花瑛塾第13次沖縄派遣団⑤(高江米軍ヘリ炎上・大破現場見学)

 花瑛塾第13次沖縄派遣団は22日、昨年10月11日東村高江にて発生した米海兵隊ヘリCH-53Eの炎上・大破事故について、事故現場の土地所有者の方に当時の状況の説明を受けました。

 幸いにも事故により付近住民やヘリ乗組員などの人的被害はありませんでしたが、炎上・大破した現場である牧草地の所有者の経済的被害は甚大です。また、事故現場は高江公民館や小学校から数キロ、民家から数百メートルの地点にあり、事故の恐怖という周辺住民の精神的被害も大きいものがあります。さらに同ヘリの回転翼にはストロンチウム90を利用した安全装置が取り付けられており、付近の放射能汚染も心配されています。

東村高江の牧草地で炎上・大破する米軍ヘリ【沖縄タイムス2017年10月25日】

 2004年に発生した沖縄国際大学(宜野湾市)アメリカ軍ヘリ墜落事件など、米軍機の墜落事故は戦後枚挙に暇がない。一昨年12月には名護市東海岸の沖合で MV-22オスプレイの墜落・大破事故が起きました。沖縄で繰り返される悲劇に終わりはないのでしょうか。日米両政府に対し、事故原因の徹底的な解明と公表を求めます。

 事故の背景には、沖縄への過度な基地の押しつけがあることはいうまでもありません。そして度重なる議決や申し入れにも関わらず、市街地上空を我が物顔で低空飛行する米軍のおごり、そしてそれを許す日本政府の県民軽視、さらに日米地位協定やこれに関する各種の日米合意により、過去の同種事故の真相解明がなされなかったことなどがあげられます。事故後の米軍の対応も傲慢なものがあり、事故被害者や付近住民の感情を逆なでしました。いまこそ沖縄への基地押しつけをやめ、日米地位協定・日米合意を見直すべきです。

 また、一昨年強行された在沖米海兵隊演習場「北部訓練場」(東村・国頭村)におけるヘリパッド建設や普天間飛行場の「移設」と称する辺野古新基地建設(名護市)は、同種事故発生の危険性を高めるものです。日米両政府は、普天間飛行場の無条件閉鎖、辺野古新基地建設の全面撤回、北部訓練場での演習中止を実施するべきではないでしょうか。

 1953年に交わされた日米合同委員会による「合衆国軍用機の事故現場における措置」の合意事項の第20条には、

合衆国軍用機が合衆国軍隊の使用する施設又は区域外にある公有若しくは私有の財産に墜落又は不時着した場合には、適当な合衆国軍隊の代表者は、必要な救助作業又は合衆国財産の保護をなすため事前の承認なくして公有又は私有の財産に立ち入ることが許されるものとする。(中略)日米両国の当局は、許可のない者を事故現場の至近に近寄らせないようにするため共同して必要な統制を行うものとする。

とあり、米軍機の事故において、基地の外であろうと私有地であろうと、米軍がそこに立ち入ることを認めています。さらに日米両国が共同で事故現場を封鎖する処置を取ることを認めています。上述の沖国大ヘリ墜落事故では、現場一帯を米軍がロックアウトしたことが問題視され、今次事故でも米軍による現場封鎖が話題となりました。それらはこの合意事項に基づきます。こうした事態が認められている限り、事故の原因の解明はありえず、同種事故を防ぐことはできないといえます。

 一方、日米合同委員会の合意事項21条「捜索等の要請」は、

(前略)日本国の当局は、右施設又は区域外における合衆国軍隊の構成員、軍属又はそれらの家族の身体又は財産に対して捜索、差押又は検証を行おうとするときは、できるならば、事前に、もよりの憲兵司令官又は当該本人が所属する部隊の司令官に、その旨を通知するものとする。このことは、いかなる意味においても、日本国の法律執行員が、右施設又は区域外において、関係法令に従い、合衆国軍隊の構成員、軍属又はそれらの家族の身体又は財産に対して捜索、差押又は検証を行う権限を制限するものではない。

