平成30年9月1日 関東大震災発生95年 全犠牲者慰霊・追悼

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災から95年の今日、震災犠牲者の遺骨を納め、犠牲者を御霊を弔う東京都慰霊堂(東京都墨田区「横網公園」内)で行われた秋季大法要と、同公園内に建つ「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」前で開催された朝鮮人犠牲者追悼集会に参加し、震災に関連するすべての犠牲者を慰霊・追悼しました。

東京都慰霊堂秋季大法要

 また台場公園(品川台場跡)に建立されている「関東大震災 東京大空襲 犠牲者慰霊碑」をお参りしました。関東大震災時、墨田川から犠牲者が流され、現在のお台場周辺には多くの遺体が流れ着いたそうです。そのため旧防波堤にて慰霊祭が行われていましたが、お台場地区の整備・再開発により慰霊祭を打ち切り、東京都慰霊堂での慰霊に引き継がれたため、その経緯を記し犠牲者を弔う慰霊碑を建立したとのことです。

関東大震災 東京大空襲 犠牲者慰霊碑

 その後、在日韓人歴史資料館で開催された第111回土曜セミナーに参加しました。テーマは「関東大震災ーその時代と社会」、講師はジャーナリストの渡辺延志氏でした。

 渡辺氏より、当時の新聞報道などを資料としつつ、朝鮮人による暴動・略奪・放火といった流言蜚語がどのように発生し、どのように伝わり、そして報じられ、また虚報として総括されていったか確認しました。

 それとともに、震災時、朝鮮人を虐殺した「自警団」とは、けして震災直後に突如として結成されたのではなく、既に米騒動以後、警察を補完するかたちで上からつくられ、そのメンバーは日清戦争で朝鮮を戦場とした元軍人による在郷軍人会が中心であったことなども伺いました。彼らは朝鮮半島で壮絶な殺戮を経験しており、既に日本には虐殺の精神的・社会的素地があったといえます。

 一方で、彼ら元軍人は、日本社会において下層に位置する人々であり、けしてみずから望んで軍隊にいったわけでもなく、朝鮮人を戦争で殺戮したわけでもありません。ある意味では彼らも戦争に動員され、殺戮に加担されたという見方もできます。渡辺氏はこうした当時の社会状況を多面的に見ることで、新たな、かつ大きな枠組みで歴史を考えようとされています。

講演する渡辺延志氏

 また現在では関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する議論もあるようですが、数々の証言、人々の日記、軍・官憲の記録、新聞報道、行政機関の資料などからも虐殺の事実を否定することはできません。そして震災から約1か月半後に報道統制が解禁された10月下旬の新聞では、既に「朝鮮人による暴動」といった情報が虚報であり、そうした流言蜚語により多数の朝鮮人が虐殺されたが、実際には日本人が略奪などの犯罪行為を行っていたと報じられており、私たちの国の負の歴史としてしっかりと学習し、継承する必要があります。

花瑛塾第14次沖縄派遣団⑦(北部三村周遊、全島エイサーまつり)

 花瑛塾第14次沖縄派遣団は9月1日、国頭村を中心に東村・大宜味村と本島北部3村を周遊し、記念碑などを見学しました。

 特に国頭村安波に建立されている「県営緊急畑地帯整備事業の碑」には、この一帯が提供区域とされていた旧米軍安波訓練場の一部返還と、これによる農地整備の歴史が刻まれ、沖縄側の返還要求に日米両政府が対応するなど一定の交渉や相互理解のあった往時の日米関係と現在の日米関係の違いについて考えました。

県営緊急畑地帯整備事業の碑

 一方で、SACO合意によって安波訓練場は全面返還されましたが、そのかわりに同地の宇嘉川河口が米軍に提供され、宇嘉川河口と北部訓練場G地区ヘリパッドが歩行訓練ルートで結ばれることにより、オスプレイでヘリパッドに降り立ち、歩行訓練ルートをたどって宇嘉川河口にいたり舟艇で脱出する脱出訓練やその逆コースの上陸訓練も可能となるなど、北部訓練場ではより実践的な演習が可能となりました。

 普天間飛行場の閉鎖・返還という話がいつの間にか「移転」となり、米軍が普天間飛行場の危険性を認識する以前の1966年の段階の辺野古新基地が「移転」先として建設されている例も同様、日米合意の裏には必ず何らかの密約があるため、日米協調の背景についても考える必要があります。

