大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生しました。死者・行方不明者は約10万人、建物の被害は全半壊あわせ約30万棟、焼失約40万棟といわれる未曾有の大災害でした。いわゆる関東大震災です。そして震災発生直後から朝鮮人・中国人あるいは社会主義者が「井戸に毒を入れた」「婦女を暴行した」「爆弾を仕掛けた」「武装蜂起した」といった悪質な流言飛語が飛び交い、軍・警察そして民間人「自警団」による誰何尋問が各所で行われ、暴行・虐殺がはじまりました。震災犠牲者の実に数パーセントがこうした虐殺による犠牲者ともいわれています。
関東大震災発生から明日で95年を迎えるにあたり、歴史の継承と犠牲者の慰霊のため、震災犠牲者を祀る東京都慰霊堂(東京都墨田区横網公園内)および同施設内に建つ朝鮮人犠牲者追悼碑を訪れ、全ての震災犠牲者とデマや権力犯罪により虐殺された人々を追悼しました。東京都慰霊堂では明日10時より秋季大法要が執り行われる他、11時から朝鮮人犠牲者追悼碑の前で朝鮮人犠牲者追悼集会が開催される予定です。
その後、以下の虐殺犠牲者の慰霊碑や虐殺事件現場を訪れ、重ねて慰霊・追悼のまことをささげました。全ての犠牲者の御霊の安らかなることをお祈り申し上げるとともに、このような出来事を二度と繰り返さないよう歴史の継承に努めていきたいと思います。
関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑
関東大震災直後に朝鮮人虐殺事件が発生した荒川旧四ツ木橋(東京都墨田区)を訪れ、同地に建つ「関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」にて慰霊・追悼のまことを捧げました。震災直後から民間人・官憲・メディアが一体となって民族差別・憎悪・蔑視に基づく暴動幻想やレイピスト神話を煽り、「自警団」や官憲が多数の朝鮮人を誰何尋問し、虐殺しました。
当時の新聞にあふれる「不逞鮮人」の文字とこれに煽られる民間人、さらにこれに関与する官憲という構図は、インターネットやソーシャルメディアに溢れかえるヘイトスピーチとこれを受けた団体によるヘイトクライムとして、いまなお存在していることを自覚する必要があります。
亀戸事件犠牲者之碑
震災直後の9月3日(4日とも)に発生した軍による労働運動家虐殺事件「亀戸事件」の犠牲者を弔う「亀戸事件犠牲者之碑」(東京都江東区「浄心寺」内)を訪れ、慰霊・追悼のまことを捧げました。亀戸事件発生の要因には、震災後の朝鮮人に関するデマとともに流布された社会主義者に関するデマの存在もちろんながら、震災による混乱を奇貨として、官憲が日頃から警戒・危険視していた労働運動家の抹殺をはかろうとした意図が存在し、犠牲者を狙い撃ちして検束・虐殺した一種の権力犯罪と考えられます。
「大島町事件」現場
震災直後の9月3日に発生した中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場を訪れ、犠牲者を慰霊・追悼しました。震災後、中国人労働者の寄宿舎に軍・警察・民間人が押し寄せ、多数の中国人労働者を大島8丁目の空き地(現在の江東区東大島文化センター付近)に集め、軍が虐殺を行いました。虐殺事件の背景には、中国人への民族差別・蔑視・憎悪が存在したことはもちろんながら、この際に余剰な中国人労働者を「整理」しようとした悪質な手配師たちの意図もあったといわれています。
「検見川事件」現場
関東大震災から4日後の9月5日に発生した「検見川事件」現場を訪れ、慰霊・追悼しました。この事件では、震災により沖縄県人の儀間次郎や秋田県人の藤井金蔵など3人の青年が検見川停留所(千葉県千葉市)周辺に逃れたところ、「自警団」に誰何尋問され、言葉のなまりから朝鮮人として殺害されました。途中、警察官が3人の青年を派出所で保護し、身分証明書を確認して「朝鮮人ではない」と「自警団」に伝えたが「自警団」はこれを信じず、逆に派出所を襲い3人を連れ出して殺害したとのことです。最終的に3人の青年を取り囲む「自警団」にさらに数百人の群衆が群がり、群集心理によって殺害されたともいわれています。遺体は花見川橋から東京湾に向けて川に捨てられたそうです。
関東大震災福田村事件追悼慰霊碑
関東大震災後の9月6日に発生した行商人虐殺事件「福田村事件」の犠牲者を偲び、「関東大震災福田村事件追悼慰霊碑」(千葉県野田市「円福寺」内)にて慰霊・追悼のまことを捧げました。関東震災発生から5日後の9月6日、現在の千葉県野田市で香川県出身の行商人らとその家族15人が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9人が虐殺されました。いわゆる「福田村事件」です。虐殺事件の犠牲者であった行商人らは被差別部落出身者であったため、事件発覚後もほとんど救済がなされず、犯人たちも早々に釈放されたといわれています。
「王希天事件」現場
関東大震災後の9月12日に発生した中国人社会運動家・王希天虐殺事件「王希天事件」現場を訪れ、慰霊・追悼の祈りを捧げました。震災発生から中国人被災者の救援を行なっていた王希天は、警察により拘束された後、現在の旧中川逆井橋(東京都江東区)で軍によって殺害されました。王の遺体は斬り刻まれ、旧中川に投げ捨てられたといわれています。政府は王虐殺を隠蔽し、後に国際問題にまで発展します。
天才的な神道学者・民俗学者である折口信夫は、関東大震災発生直後に第2回沖縄採訪を終え横浜港に帰港しますが、帰路、自警団の尋問に合いました。折口はその時のことを、
道々酸鼻な、残虐な色色の姿を見る目を掩ふ間がなかった。歩きとほして、品川から芝橋へかゝつたのが黄昏で、其からは焼け野だ。自警団の咎めが厳重で、人間の凄ましさ・あさましさを痛感した。
と述べています(折口信夫「砂けぶり」自註)。さらにその後の日本人による外国人虐殺の悲しみを「砂けぶり 二」という詩に綴りました。
砂けぶり 二
両国の上で、水の色を見よう。
せめてもの やすらひに―。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ
…
横浜からあるいて 来ました。
疲れきつたからだです―。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい 気がします
…
夜になつた―。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町で 金棒ひいて
夜警に出掛けようか
井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々―。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめ だらう
かはゆい子どもが―
大道で しばいて居たつけ―。
あの音―。
帰順民のむくろの―。
…
おん身らは 誰をころしたと思ふ。
かの尊い 御名において―。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい
この詩から、折口による日本人そして人間の残虐さの告発を読み取ることができます。
昨年から小池百合子・東京都知事や墨田区長が朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文の送付を拒否したことが話題となっていますが、関東大震災時における朝鮮人や中国人そして社会主義者などの虐殺は歴史的事実です。
震災から3ヶ月後の帝国議会では代議士・田渕豊吉や永井柳太郎が朝鮮人虐殺や政府が出元である流言蜚語について責任を問いましたが、首相・山本権兵衛は返答を避け、調査なども行いませんでした。私たちは負の歴史を修正・捏造するのではなく、これを見据え、受け止める必要があるはずです。
現代は世界的に歴史修正主義が吹き荒れ、それは日本も例外ではありませんが、国を思い、愛すればこそ、自国の歴史の負の部分から目を背けず、これを引き受ける必要があるのではないでしょうか。