とも取り決めています。確かに日米地位協定に関する合意議事録では、

日本国の当局は、通常、合衆国軍隊が使用し、かつ、その権限に基づいて警備している施設若しくは区域内にあるすべての者若しくは財産について、又は所在地のいかんを問わず合衆国軍隊の財産について、捜索、差押え又は検証を行う権利を行使しない。ただし、合衆国軍隊の権限のある当局が、日本国の当局によるこれらの捜索、差押え又は検証に同意した場合は、この限りでない。

とありますが、既に比屋定泰治氏が沖国大ヘリ墜落事件に関して指摘しているように(『沖縄法學』34号、2005年)、機体そのものは米軍の財産と考えられても、現場一帯を封鎖する理由にはならず、日本側の捜査・検証が全面的に否定されるものではないはずです。そして現場の封鎖は米軍による一方的な封鎖ではなく、日米共同の封鎖であり、日本側の立ち入りが拒まれる理由はありません。そして、米軍は日本側の申し入れについて「同意」することもできるのです。

炎上・大破現場の土地所有者に当時の状況と現在の心境などを伺う

 今次事故について沖縄県警察本部は航空危険行為処罰法違反容疑で捜査を進めると報道がなされました。日米地位協定や日米合意事項の規定上も運用上も、日本側が事故の捜査・処罰、原因解明に関与できない理由はありません。日米間にある「合意」や「議事録」あるいは「密約」という壁を乗り越えるか、壁を壁のままとするかは、日本側の態度と意思の如何にかかっているのです。。

 小野寺五典防衛相は、事故発生を受けて事故機の同型機の飛行中止を要請したが、米軍は同月18日から飛行を再開しました。小野寺防衛相は、米軍に飛行再開の発表をうけて、「安全性について防衛省側に十分な説明がない状況において、米軍側が一方的にこのような発表を行ったことは極めて遺憾だ」との趣旨の発言をしました。

 沖縄県民や日本国民の神経を逆なでするような米軍の傲慢は許されないが、日本側の米軍への不十分な姿勢や対応も事故を生む原因として考えられます。北朝鮮の「脅威」を煽り、「圧力」「国難」と騒ぎ立てる前に、なすべきことがあるはずです。

 その後、沖縄県名護市辺野古崎で進められている新基地建設の現状を確認しました。

 辺野古では護岸工事が一定の進捗を見せ、8月に土砂の投入が予定されています。一方で、埋め立て予定区域にサンゴの群体が確認され、さらにボーリング調査の結果、軟弱地盤の存在が明るみになるなど、辺野古新基地建設について沖縄防衛局には新たな対応が求められています。また沖縄県は埋め立て承認撤回や工事中止命令を検討するなど、新基地建設は重大な局面を迎えています。

キャンプ・シュワブ付近の海上のオレンジのフロートの奥は立ち入り禁止水域であり、作業船などが見える

花瑛塾第13次沖縄派遣団④(米海兵隊演習場「北部訓練場」前アピール)

 花瑛塾第13次沖縄派遣団は19日、米海兵隊演習場「北部訓練場」(東村・国頭村)メインゲート前にて、アピール行動を行いました。

 北部訓練場は正式名称を「ジャングル戦闘訓練センター」(キャンプ・ゴンザルベス)といい、ベトナム戦争が本格化するなかでジャングル戦闘演習の必要から1957年に開設されました。沖縄北部、いわゆる「やんばるの森」一帯の広大な敷地が演習場として設定され、沖縄県内最大の米軍演習場となっています。

 95年の米兵による少女暴行事件という痛ましい出来事の後の翌年、普天間飛行場の閉鎖・返還を中心とするSACO合意がなされましたが、そこにおいて北部訓練場の過半の返還と、残った敷地内に計7箇所(後に6箇所)のヘリパッドを建設することになりました。

 ここだけを切り取れば基地負担の軽減のように思えますが、新たに建設されるヘリパッドは東村高江集落を取り囲むように設定されていたため、高江集落の人々を中心に反対の声が高まりました。しかも、この頃には垂直離着陸機オスプレイの沖縄配備が現実化していたため、新たなヘリパッドではオスプレイが離着陸するのではないのかという懸念が募りました。

