におけるテロや左翼革命におけるテロを分析し、テロの本質と政治と暴力の一体性、浅沼刺殺事件の分析を通じた右翼テロの論理を踏まえ、左右を問わず政治信条の根底には暴力性が潜在し、ある一定の条件においては、そうした暴力の発動が不可避であるとする。

革命家というものは、個人の生命(自分の生命、敵の生命)以上に革命目的を高く評価しているにちがいない。[略]かれらは決して「個人の生命以上に貴重なものはない」と信じているわけではない。生命以上に貴重なるもののあるのを信じているのだ。[略](「神苑の決意─政治とテロとの宿縁─」)

われわれは、左翼でも右翼でも、一つの政治的信条というものの根底には、テロへ走る本質の潜在するのを否定しがたいと思う。文明下の政治思想は、公然とテロの正当性を主張することをさける。しかしながら、政治的信条そのものに潜在するテロリズムは、信条と信条との対決が、高度の緊張を呈する時には、忽然としてその姿を現わして来るのだ。(同)

 葦津は「非合理なるものへの憧れ」という人間の心理的側面から浅沼刺殺事件を分析する一方で、このように古今東西に共通する「政治とテロ」の視点から事件を分析するのである。

多摩霊園内の浅沼と妻享子の墓

 無論、葦津はそうした二種類の分析を通じ、二矢による浅沼刺殺を肯定したり賛美したりしているのではない。むしろ葦津は、テロがなぜ発生するのかを考究するなかで、テロを防ぐためにはどうしたらいいのかを考えるべきだといっているのである。

 二矢はじめテロを敢行した右翼ハイ・ティーンたちは、金銭に何ほどの魅力も感じていない。そして確信的なテロリストたちは、重罰を恐れることもない。葦津は、浅沼刺殺事件後、テロ防止のために右翼の資金封鎖や重罰化をすすめよという国会の議論の盛り上がりに対し、そうしたものは全く意味がないと批判する。

 それではテロはどのように防止するべきなのであろうか。葦津は戦前の忠君愛国教育のなかで存外多くの左翼学生が生まれたことを例に、戦後の左翼的教育の反発で右翼ハイ・ティーンが生まれたかと分析を試みている。いわば葦津は、人間に備わる「非合理なるものへの憧れ」を俗物合理主義者たちが非合理・封建的と断じたところで右翼ハイ・ティーンの心に何ら響くものはなく、むしろ反発するのであって、人間の「非合理なるものへの憧れ」をしっかりと見据えた教育こそテロ防止に有効と主張しているのであろう。

 また葦津は、政治的信条と信条の対決のなかで発生するテロに対し、「テロはいけいない」といった道徳的な説諭は何らの有効性はなく、政治的信条の対立や政治的不信の解消が必要だとする。道徳的説教や刑法の改定などではなく、例えば自由討議などによって政治的信条を異にするもの同士が交流していくことの方が、テロ防止に有効であるはずだというのである。

「神苑の決意」と神道ジャーナリスト

 浅沼刺殺事件と二矢について多大な関心を示した葦津は、事件を「非合理なるものへの憧れ」という人間の心理的側面と、「政治とテロとの宿縁」という政治力学的側面から分析し、その本質を見抜くなかで、今後テロをどのように防止すればいいのかという議論を展開していった。

 葦津はけしてテロを肯定しておらず、二矢を賛美するわけでもない。葦津は二矢が「人間浅沼の命を断つことの道徳的責任」を感じていたことを繰り返し確認している。それは葦津が二矢の道徳的責任を免除するものではないということのあらわれであろう。二矢の「神苑の決意」に強い関心を持ちながら、テロを肯定せず、むしろテロ防止について議論を高めていく。神道ジャーナリストとしての葦津の一つの真骨頂を見るものである。

平成30年10月14日 花瑛塾行動隊街頭行動(沖縄基地問題など)

 花瑛塾行動隊はこの日、首相官邸・自民党本部・防衛省・外務省周辺にて、先月30日におこなわれた沖縄県知事選挙であらためて示された沖縄の民意に従い、辺野古新基地建設を断念するとともに、沖縄を意思決定から一切排除した96年SACO合意の欺瞞をふまえ、基地負担軽減のための沖縄県と日米両政府という沖日米3者の協議・調整の場の設置を求めました。

 また米大使館周辺にて、日米安保条約と地位協定にのっとって日本政府から基地を提供される側の米国もまた、基地の運用者であり民主主義と人権を尊重する国として、沖縄基地問題の当事者としての意識をもち、事態打開のために主体的に取り組むよう求めました。