 また安波節・辺野喜節などの歌碑もあちこちに建立されていた他、本島最北端にして鹿児島・奄美諸島を間近に望む辺戸岬には「祖国復帰闘争碑」が建立されていました。琉球音楽はおもろや琉歌、さらに奄美島唄もベースにあり、奄美から八重山まで、アジア諸国を視野に入れた琉球弧の活発な交流の歴史と、過去にこの地にひかれた境界線の悲しみを思いました。

「安波節」歌碑

 夕方、コザ運動公園にて開催された「第63回沖縄全島エイサーまつり」に参加し、各地の青年会などの団体のエイサーを鑑賞しました。

 このイベントは米軍施政権下の1956年からはじまった沖縄県最大級の規模のエイサーのイベントで、毎年30万人もの人でにぎわっています。エイサーは沖縄の旧盆などで行われるもので、もともとは「念仏踊り」ともいわれる宗教的行事であり芸能でした。

 最後に会場全体で踊る恒例のカチャーシーは「かき混ぜる」という意味があり、様々な文化を受け入れる沖縄文化の象徴ともいわれています。

カチャーシー

平成30年8月31日 関東大震災全震災犠牲者・虐殺犠牲者慰霊・追悼

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生しました。死者・行方不明者は約10万人、建物の被害は全半壊あわせ約30万棟、焼失約40万棟といわれる未曾有の大災害でした。いわゆる関東大震災です。そして震災発生直後から朝鮮人・中国人あるいは社会主義者が「井戸に毒を入れた」「婦女を暴行した」「爆弾を仕掛けた」「武装蜂起した」といった悪質な流言飛語が飛び交い、軍・警察そして民間人「自警団」による誰何尋問が各所で行われ、暴行・虐殺がはじまりました。震災犠牲者の実に数パーセントがこうした虐殺による犠牲者ともいわれています。

 関東大震災発生から明日で95年を迎えるにあたり、歴史の継承と犠牲者の慰霊のため、震災犠牲者を祀る東京都慰霊堂(東京都墨田区横網公園内)および同施設内に建つ朝鮮人犠牲者追悼碑を訪れ、全ての震災犠牲者とデマや権力犯罪により虐殺された人々を追悼しました。東京都慰霊堂では明日10時より秋季大法要が執り行われる他、11時から朝鮮人犠牲者追悼碑の前で朝鮮人犠牲者追悼集会が開催される予定です。

東京都慰霊堂

 その後、以下の虐殺犠牲者の慰霊碑や虐殺事件現場を訪れ、重ねて慰霊・追悼のまことをささげました。全ての犠牲者の御霊の安らかなることをお祈り申し上げるとともに、このような出来事を二度と繰り返さないよう歴史の継承に努めていきたいと思います。

関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑

 関東大震災直後に朝鮮人虐殺事件が発生した荒川旧四ツ木橋(東京都墨田区)を訪れ、同地に建つ「関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」にて慰霊・追悼のまことを捧げました。震災直後から民間人・官憲・メディアが一体となって民族差別・憎悪・蔑視に基づく暴動幻想やレイピスト神話を煽り、「自警団」や官憲が多数の朝鮮人を誰何尋問し、虐殺しました。

 当時の新聞にあふれる「不逞鮮人」の文字とこれに煽られる民間人、さらにこれに関与する官憲という構図は、インターネットやソーシャルメディアに溢れかえるヘイトスピーチとこれを受けた団体によるヘイトクライムとして、いまなお存在していることを自覚する必要があります。

関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑

亀戸事件犠牲者之碑

 震災直後の9月3日(4日とも)に発生した軍による労働運動家虐殺事件「亀戸事件」の犠牲者を弔う「亀戸事件犠牲者之碑」(東京都江東区「浄心寺」内)を訪れ、慰霊・追悼のまことを捧げました。亀戸事件発生の要因には、震災後の朝鮮人に関するデマとともに流布された社会主義者に関するデマの存在もちろんながら、震災による混乱を奇貨として、官憲が日頃から警戒・危険視していた労働運動家の抹殺をはかろうとした意図が存在し、犠牲者を狙い撃ちして検束・虐殺した一種の権力犯罪と考えられます。

亀戸事件犠牲者之碑

「大島町事件」現場

 震災直後の9月3日に発生した中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場を訪れ、犠牲者を慰霊・追悼しました。震災後、中国人労働者の寄宿舎に軍・警察・民間人が押し寄せ、多数の中国人労働者を大島8丁目の空き地(現在の江東区東大島文化センター付近)に集め、軍が虐殺を行いました。虐殺事件の背景には、中国人への民族差別・蔑視・憎悪が存在したことはもちろんながら、この際に余剰な中国人労働者を「整理」しようとした悪質な手配師たちの意図もあったといわれています。