建設予定のヘリパッド【沖縄タイムス2016年8月30日】

 同時に、ヘリパッド建設とともに国頭村安波集落の宇嘉川河口とその接続水域が新たに米軍に提供されることになり、そこはヘリパッドと歩行訓練ルートや進入路で結ばれることになっていました。例えば、オスプレイでヘリパッドに着陸し、歩行訓練ルートを進んで宇嘉川河口に至り、接続水域から舟艇で海洋へ脱出する、あるいは舟艇もしくはオスプレイで宇嘉川河口に至り、歩行訓練ルートを進んでヘリパッドや演習場に至るという、陸海空一体となった非常に実践的な演習が可能となります。まさしくヘリパッド建設は、事実上の北部訓練場の基地機能の強化であったのです。

 さらに2007年、いわゆる北部訓練場N4地区における2箇所のヘリパッド建設から高江の人々を中心とした座り込み行動などが本格化しますが、これに対する沖縄防衛局の対応が非常に高圧的であり、8歳の子どもを「通行妨害者」として仮処分を申請するなど、住民感情を逆なですることになりました。

 そして2016年からN1地区、G地区、H地区で残り4箇所のヘリパッド建設が開始されましたが、沖縄県警は警察庁と密接な連絡のもと、暴力団「工藤会」対策のため全国から集められた警官隊と同規模の機動隊を高江に派遣し、暴力的な警備を展開しました。これについては長時間機動隊に足止めをうけた市民が訴訟を提起しており、警察活動の違法性が認定されています。工事もずさんかつ違法な突貫工事であり、ヘリパッドののり面の崩落や赤土の流出など多くの問題点が指摘されています。

 辺野古新基地にはヘリパッドが建設され、100機ともいわれるオスプレイが配備されるといわれています。辺野古を離陸したオスプレイが高江で演習を繰り広げる。こうした辺野古と一体化した運用・演習が行われ、騒音や墜落の危険性など住民の基地負担はこれから本格化します。昨年末には高江集落から数百メートルの牧草地で米海兵隊ヘリが炎上・大破する重大事故も発生しました。オスプレイはじめ軍用ヘリの離着陸や激しい演習により、ノグチゲラやヤンバルクイナなどやんばるの森の希少生物にも激しいダメージを与えるでしょう。さらにヘリパッド工事そのものが、多くの希少生物や環境に負荷をかけたに違いありません。

 さらに今夏にはN1表ゲートからN1裏ゲートを結ぶFルートの修繕工事が開始される予定となっており、東村議会がN4地区ヘリパッドの即時撤去を議決するなど、情勢はいまだ流動的です。まさに「高江は何も終わっていない」のであり、その旨を強く訴えました。

北部訓練場メインゲート前にてアピールする【撮影・画像提供:宮城秋乃さん】

23日放送予定 ETV特集「基地で働き 基地と闘う~沖縄 上原康助の苦悩~」

 今月23日(土)23時~0時、EテレにてETV特集「基地で働き 基地と闘う~沖縄 上原康助の苦悩~」 http://www4.nhk.or.jp/etv21c/ が放送予定とのこと。

 昭和7年に沖縄に生まれた上原康助は、軍雇用員として米軍基地で働く一方、基地労働者による労働組合「全軍労(全沖縄軍労働者組合連合会、後に全沖縄軍労働者組合)」を結成し、初代委員長として基地労働者を率い労働運動に取り組んだ人物である。そして昭和45年より瀬長亀次郎や国場幸昌らとともに沖縄選出の国会議員として衆議院議員を10期務め、北海道開発庁長官や沖縄開発庁長官を歴任し、昨年亡くなった。

復帰40年記念式典で挨拶する上原【朝日新聞2017年8月6日】

 全軍労は、昭和36年に基地労働者の組合の連合組織として出発し、同38年には組合員5800人を擁する単一労組となった。そして同45年頃には組合員2万人を誇り、官公労や沖縄教職員会をしのぐ巨大労働組合と発展していった。

 全軍労が巨大化する背景には、複数の種別の基地労働者を組織化したことがある。基地労働者には布令により第1から第4種までの種別があり、第1種は「米国政府割当資金から支払いを受ける直接被用者」、第2種が「米国政府非割当資金から支払いを受ける直接被用者」、第3種が「琉球列島米国要員の直接被用者」、そして第4種が「契約履行中の米国政府請負業者の被用者」となっている。全軍労は元来ここでいう第1種労働者の組合であったが、退職金制度の獲得など全軍労の運動が結果を出していくにつれ、第2種労働者の組合結成などが進み、全軍労が巨大化していったのである。