米大使館(東京・赤坂)

 折しもこの日、沖縄県豊見城市長選挙がおこなわれ、いわゆる「オール沖縄」の枠組みで出馬した山川仁候補が、現職と自民・公明の推薦を得た候補をくだして当選しました。同市ではいわゆる保守系市政が20年もつづきましたが、那覇市と南城市に続いてデニー知事を支援する首長が誕生したことになります。

 戦後神道界・神社界を代表する言論人である葦津珍彦氏は昭和33年(1958)、神社本庁「神社新報」紙上において、米軍施政に抗い米軍によって那覇市長から追放された瀬長亀次郎の後継候補・兼次佐一が那覇市長選挙に当選したことをうけ、「沖縄はあらためて抵抗の決意を世界に表明した。米国は施政権返還の決断を迫られている」との趣旨の言葉を記しています。

 また昭和24年に結成され「神社界の尖兵」を自任した「神道青年全国協議会」は昭和30年、「沖縄が米軍政下におかれ全島基地化が進行し10年、我々は我々の矢面に立ち犠牲となった沖縄にどれだけのことができたか」との趣旨の記事を機関紙に掲載し、米軍の土地強奪・基地建設強行を容認する「プライス勧告」に関連して、翌年から米軍への要請など沖縄の側に立った行動を開始するなどしています。

 先般、デニー知事は米世論にも基地問題を訴えると表明しました。那覇市長選挙も公示され、21日に投開票がおこなわれます。日本政府はいうまでもなく、米国は再び決断の時にあります。そして花瑛塾は昭和30年代の青年神道人の精神を継承し、この問題について微力ながら全力を尽くすつもりです。

平成30年10月11日 花瑛塾行動隊街頭行動(沖縄基地問題など)

 花瑛塾行動隊はこの日、総理大臣官邸・自民党本部・防衛省・外務省周辺などにて、辺野古新基地問題はじめ沖縄の基地負担軽減を明確に掲げた玉城デニー知事が当選した先日の沖縄県知事選挙の結果をふまえ、政府・与党は辺野古新基地建設の強行を取りやめ、沖縄の民意に向き合い、これ以上沖縄に対立と分断を持ち込むなと訴えました。

総理大臣官邸(西門側)

 上京中のデニー新知事はこの日、自民党・二階幹事長と会談した他、翌12日には安倍総理や菅官房長官との面談が予定されています。政府・与党は4年前、翁長前知事の面談要請を4か月以上放置するなど、冷酷な対応を取りました。またようやく面談が実現したとしても、菅官房長官は翁長前知事に「辺野古新基地建設をおこなう」と繰り返すばかりで、何ら誠実に向き合おうとしませんでした。こうした政府・与党の仕打ちが、沖縄のアイデンティティの自覚につながり、辺野古新基地建設強行へ抗する力をさらに強固なものにしていったことは間違いありません。

 またこの日は、沖縄県東村高江の牧草地で普天間飛行場所属の米海兵隊大型輸送ヘリCH53Eが炎上・大破した事故から1年を迎えます。航空機事故に関する法律にのっとって沖縄県警が事故の捜査に着手していますが、日米地位協定の壁に阻まれ、事実上捜査はすすんでおらず、事件として立件することは困難な見通しです。沖縄国際大学で同様の米海兵隊大型輸送ヘリが墜落した事故においても、米軍が日米地位協定に基づいて現場をロックアウトしたことに批判が集まりましたが、高江での炎上事故でも同様の措置がおこなわれ、日米地位協定の問題点に再び注目が集まっています。事故原因の究明もすすんでいないため、牧草地所有者への補償もなされていません。

 これらの事実をふまえ、外務省や防衛省周辺において地位協定の改定などを訴えるとともに、米大使館前においても問題ある日米地位協定の一方の締結者として、米国もまた自国の問題として日米地位協定の改定を日本政府に呼びかけるべきと訴えました。

防衛省

「辺野古二段階返還論」なる暴論ー絶対安全圏から基地を押しつける「本土」の傲慢が沖縄の人々をふたたび傷つける

 先月9月30日に投開票がおこなわれた沖縄県知事選挙において、辺野古新基地建設反対を訴えて当選した玉城デニー氏は今月4日、沖縄県庁で当選証書を交付され、正式に沖縄県知事に就任した。デニー県政の本格始動に期待が高まっている。