「大島町事件」現場

「検見川事件」現場

 関東大震災から4日後の9月5日に発生した「検見川事件」現場を訪れ、慰霊・追悼しました。この事件では、震災により沖縄県人の儀間次郎や秋田県人の藤井金蔵など3人の青年が検見川停留所(千葉県千葉市)周辺に逃れたところ、「自警団」に誰何尋問され、言葉のなまりから朝鮮人として殺害されました。途中、警察官が3人の青年を派出所で保護し、身分証明書を確認して「朝鮮人ではない」と「自警団」に伝えたが「自警団」はこれを信じず、逆に派出所を襲い3人を連れ出して殺害したとのことです。最終的に3人の青年を取り囲む「自警団」にさらに数百人の群衆が群がり、群集心理によって殺害されたともいわれています。遺体は花見川橋から東京湾に向けて川に捨てられたそうです。

「検見川事件」現場の花見川橋

関東大震災福田村事件追悼慰霊碑

 関東大震災後の9月6日に発生した行商人虐殺事件「福田村事件」の犠牲者を偲び、「関東大震災福田村事件追悼慰霊碑」(千葉県野田市「円福寺」内)にて慰霊・追悼のまことを捧げました。関東震災発生から5日後の9月6日、現在の千葉県野田市で香川県出身の行商人らとその家族15人が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9人が虐殺されました。いわゆる「福田村事件」です。虐殺事件の犠牲者であった行商人らは被差別部落出身者であったため、事件発覚後もほとんど救済がなされず、犯人たちも早々に釈放されたといわれています。

関東大震災福田村事件追悼慰霊碑

「王希天事件」現場

 関東大震災後の9月12日に発生した中国人社会運動家・王希天虐殺事件「王希天事件」現場を訪れ、慰霊・追悼の祈りを捧げました。震災発生から中国人被災者の救援を行なっていた王希天は、警察により拘束された後、現在の旧中川逆井橋(東京都江東区)で軍によって殺害されました。王の遺体は斬り刻まれ、旧中川に投げ捨てられたといわれています。政府は王虐殺を隠蔽し、後に国際問題にまで発展します。

「王希天事件」現場

 天才的な神道学者・民俗学者である折口信夫は、関東大震災発生直後に第2回沖縄採訪を終え横浜港に帰港しますが、帰路、自警団の尋問に合いました。折口はその時のことを、

道々酸鼻な、残虐な色色の姿を見る目を掩ふ間がなかった。歩きとほして、品川から芝橋へかゝつたのが黄昏で、其からは焼け野だ。自警団の咎めが厳重で、人間の凄ましさ・あさましさを痛感した。

と述べています(折口信夫「砂けぶり」自註)。さらにその後の日本人による外国人虐殺の悲しみを「砂けぶり 二」という詩に綴りました。

 砂けぶり 二

両国の上で、水の色を見よう。
せめてもの やすらひに―。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ

横浜からあるいて 来ました。
疲れきつたからだです―。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい 気がします

夜になつた―。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町で 金棒ひいて
夜警に出掛けようか

井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々―。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめ だらう

かはゆい子どもが―
大道で しばいて居たつけ―。
あの音―。
帰順民のむくろの―。

おん身らは 誰をころしたと思ふ。
かの尊い 御名において―。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい

 この詩から、折口による日本人そして人間の残虐さの告発を読み取ることができます。

 昨年から小池百合子・東京都知事や墨田区長が朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文の送付を拒否したことが話題となっていますが、関東大震災時における朝鮮人や中国人そして社会主義者などの虐殺は歴史的事実です。

大正12年10月21日「東京日日新聞」

 震災から3ヶ月後の帝国議会では代議士・田渕豊吉や永井柳太郎が朝鮮人虐殺や政府が出元である流言蜚語について責任を問いましたが、首相・山本権兵衛は返答を避け、調査なども行いませんでした。私たちは負の歴史を修正・捏造するのではなく、これを見据え、受け止める必要があるはずです。

 現代は世界的に歴史修正主義が吹き荒れ、それは日本も例外ではありませんが、国を思い、愛すればこそ、自国の歴史の負の部分から目を背けず、これを引き受ける必要があるのではないでしょうか。