 こうした全軍労は同41年、米軍施政権下から脱却し、沖縄の「祖国復帰」を目指す「復帰協(祖国復帰協議会)」に加盟するが、米軍基地で働く労働者の組合として「祖国復帰」を標榜することには困難がつきまとった。さらに「基地撤去」を目指す復帰協の構成体としても、基地を存立基盤とする全軍労にとって「基地撤去」は簡単に主張できるものではなかった。しかし全軍労はその後、米軍による基地労働者の大量解雇反対闘争を展開するなかで、自ら「基地撤去」を掲げて闘争を展開するようになり、復帰協による祖国復帰闘争の主導的団体となっていくのである。

 米軍基地・日米安保・祖国復帰と複雑な状況に置かれた沖縄において、基地で働く者の基地と復帰に対するさらに複雑な思い。そんな彼らのリーダーである上原。

 上原の死後、58冊の未公開ノートが見つかり、そこには基地を命綱としながら基地撤去運動を闘った上原の心情が記されていたという。番組では、上原の人生を追いかけ、そして未公開ノートに記された上原の苦悩に光をあて、沖縄の苦悩に迫ることになるだろう。放映を楽しみにしたい。

平成30年6月17日 花瑛塾行動隊街頭行動

 花瑛塾行動隊は17日、防衛省・アメリカ大使館周辺にて新基地建設・日米地位協定はじめ日米安保体制の問題点を訴えました。

 現在、沖縄県名護市辺野古崎で進められている新基地建設では、護岸工事が一定の進捗を見せ、8月に土砂の投入が予定されています。一方で、埋め立て予定区域にサンゴの群体が確認され、さらにボーリング調査の結果、軟弱地盤の存在が明るみになるなど、辺野古新基地建設について沖縄防衛局には新たな対応が求められています。また沖縄県は埋め立て承認撤回や工事中止命令を検討するなど、新基地建設は重大な局面を迎えています。

辺野古新基地の工事進捗状況【沖縄タイムス2018年5月2日より】

 日米間の在日米軍基地の使用に関する合意を記した「5・15メモ」によると、在日米軍基地の使用は、沖縄側には何も知らされていないなかで、日米が秘密裏に取り決めていることが明るみとなっています。既に辺野古新基地は普天間飛行場の「移設」と称しつつも、滑走路のみならず強襲揚陸艦が接岸可能な規模の船舶の係留岸壁が付設され、さらに弾薬搭載エリアやヘリポートが設置されるなど、飛行場であり軍港でもある巨大海上軍事基地となることが指摘されています。その上で基地の使用方法が沖縄側に知らされず、もちろん意思決定に介在することもないまま日米で秘密裏に決められるのであれば、沖縄の基地負担はどれほどのものとなるでしょうか。

 こうした沖縄の過剰な基地負担の背景には、米軍の意志が優先される安保条約・地位協定という現状の日米安保体制にあり、辺野古新基地建設阻止とともに、その根本にある日米安保体制そのものを見直す必要があります。

 その後、首相官邸・自民党本部周辺にて、森友・加計問題と北朝鮮問題について訴えました。

 森友学園への国有地売却問題については、最近の国会審議によって、財務省・国交省間に安倍首相夫妻を守るため公文書を組織的に隠ぺいする意思を記した新たな文書の存在が発覚しています。安倍首相はみずからの言葉通り、自身と夫人の関与をもってこの問題の責任をとるべきです。さらに北朝鮮問題について、「対話は必要ない」「最大限の圧力」「国難突破」と世界でただ一人吹き上がり、世界各国に北朝鮮との「断交」まで求めたこれまでの安倍政権の対北朝鮮外交が一体わが国に何をもたらしたのか、安倍首相に真剣な総括を求めました。

首相官邸西側

花瑛塾第13次沖縄派遣団③(沖縄公文書館上映会、沖縄陸軍病院20号壕)