 デニー知事の訴えた辺野古新基地建設反対の主張は、沖縄県民の一貫した願いといっていい。翁長前知事はもちろんのこと、仲井真元知事も2期目の県知事選挙において普天間飛行場の県外移設を訴えて当選している。沖縄選出の自民党議員も、2013年までは普天間飛行場の県外移設を訴えていた。これまでの国政選挙においても、沖縄の選挙区では辺野古新基地建設反対をいう議員が多く当選している。各種世論調査やこれまでの住民投票でも沖縄県民の基地負担の軽減の願いは明白である。今回の沖縄県知事選挙でも、基地問題を争点と考える世論の大きさや辺野古新基地建設に反対する人々の切なる願いに注目が集まった。

閉じられた辺野古沖護岸(沖縄タイムス2018.08.29)

 「辺野古二段階返還論」とは

 そうしたなか、今回の沖縄県知事選挙における若者世代の投票行動や、デニー知事と事実上の一騎打ちを選挙戦で戦った佐喜真淳氏の落選の原因などを分析した記事を発表している人物が、普天間飛行場・辺野古新基地問題について、「辺野古二段階返還論」なる主張をおこなっている。

 この人物の主張する「辺野古二段階返還論」とは何か。それはごく簡単にいうと、「まずは辺野古新基地を建設し、96年SACO合意に基づいて普天間飛行場の返還を実現させ、その上で辺野古新基地の返還を待つ」というものである。

 そうはいっても、辺野古新基地は耐用年数200年といわれる恒久的な軍事施設であり、辺野古新基地の返還は難しいという反論が予想される。それについてこの人物は「耐用年数200年というが、戦後の73年間も含め、これからさらに日米関係が200年も続くとは思われない」とする。「あのフィリピンですら対米関係を見直し、米軍基地を撤退させた。フィリピンと米国の関係は100年も続かなかったではないか」と。

 つまり96年SACO合意に基づいて普天間飛行場を辺野古新基地に移設し[普天間飛行場の返還]、その上でいつかそのうち日米関係が見直される時期がくるのを待つ[辺野古新基地の返還]という「二つの返還」(二段階返還論)を目指すというものである。

 この「二段階返還論」の論理の核心は、あくまで普天間飛行場の辺野古「移設」論であり、政府のいう「辺野古唯一論」とかわるところはないが、「いつか辺野古が返ってくる可能性がある」と付け加えることにより、辺野古「移設」を「一時的」なもののように粉飾し、辺野古「移設」論の問題点をあやふやにし、結局は辺野古「移設」を推進するものである。

 「二段階返還論」は、これまで積み重ねられてきた辺野古新基地建設反対論を無視し、一方的に沖縄に基地負担を押しつける「暴論」である。沖縄県民、そして日本中で、あるいは世界で辺野古新基地に反対する声が高まっているが、なぜ多くの人々が反対しているのかという視点は完全に抜け落ち、人々の声に向き合うことなく「辺野古もそのうち返ってくるから」と安易な認識で新基地建設を容認・推進するものである。

 「二段階返還論」の問題点

 以下、「二段階返還論」の問題点(あるいは「二段階返還論」が依拠する「辺野古唯一論」の問題点)を詳述する。

 (1)辺野古新基地が完成しても、ただちに普天間飛行場が返還されるわけではない

 現在、沖縄県による埋立承認の撤回により、埋立のための土砂が投入寸前であった辺野古新基地建設は休工状態にあるが、万一、安倍政権が工事を再開させ、10年後~20年後に新基地が完成したとしても、ただちに普天間飛行場が返還されるわけではない。

 普天間飛行場の返還について、日米両政府は2013年4月に「沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画」に合意している。そこでは辺野古での新基地建設のほか、長い滑走路を持つ民間空港の使用[緊急時における那覇空港の使用]などの条件が記載されている。当然、これら返還基準が満たさなければ、普天間飛行場の返還はない。普天間飛行場の返還条件についてしっかりと確認することなく、「普天間飛行場が返ってくるのだから」「辺野古もいつか返ってくるのだから」と安易に新基地をつくれば、取り返しのつかないことになる恐れがある。

 (2)沖縄を意思決定から排除した96年SACO合意の危険性についての認識不足

 この人物は、96年SACO合意に基づき普天間飛行場の辺野古移設をすすめるというが、そもそもこのSACO合意に沖縄の意思は何ら反映されていない。沖縄が意思決定から排除された日米両政府の勝手な合意がSACO合意であり、沖縄にとっては一方的かつ非民主的なものである。すくなくとも沖日米による公開された民主的な議論という適正な手続きが存在すれば、普天間飛行場の閉鎖・返還のために本当に「代替施設」「移設」が必要なのか、必要だとしてもそれは辺野古でなければならないのかという議論がおこなわれたはずであり、問題がここまでこじれることはなかったはずだ。