花瑛塾第14次沖縄派遣団⑥(大浦湾・北部訓練場返還地確認)

 花瑛塾第14次沖縄派遣団は31日、グラスボートに乗船し世界最大級とも言われるアオサンゴや約5000種の生き物が生息する大浦湾と、そこを無残にも埋め立てる新基地建設の状況を確認しました。その後、ジュゴンの見える丘でジュゴン生息ポイントなどの説明を受け、大浦湾の生態系を学びました。

ジュゴンの見える丘

 また北部訓練場返還地を調査し、米軍が投棄したと見られるレーション(携行糧食)や鎖などの資財を視認しました。

 返還地は先日「やんばる国立公園」に編入されましたが、生活用水の近くを流れる小川付近で米軍の薬品の成分と見られるDDTが検出され土壌汚染が発覚し、先日も空薬きょうが見つかるなど、いまだ危険な状況です。

米軍が投棄したと見られるレーションと大きさを比較するために置いた軍手

 なお昨日に引き続き、北部訓練場メインゲート前にてN1地区ヘリパッドとN1裏ゲート、H地区ヘリパッドを結ぶ通行路の新規工事について抗議しました。

花瑛塾第14次沖縄派遣団⑤(辺野古沖・大浦湾のジュゴンの生態調査と今帰仁城見学)

 花瑛塾第14次沖縄派遣団は30日、普天間飛行場の「移設」と称する新基地建設が進む大浦湾・辺野古沖でジュゴンの生態調査をしている方からお話を伺いました。

 ジュゴンの生息域は沖縄が北限とされますが、昨年も古宇利島(今帰仁村)や嘉陽沖(名護市)で鳴音が確認されています。現在でも大浦湾の人間が近づきにくい深度の深い海中で昼寝などをしている可能性もあるといわれ、そのことは沖縄防衛局も認知しているとのことでした。

大浦湾と埋立工事が進むキャンプ・シュワブ

 辺野古沖・大浦湾で新基地建設が進めばジュゴンの藻場を奪うことになり、さらに騒音や海の形状がかわることによってジュゴンは近づき難くなります。天然記念物であるジュゴンはじめ、沖縄の貴重な自然と希少生物を守るためにも、辺野古新基地建設はただちに中止するべきです。

 その後、世界遺産に登録されている「今帰仁城跡」(今帰仁村)を訪れ、7月の台風7号で崩落した石垣を確認しました。

 石垣に番号を振るなど管理はされているものの、崩落箇所はいまだそのままの状態になっており、復旧の目処が立っていないとのことでした。今帰仁城は琉球王国成立以前の三山時代の山北(北山)王の居城であり、歴史的にもその形状の美しさからいっても名城であり、復旧が待たれます。

石垣が崩落した今帰仁城跡

 その後、有志で地方自治や運動のあり方などをテーマに意見交換しました。

花瑛塾第14次沖縄派遣団④(米海兵隊演習場「北部訓練場」前アピール)

 花瑛塾第14次沖縄派遣団は29日、米海兵隊演習場「北部訓練場」(東村・国頭村)前にて、「基地負担軽減」の名で行われた着陸帯建設とオスプレイなどの戦闘演習が実質的な基地負担増加・基地機能強化であることを訴え、また基地が同地の希少生物や自然へ過大な環境負荷を与えていることを追求しました。

 米兵による少女暴行事件に端を発する96年SACO合意では、北部訓練場内に新たなヘリパッドを建設し、さらに宇嘉川河口を提供区域とすることにより、同訓練場の敷地の過半が返還されることになりましたが、そのヘリパッドは東村高江集落を取り囲むように設定され、さらにオスプレイの離着陸が行われることになるなど、北部訓練場におけるヘリパッド建設は基地負担の軽減ではなく、実質的な基地機能の強化と基地負担の増加に他ならないものでした。

 さらに北部訓練場の位置する沖縄本島北部「やんばるの森」は、ノグチゲラやヤンバルクイナなどの希少生物が多数生息していますが、森林を伐採したヘリパッドに高温の排熱と騒音を撒き散らすオスプレイが離着陸すれば、希少生物の生態系にダメージを与えるなど過大な環境負荷を与えることになります。

 返還された旧北部訓練場敷地では、米軍の空薬きょうや廃タイヤなどが発見され、土壌汚染なども明らかになっています。またベトナム戦争時、米軍は北部訓練場にベトナム風の家を建て「ベトナム村」をつくり、高江区の住民を強制的に動員しベトナム人に見立てた戦闘訓練を行いましたが、その際に枯葉剤を散布したと元米陸軍高官など複数の証言があり、その面でも重大な環境被害や人体への被害が考えられます。