 花瑛塾第13次沖縄派遣団は16日、沖縄県公文書館(南風原町)にて開催された上映会vol.1「沖縄戦と「戦後」」に参加し、約80年前の沖縄を記録した短編ドキュメンタリー「沖縄」(製作:東京日日新聞社、大阪毎日新聞社)と米海兵隊の自国向け映画「Battle for Okinawa No.3 沖縄の戦い」を鑑賞しました。

県立公文書館

 短編ドキュメンタリー「沖縄」には「南の生命線は沖縄県人が担っている」「もっともっと私達は沖縄を知り、もっともっと沖縄に親しまなければならない」というナレーションがありました。その言葉は日琉同祖論や戦時体制という思想的あるいは時代的な注意が必要な言葉ですが、あえて文字通り受け止めたとすれば、沖縄のことを何も知らず心ない誹謗やデマを発信し続けている80年前のこれらの言葉とは真逆の現在の「本土」の状況に恥じ入りました。

 米海兵隊による映画「Battle for Okinawa No.3 沖縄の戦い」は、米軍の自国向けの戦意高揚の映画であり、日本軍の守備隊が強く苦戦したが、守備隊の一部は捕まえると意外に無力だったなどのナレーションがありました。米兵がカバン式爆弾や火炎放射器で一帯を焼き尽くし、最後に星条旗を掲揚するシーンには、戦争の無残さを感じました。なお、第3部「記録映画 人間の住んでいる島」は沖縄戦において激戦となり、また戦後には米軍飛行場が建設され、核兵器の模擬爆弾の投下訓練までも行われていた伊江島の記録を紹介するものでしたが、時間の関係で第3部は欠席しました。

 公文書館での上映会に引き続き、沖縄陸軍病院20号壕(南風原町)を見学しました。沖縄陸軍病院は昭和19年(1944)10月より那覇からこの地に移設され、なかでも20号壕は沖縄戦の陸軍病院第2外科として戦傷者の治療が行われました。医師や薬品はまったく足りておらず、軍病院の医療態勢は充分ではありませんでした。その上で戦争の激化により多くの戦傷者が送られてきたため、多くの患者が激痛の中でウジにまみれながら放置され、最後は家族の名前を呼び続け亡くなったそうです。

近年公開された20号壕内

 陸軍病院には沖縄師範学校女子部や県立第1高等女学校の女学生、いわゆる「ひめゆり学徒隊」が看護要員として配属され、空襲や艦砲射撃の間を縫って壕の外の炊事場から食事の釜を運ぶ「飯上げ」や水汲み、汚物の処理など治療の補助や患者の世話をしました。特に壕の外に出る「飯上げ」は危険であり、多くの女学生が命を落としました。

 沖縄戦後、下のモニュメントの奥のソウシジュの森で、病院壕付近一帯で戦死された人々を火葬したそうです。戦場となる前にひめゆり学徒隊が記念写真を撮ったといわれる場所に戦後建てられたこの平和の鐘のモニュメントは、両手をあわせ祈るように形作られており、今も戦死者を追悼し祈り続けています。

慰霊・平和の祈りのモニュメント

平成30年6月16日 9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼「明治150年」と関東大震災

 9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼「「明治150年」と関東大震災」(主催:9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会、歴史教育者協議会)に参加しました。

 第1部として、山田朗氏(明治大学)を講師として講演「「明治150年」と関東大震災ー朝鮮人虐殺を生み出したものー」を拝聴しました。第2部として、東京朝鮮中高級学校合唱部によるコーラスが披露されました。

 山田氏からは、関東大震災における朝鮮人虐殺の背景にあるものとして、明治以降の日本の朝鮮統治・蔑視という構造的な問題、つまりいわゆるアジアを対等の存在として見ない「脱亜入欧」的発想が指摘されました。

 また、改憲論の背景にある明治礼賛論という「改憲論=歴史認識問題」という提起や、戦後70年を迎えた「安倍談話」における日露戦争の美化・日中戦争の消去という危険な歴史認識について、日露戦争における英米の役割や財政的負担、その後の韓国併合など、日露戦争の真実についての解説を拝聴しました。