 それではSACO合意とはなにか。それは「キャンプ・バトラー」ともいわれる沖縄全体の海兵隊基地を中心とする米軍機能の再編・強化を目指すものだ。SACO合意に基づく那覇軍港の浦添への移設は老朽化した施設の更新であり、高江でのヘリパッド建設はオスプレイの使用を可能とするものであり、辺野古新基地は1960年代以来の米軍の悲願であった陸海空一体となった大規模新基地の獲得である。SACO合意は、全ては沖縄における米軍機能の再編・強化につながっている。もちろんその裏には、沖縄県民の基地負担の増加が存在するわけであり、非民主的なSACOを絶対視し、「移設だ」「返還だ」として議論をすすめることは危険である。

 (3)辺野古新基地は普天間飛行場の「移設先」「代替施設」ではない

 普天間飛行場は文字通り米海兵隊の飛行場であるが、辺野古新基地には2本のV字滑走路の他、MV-22オスプレイが配備されるヘリポートや強襲揚陸艦接岸用の軍港、辺野古弾薬庫と連動するであろう弾薬搭載エリアなど、普天間飛行場にはない様々な新機能が予定されている。まさしく辺野古は「新基地」なのであり、基地機能を強化するものだ。

 辺野古新基地を飛び立ったオスプレイは、ヘリパッドが新設された北部訓練場で訓練を繰り返したり、パラシュート降下訓練がおこなわれる伊江島に飛び立つこともあるだろう。また隣接するキャンプ・ハンセンの地上部隊が辺野古新基地に進入し、陸海空一体の運用がおこなわれる可能性もある。沖縄島中北部の基地負担はこれまで以上になるのであり、単純に普天間飛行場の「移設先」「代替施設」として辺野古新基地をとらえても、沖縄の基地負担の軽減にはつながらない。

 (4)二度と元に戻らない自然環境

 いうまでもなく、キャンプ・シュワブ沿岸部を埋め立てる辺野古新基地は、サンゴ礁やジュゴンの餌場の破壊など、大規模な環境破壊を伴うものである。また埋め立てのために投入される土砂は西日本各地で採掘されるものであり、辺野古沖の海洋生物などの生態系を破壊する恐れがある。また新基地建設により、土砂や工事資材を積んだ工事車両が10年以上にわたり多数行き交うことになり、これによる環境負荷も見過ごせない。

 もちろん、こうして破壊された環境は二度と元に戻ることはない。また米軍の基地使用のあり方は、日米地位協定によって事実上米軍の自由である。返還された米軍基地跡からは、不法投棄されたと思われる危険物質なども確認されており、そうして意味での環境破壊も考えられる。海を埋立て、世界最強の軍隊のための軍事基地をつくるのである。「一度建設して、しばらくしたら元に戻そう」というような甘いものではないことは、少し考えればわかるはずである。

 (5)「辺野古唯一論」の破綻と差別性

 「二段階返還論」は、とりもなおさず政府のいう普天間飛行場の「移設先」「代替施設」としての「辺野古唯一論」に依拠するものである。しかしこの辺野古唯一論は既に破綻している。

 森本元防衛大臣や中谷元防衛大臣は、普天間飛行場の「移設先」は、九州や西日本でも可能としている。安倍総理自身、「移設先」について「本土では理解が得られない」と発言するなど、辺野古には「移設先」「代替施設」としての地理的優位性や軍事的要請は存在しない。つまり「辺野古唯一論」は、「本土」には新たな米軍基地は置けないという政治的判断に基づくものなのだ。

 また「二段階返還論」は、そもそも普天間飛行場の閉鎖・返還に関して、「代替施設が本当に必要なのか」という検討をしていない。既に高速輸送船の導入や海兵隊の運用の変更によって普天間飛行場は代替施設を建設しないでも閉鎖・返還できるという見立てもあり、これに基づいてワシントンでロビー活動を展開しているシンクタンクもある。もちろん、沖縄戦において強制的に占拠・建設された普天間飛行場は国際法に違反するものであり、無条件の閉鎖・返還という主張も根強く存在する。