 辺野古新基地も同様ですが、環境の面からも北部訓練場におけるヘリパッド建設や演習の見直しは急務といえます。

北部訓練場メインゲート前にて

花瑛塾第14次沖縄派遣団③(米海兵隊演習場「北部訓練場」前アピール)

 花瑛塾第14次沖縄派遣団は28日、米海兵隊演習場「北部訓練場」(沖縄県東村・国頭村)において、基地労働者の雇用など基地経済を視点とした基地撤去の現実的根拠を訴えかけました。

 2016年7月、東村および国頭村にまたがる北部訓練場N1地区ヘリパッド、G地区ヘリパッド、H地区ヘリパッドの4箇所のヘリパッド建設が強行されました。その後、希少生物の営巣期間による音の鳴る工事の休工期間を経て、2017年7月に再び補修工事が行われ、さらに現在、各ヘリパッドやゲートを結ぶ進入路の補修工事などのため資材搬入が行われ、地域住民による座り込みなど抗議行動がおこなわれています。

 昨年、北部訓練場では軍用ヘリの大破・炎上事故などもあり、現在では新たに建設されたヘリパッドで危険なオスプレイの離着陸が繰り返されています。そして今後、辺野古新基地建設が進み、オスプレイ配備が行われると、辺野古を離陸したオスプレイが北部訓練場ヘリパッドに降り立ち、歩行訓練ルートや進入路を通じて新たに提供区域となった宇嘉川河口へ部隊が移動し舟艇で脱出するなど、実戦的な戦闘訓練が可能となります。

 現在では限定的となりましたが、沖縄では基地労働者の所得など基地経済が存在します。この「基地経済」が沖縄への基地押しつけの大義名分となっている部分もありますが、例えば基地経済でも基地労働者の雇用についていえば、基地の漸次撤去による基地労働者の新規雇用の打ち止めによる自然減などをはかれば、現在の基地労働者の雇用を確保しつつも基地経済から脱却することが可能です。

 基地がなければならない理由を懸命に探すのではなく、基地が必要ではない諸条件を整えることを考えていきたいと思います。

米海兵隊演習場「北部訓練場」メインゲートにて

花瑛塾会報「神苑の決意」第23号発行

 花瑛塾会報「神苑の決意」第23号発行しました。読者の皆様のお手許には、近日中に届くと思います。

 1面は「弔辞」として、沖縄県・翁長雄志前知事の逝去に哀悼の意を表し、「沖縄保守」としての翁長前知事の思想と政策、知事就任に至るまでの経緯と知事としての取り組みを振り返るとともに、沖縄における保守・革新の文脈と歴史、そして日米安保や沖縄基地問題における保守・革新、右・左の思想的逆転・倒錯という現代の思潮について振り返りました。

 その他、本号各記事の見出しや購読方法など、詳細については当サイト花瑛塾会報「神苑の決意」もしくは花瑛塾ONLINE STOREより御確認下さい。

 また花瑛塾会報「神苑の決意」は、ミニコミ誌を扱う「模索舎」(東京都新宿区)にも納品しており、バックナンバーなども置いていただいております。最新号(第23号)も納品済みですので、どうぞご購読下さい。

 模索舎Webサイト「神苑の決意」紹介ページ(第12号)

http://www.mosakusha.com/newitems/2017/09/12_15.html

 なお、これまでの花瑛塾会報「神苑の決意」より、琉球・沖縄関連記事と花瑛塾行動隊の街頭行動関連記事を選りすぐり、再編集した『花瑛塾会報「神苑の決意」創刊号~第19号「やまとぅ問題」選集①』および同『行動記録選集①』も「模索舎」(東京都新宿区)でも販売中です。詳しくは以下の模索舎storeよりご確認下さい。