講演される山田朗氏

 関東大震災直後より流言飛語が発生し、朝鮮人・中国人・社会主義者・被差別部落出身者などが警察・軍隊・自警団によって虐殺されたことは、動かしがたい歴史の事実です。関東大震災の犠牲者を慰霊する東京都慰霊堂では、毎年、9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典が開催され、東京都知事による追悼文が送付されていましたが、昨年、小池百合子都知事は追悼文の送付を取りやめました

 こうした動きの中で、花瑛塾は昨年、東京都慰霊堂の朝鮮人犠牲者の碑はもちろん、被差別部落出身者が虐殺された「福田村事件」(千葉県野田市)の慰霊碑や中国人労働者らが虐殺された「東大島町事件」(東京都江東区)の事件現場を訪れ、慰霊・鎮魂の祈りを捧げましたが、この国の「保守」は自国の歴史から都合よく「逃亡」する悪癖があります。

昨年慰霊参拝した「関東大震災福田村事件犠牲者追悼慰霊碑」

 沖縄旅行の帰路、関東大人災が発生し、自身も自警団に誰何された天才的な国文学者・民俗学者・神道学者の折口信夫は、その後「砂けぶり」という長編詩を叙述し、そこで「おん身らは誰をころしたと思ふ。陛下のみ名においてー。」と日本人虐殺犯を非難しています(初出「砂けぶり」より)。歴史から逃亡し、都合よく歴史を修正するようでは、日本人はいつか同じ過ちを繰り返すことでしょう。

花瑛塾第13次沖縄派遣団②(旧海軍司令部壕)

 花瑛塾第13次沖縄派遣団は15日、旧海軍司令部壕(豊見城市)を見学・慰霊しました。

 沖縄戦を控えた昭和19年(1944)、沖縄に配備された海軍沖縄方面根拠地隊や設営隊、航空隊などの部隊は小禄飛行場(現:那覇空港)を建設し、付近の「火番森」(74高地)の地下に壕を構え、司令部としました。沖縄戦末期には、司令部壕付近の小禄地区は日米の激戦となりました。

司令部壕通路

 沖縄の海軍部隊は、大田実海軍中将が司令官として指揮しました。司令部壕はじめ飛行場、各陣地はツルハシやスコップ、モッコなどを用いほぼ人力で作られたといわれており、当時のツルハシが展示されていました。また沖縄戦末期、米軍に抵抗していた海軍部隊が追いつめられ司令部壕内に多数退却しましたが、それにより壕は立錐の余地なく、兵士たちは立って仮眠したそうです。

建設に使用されたツルハシ

 昭和20年6月13日午前1時、大田司令官は壕内で自決し、軍幹部も続きました。自決の手段に手榴弾が使われたといわれ、壁には手榴弾の爆破の衝撃でえぐれた状態となっています。他にも司令官室には大田司令官による「大君の御はたのもとにししてこそ人と生れし甲斐ぞありけり」との歌や、「醜米覆滅」などのスローガンが壁書されています。

大田司令官の壁書が残る司令官室

 戦後、沖縄の各戦跡は慰霊参拝・見学などで多数の旅行客が訪れましたが、特にこの旧海軍司令部壕は沖縄観光開発事業団(現:沖縄コンベンションビューロー)が旧司令部壕や周辺を整備・公開し、資料館なども併設され現在に至ります。司令部壕の地上は公園となっており、「海軍戦没者慰霊之塔」が建立されています。沖縄県知事よりの献花などもあり、手を合わせ軍民・日米すべての犠牲者を慰霊しました。

花瑛塾第13次沖縄派遣団①(南風原文化センター、平敷兼七ギャラリー)

 花瑛塾第13次沖縄派遣団は14日、第81回南風原文化センター(南風原町)を見学しました。

 南風原文化センターは古琉球からの南風原地区の歴史や沖縄戦に関する展示が行われています。同センターが沖縄陸軍病院南風原壕跡に建てられていることから、当時の陸軍病院壕なども再現され、詳細な展示がされています。南風原地区は住民の2人に1人が亡くなる沖縄戦の激戦地であり、砲弾が貫通した塀など生々しい展示もされており、衝撃的でした。