 「二段階返還論」は政府のいう「辺野古唯一論」に依拠することにより、沖縄に基地を押しつけ、「本土」の基地負担を回避するものである。自らは絶対安全圏にいて応分の負担を拒否しながら、沖縄には「そのうち返ってくるから」と基地を押しつけるのは、あまりに傲慢である。そして、これまで積み上げられてきた代替施設や「移設」に関する議論、あるいは「本土引き取り運動」といった動向を踏まえることなく「本土」の高みから「二段階返還論」などとぶちあげて沖縄の基地負担を当然視する姿には、沖縄が置かれた構造的差別とそこに関与する「本土」という自己反省が感じられない。

 「二段階返還論」を取消し、沖縄について向き合い直すことを呼びかける

 その他、辺野古新基地建設には、政府・沖縄防衛局による違法工事や沖縄県への高圧的な姿勢、県の指導をかいくぐるばかりの態度といった問題もあれば、政府による基地建設費用の負担、公有水面埋立法に対する法解釈などの問題もある。また「二段階返還論」は「いつか日米関係が見直されるはずだ」という根拠のあやふやさの問題があるが、それらについて言及せずとも、これまで挙げた点だけでも辺野古新基地建設は普天間飛行場の「移設」などではなく、あくまで新基地建設であることがわかるはずだ。

 辺野古新基地は、完成しても普天間飛行場が返還されるか確実ではなく、さらに普天間飛行場が返還されたとしても、それ以上の危険と基地負担を沖縄に押しつけるものである。そして建設をめぐる様々な手続きにおいて適正さや公正さを欠くものであり、「いつかそのうち返ってくるから、とりあえず建設しよう」などという雑な感覚で議論するようなものではない。沖縄は、ありとあらゆる面から辺野古新基地の問題点を「告発」をしているのである。その「告発」をしっかりと受け止めて、答えを出していく必要がある。

 「二段階返還論」をいう人物は、SNS上で「何度も辺野古に行った」などとも発言している。その発言が虚言とまではいわないが、辺野古に何度もいった人物の口から「二段階返還論」が出てくるのは不思議で仕方がない。一体、この人物は辺野古に行って何を見て、何を感じ、何を考えたというのだろうか。辺野古区民は20年以上、国家に翻弄され続けている。最近では新基地の容認条件である個別補償が行われない可能性も出始め、「それならば反対」という区民の声もある。地域の人々の苦しみやこれまでの議論の積み重ねも全て飛び越えた「二段階返還論」は、「ただの思いつき」ともいえない悪質なものも感じる。

 「二段階返還論」をいう人物は、沖縄戦の戦跡を何度も訪れたことがあるそうだ。曲りなりにも沖縄戦の傷跡や悲しみに向き合う姿勢はあるのだろう。沖縄基地問題は沖縄戦にまっすぐにつながる。沖縄戦について向き合う姿勢があるのならば、基地問題についてももう一度しっかり向き合うことも可能だろう。またこの人物は故翁長雄志氏を「保守」「愛国者」といって褒めそやしている。ならば翁長氏が辺野古新基地建設についてどのような主張をしていたのか、先刻承知のはずであり、それを思い出せば自身の主張の問題点を検討することもできるだろう。いますぐ「二段階返還論」を取消し、沖縄について向き合い直すべきだ。

平成30年10月7日[戦争遺跡見学]陸軍気球連隊第2格納庫跡(千葉市・作草部)

 陸軍気球連隊第2格納庫跡(千葉市・作草部)を見学しました。

 18世紀末、熱気球や水素気球が発明されて以降、気球は世界的に軍事利用されてきました。日本でも西南戦争や日清・日露戦争において砲弾の着弾観測や偵察などで利用されました。特に日露戦争では、旅順攻防戦において日本軍が有人気球を挙げて砲弾の観測や誘導をしたといわれています。また気球はプロパガンダ用の宣伝兵器(「せ号兵器」)としても利用されるなど、日本軍の「秘密戦」において活躍しました。

 これら気球は、日本軍の「秘密戦」における諸兵器を開発した陸軍登戸研究所が中心となり研究・開発されたといわれています。開発された気球は和紙で製作され、こんにゃく糊で貼り付けられたそうです。全国の和紙の産地の職人が動員され気球用の和紙を製作し、さらに産地付近の都市で女学生らが動員され糊付けしたといわれています。このため戦時中、こんにゃくが流通しなくなったともいわれています。