http://www.mosakusha.com/newitems/2018/05/19_7.html

http://www.mosakusha.com/newitems/2018/05/119.html

【お知らせ】トークイベント「やまとぅ問題を斬る! 沖縄への視点/沖縄からの視点」Vol.2 ―故郷と生活を守るうちなぁの民意へ襲いかかる「やまとぅ」の論理―

 10月5日(金)19:00より、ネイキッドロフトにて以下のとおりトークイベントが開催されます。

 8月8日の翁長前知事の急逝に伴い、9月30日が沖縄県知事選挙の投開票日となり、はからずも沖縄県知事選挙直後の沖縄を考えるトークイベントとなりました。

 翁長前知事の逝去を悼み、県知事選挙の結果を総括し、これからの沖縄と日本を考えるイベントになればと思います。

 皆様のご参加をお待ちしています。

トークイベント「やまとぅ問題を斬る! 沖縄への視点/沖縄からの視点」Vol.2

故郷と生活を守るうちなぁの民意へ襲いかかる「やまとぅ」の論理─

画像をクリックするとPFDでご確認できます。

日時:2018年10月5日(金)OPEN 18:30 / START 19:00

チケット:[予約]1500円 [当日]2000円(飲食代別)

【テーマ】

 「やまとぅ(=日本本土)」は沖縄に米軍基地を押しつけ、基地負担に抗う沖縄の人々を暴力的に排除し、陰湿なデマを吹聴し、あらゆる力を総動員して沖縄を「屈服」させ、沖縄の民意を「やまとぅ」の論理によって塗りつぶしてきた。

 沖縄では翁長前知事の逝去と、これに伴う県知事選挙や辺野古新基地に関する県民投票への期待と不安が交錯している。これまで数々の選挙で示されてきた民意はどこにいくのか? 新たに示される民意に「やまとぅ」はどうこたえるのか?

 「やまとぅ」に生きる私たちはどうしていくべきか!? このままでいいの!? 私たちにできることは!? 基地や差別を沖縄に押しつける「やまとぅ」を問い直す。

第1部

  • 沖縄県知事選挙の総括と新知事への期待
  • 基地問題をめぐる「保守と革新」「右と左」
  • 米軍基地なき後の日本の安全保障とは

第2部

  • 辺野古新基地県民投票をどう見るか―沖縄が「やまとぅ」に問いかけるもの―
  • 沖縄の民意へ襲いかかる「やまとぅ」の論理―政治・メディア・デマの分析と攻略―

第3部

  • 質疑応答など

【登壇者】

  • 木川智…………花瑛塾 塾長
  • 中村友哉………「月刊日本」副編集長 執筆「翁長知事を『左翼』とみなす愚かしさ」(「月刊日本」2015年2月号所収)
  • 山口祐二郎……憂国我道会 会長 フリーライター
  • 渡瀬夏彦………ノンフィクションライター かもがわ出版より単著『沖縄が日本を倒す日』出版予定
前回のトークイベントの様子(右から香山リカさん、花瑛塾仲村、安田浩一さん、花瑛塾木川、山口祐二郎さん)

※氏名はあいうえお順

※動画撮影・録音・配信禁止

 詳細の確認・ご予約は以下よりお願いします。

「やまとぅ問題を斬る! 沖縄への視点/沖縄からの視点」Vol.2

花瑛塾第14次沖縄派遣団②(対馬丸記念館)

 花瑛塾第14次沖縄派遣団は対馬丸事件の日の22日、対馬丸記念館(那覇市)を訪れました。

 昭和19年(1944)8月22日、学童など沖縄からの疎開者1661人を乗せ長崎に向けて航行中の対馬丸が米潜水艦に撃沈され、学童784人を含む1400人以上が亡くなりました。

 この年、沖縄戦を控え、政府と軍は沖縄の民間人の老幼婦女子を九州・台湾へ船で疎開させました。しかし既に付近海域は米軍潜水艦があらわれており、実際に日本の船舶も多数撃沈されていましたが、県民にはそのような事実は知らされず疎開が強行されました。対馬丸はそうした戦時撃沈船舶の一つです。軍は対馬丸事件を秘密とし、生存者にも厳しく口止めしたといわれています。

 疎開といっても軍務につかない県民全員を疎開させたわけではなく、県民の生命を守ろうといった意識はありませんでした。あくまで老幼婦女子を中心とした10万人の疎開とされ、男性は残置されることになっていました。女性も疎開先での高齢者や幼児の世話が必要であれば疎開を認められたのであり、あくまで軍の足手まといとなる民間人を県外に移動させ、なおかつ「口減らし」によって食糧を確保するという意図がありました。

 さらに対馬丸事件ののち、大本営の作戦により第32軍の兵員が減らされると、軍は「根こそぎ召集」といわれる県民の軍務への召集をはじめ、民間人を戦争に巻き込んでいきました。

 記念館を訪れ事件について学ぶとともに、学童の顔写真などを眺め、犠牲者の痛苦と無念に思いを致しました。