南風原文化センター

 沖縄戦を控えた昭和19年(1944)、陸軍病院は那覇に開設されましたが、同年10月のいわゆる10・10空襲で焼失し、南風原に移設されました。沖縄戦時には前線の野戦病院では対応できない多数の戦傷者・重傷者が南風原の陸軍病院に後送され、手術室では手足の切断など一晩に70〜100人もの手術が行われたといわれています。また多くの民間人、特に女学生が看護隊として陸軍病院に動員され、「ひめゆり学徒隊」など看護隊として治療・看護にあたりました。

 また同センターでは、企画展「海外に残る日本軍の足跡」が開催されていました。パラオ・インドネシア・シンガポール・中国・韓国・台湾など、アジア太平洋地域各地に残る日本軍の慰霊碑や記念碑、トーチカといった戦跡などが紹介されていました。

 その後、平敷兼七ギャラリー(浦添市)を訪れ、「平敷兼七二人展シリーズVol.9 渚:平敷兼七 小原佐和子 写真展」を見学しました。

 平敷は戦後沖縄を代表する写真家であり、米軍施政権下から現在に至るまで沖縄の人々を撮り続けました。平敷の代表作『山羊の肺』は今年5月に復刊されています。

平敷兼七ギャラリー

6・12米朝首脳会談を終えてー安倍政権はこれまでの対北朝鮮外交を総括し、新たな外交方針を打ち立てよー

 本日12日日本時間10時、シンガポール・セントーサ島カペラ・ホテルにおいて米国トランプ大統領と北朝鮮金委員長が対面、歴史的な米朝首脳会談が開催された。両首脳は挨拶の後、しばらく2人きりで会談を行い、その後に外相などが加わった拡大会合やワーキング・ランチなどが開かれ、合意文書の署名とトランプ大統領の記者会見が行われた。両首脳は当日中にシンガポールを出発し帰国の途についた。

史上初の首脳会談を行うトランプ大統領と金委員長【毎日新聞2018.6.12より】

 昭和25年(1950)の朝鮮戦争以来、紆余曲折あったとはいえ米朝関係は長らく敵対関係にあった。平成8年(1994)の北朝鮮の核危機においては、当時の米国クリントン大統領が北朝鮮へのミサイル攻撃を真剣に検討するなど切迫した事態ともなった。現在も朝鮮戦争はあくまで「休戦」であり、戦争は終わっておらず、両国は戦争状態にある。

 核・ミサイル開発など軍備増強やテロなど危険な国家犯罪を繰り返した金日成主席・金正日委員長の死去後、北朝鮮の政権を掌握した金正恩委員長も核開発を強行し、ミサイル発射実験を繰り返した。こうした北朝鮮の軍備増強・軍事的挑発により、昨年末には米朝が一触即発の状態となり、日本でも北朝鮮危機という「国難突破」を大義名分とした解散総選挙が行われ、地上イージスなど米国製兵器の大量購入・配備が行われた。

 しかし、トランプ政権で外交を担当したティラーソン前国務長官は北朝鮮との対話を追及し、韓国・文在寅大統領も厳しい情勢の中で平昌オリンピックなどを利用しつつ南北対話の糸口を探った。こうした対話の追及が板門店で行われた今年4月27日の歴史的な南北首脳会談へつながり、さらに史上初の米朝首脳会談の実現に至ったことはいうまでもない。

 今回の米朝首脳会談によって北朝鮮の体制保証と朝鮮半島の非核化が合意された。その上で、①米朝の両国民が平和と繁栄を望んでいることに従って、新しい米朝関係を構築する、②朝鮮半島に永続的で安定的な平和体制を構築するためともに努力する、③北朝鮮が朝鮮半島を完全に非核化するために取り組むとした、3月27日の板門店宣言を再確認する、④米朝はすでに身元確認されたものを含め、戦争捕虜や行方不明兵の遺骨の回収に尽力する、の4点が確認され、トランプ大統領は非核化に向けた「プロセスの始まり」を明言し、さらに再度の米朝首脳会談実施にも触れた。

昨年9月、北朝鮮による核実験・ミサイル発射に関連し、朝鮮総連本部周辺にて抗議する花瑛塾行動隊

 花瑛塾はけして現在の北朝鮮の体制を是とするものではない。北朝鮮による度重なる安保理決議違反の核実験やミサイル発射、あるいは国内における惨たらしい政敵の粛清や国民の窮乏や人権侵害などは許されるものではなく、また日本人拉致事件という重大な国家犯罪は絶対にうやむやにすることはできない。