 この日に見学した陸軍気球連隊第2格納庫は、昭和2年に陸軍気球隊(後の気球連隊)が所沢から千葉市・作草部に移転した後に気球格納庫として昭和4年に建設されました。格納庫の屋根が尖っているのが特徴的で、当時の軍用機の格納庫なども同様のつくりになっています。なお、格納庫は現在、民間の倉庫会社の倉庫となっています。

気球連隊第2格納庫

 第1次世界大戦で飛行機が戦場に登場して以来、世界的に兵器としての気球は衰退していきますが、日本軍は日中戦争の初期まで、砲弾の弾着観測用として使用していたそうです。また第2次世界大戦では、ワイヤーをつけた気球を上空に放球し、地上から気球をアドバルーンのように係留させて飛行機の侵入を阻む「阻塞気球」として使用されるなどしました。ノルマンディー上陸作戦でも「阻塞気球」が使用されています。

 日本軍は第2次世界大戦の開戦以降、爆弾を搭載した攻撃用気球(「ふ号兵器」)の開発をすすめていました。いわゆる風船爆弾です。そして大戦末期、開発された攻撃用気球を千葉・茨城・福島の太平洋沿岸から放球し、偏西風を利用して米国本土に到着させることが目指されました。気球は日本から米国本土まで二昼夜半かけて到着するといわれており、爆弾とともに、その間の気球の高度管理のためのバラスト用の砂なども搭載されていました。

格納庫付近の境界(「陸軍用地」と記されている)

 攻撃用気球は計9,300発が放球され、1,000発程度は米国本土に到着し、一定の被害を発生させたといわれています。しかし、爆弾による実際の被害とともに、米国国内の混乱の誘発が目的でもあったため、米国は攻撃用気球について報道管制をおこないました。このため被害の程度の詳細は判然としないのが実態です。

 千葉市は気球連隊の他にも戦場や占領地の鉄道の敷設・修繕・運行などをおこなった鉄道連隊が駐屯していたため、軍とともにあった「軍都」ともいわれていました。そのため現在でも千葉市各所に戦争遺跡が残っています。戦争の記憶を継承し、戦没者の慰霊を目指す花瑛塾は、こうした戦争遺跡の見学なども積極的におこなっていきたいと考えています。

トークイベント「やまとぅ問題を斬る! 沖縄への視点/沖縄からの視点 Vol.2 ―故郷と生活を守る「うちなぁ」の民意へ襲いかかる「やまとぅ」の論理―」

 10月5日夜、Naked Loft(東京・新宿)にてトークイベント「やまとぅ問題を斬る! 沖縄への視点/沖縄からの視点 Vol.2 ―故郷と生活を守る「うちなぁ」の民意へ襲いかかる「やまとぅ」の論理―」が開催されました。

 登壇者は中村友哉氏(「月刊日本」副編集長)、山口祐二郎氏(憂国我道会々長、フリーライター)、渡瀬夏彦氏(ノンフィクションライター)、木川智(花瑛塾々長)、テーマは「沖縄県知事選挙の総括と新知事への期待」「基地問題をめぐる『保守と革新』『右と左』」「米軍基地なき後の日本の安全保障とは」辺野古新基地県民投票をどう見るか―沖縄が『やまとぅ』に問いかけるもの―」「沖縄の民意へ襲いかかる『やまとぅ』の論理―政治・メディア・デマの分析と攻略―」でした。雨のなか、大勢のご観覧をいただきました。

 直前の9月30日に沖縄県知事選挙がおこなわれ、玉城デニー氏が当選したこともあり、特に沖縄県知事選挙と今後のデニー県政の展望について話題となりました。

 登壇者の渡瀬さんは、今回の県知事選挙において玉城デニー氏の選挙に密着・応援し、デニー氏擁立に関する民主的な手続きや大勢の人の期待といった出馬の背景、あるいは翁長知事の妻・樹子さんの知事選をめぐる思いや沖縄創価学会員の苦悩と決断といった現地情勢を「週刊金曜日」などで積極的に発信し続けたこともあり、渡瀬さんが見た沖縄県知事選挙の舞台裏などを伺うことができました。

 また中村さんは、沖縄県出身の衆院議員で自民党沖縄県連会長として今回の県知事選挙で佐喜真候補の選対幹部を務めた国場幸之助氏やのインタビュー記事や翁長知事に関する論考なども執筆していたことから、自民党総裁選挙にも関連し中央政界の今後の沖縄への対応やメディアの論調などについてお話しを伺うことができました。

 その他、今回の選挙で話題となった沖縄の若者にとっての基地の問題や自衛隊沖縄配備の問題なども話題となりました。その後の質疑応答も活発に行われました。