 一方で、北朝鮮と一切の対話を拒み、軍事的・外交的威嚇や圧力を続けたとしても、何も得るものはない。米国オバマ政権は「戦略的忍耐」を掲げ対話を拒んだが、それは北朝鮮の核・ミサイル開発を阻止することはできなかった。トランプ大統領は当初、北朝鮮の軍事的挑発にのり、軍用機や航空母艦を朝鮮半島に差し向けるなどしたが、それは「軍事対軍事」の緊張関係を生むだけのものであり、最悪の事態を誘発するものでしかなかった。

 花瑛塾は米朝関係が緊張し、東アジアが緊迫した情勢となった昨年後半より、重ねて北朝鮮に軍事的挑発の自制を求め、国連決議違反を戒めたが、同時に米国にあくまで対話を追及し、北朝鮮への対抗的な軍事的・外交的威嚇をただちに中止し、「軍事対軍事」の構図を絶対に避けるよう求めた。そして安倍政権にも危険かつ無意味な対北朝鮮強硬外交をただちに取り止め、米朝対話の架け橋となるよう北朝鮮との対話の模索を求めた。

 そうした花瑛塾の行動は、対北朝鮮強硬論が吹き荒れた昨年の時点では逆風も強かったが、いまや国際情勢は上述のように対話が追及され、昨年では考えられないような雰囲気となり、歴史的な南北首脳会談・米朝首脳会談が行われ、少なくとも一時の緊張状態を避けることができた。さらに今回の米朝首脳会談によって、北朝鮮の非核化は第一歩を踏み出したのであり、朝鮮戦争の終結、朝鮮半島そして東アジアに平和が到来する大きなきっかけとなった。約70年にも渡り戦争状態にあった米朝であり、そう簡単には非核化や戦争終結が実現されることはないであろう。しかし、それは平和の到来を諦める理由にはならず、その不可能を示すものではない。

 そして安倍首相は、北朝鮮の「脅威」を煽りに煽り、「国難」「危機」を言い募り、衆議院の解散までやってのけた。そして世界各国に北朝鮮との断交をすすめ、「対話は必要ない」とまで国連で演説し、「最大限の圧力」なる言葉を繰り返す危険かつ無意味な対北朝鮮外交を展開し続けたのである。

 結果として、各国の外交当局による対話の努力が実り、対話路線が進展すると、安倍首相は「圧力が効いた」「私が司令塔」などと図々しくも放言し、北朝鮮との外交交渉に乗り遅れた事実に向き合わず、トランプ大統領に拉致事件を北朝鮮へ提起するよう哀願するような状態に陥っている。

昨年9月「必要なのは対話ではない」と各国に向けて国連で演説する安倍【朝日新聞2017.9.21より】

 安倍首相は、自身が行ってきたこの1年の対北朝鮮外交がはたして妥当であったのか、いまこそ総括するべきである。安倍首相は現在の北朝鮮を取り巻く国際情勢を予期した上で、それが実現するために「圧力」を言い募り、「対話は必要ない」とまで言い放ったのだろうか。それは絶対に否である。まさしく場当たり的な外交であり、北朝鮮の「脅威」を煽ることにより国内的な政治的求心力を高め、国民の目を海外に逸らそうとしていたとしか考えられない。北朝鮮の「脅威」は本当に存在したのか、「圧力」に意味はあったのか、日本が各国の北朝鮮外交を主導したのか、現在の北朝鮮外交にどのような失点をもたらしたのか、よく振り返るべきである。

 そして日朝間の懸案事項である日本人拉致事件の解決のため、安倍政権は日朝首脳会談を行い、被害者の帰国に向けて努力をするべきである。「圧力」に意味はない。4年前のストックホルム合意とこれに基づく北朝鮮の再調査を受け入れなかったことについて、安倍首相は真摯な説明をするべきである。さらに小泉政権時、拉致事件被害者の北朝鮮への帰国を拒否したことについても、どのような外交的判断があり、その結果対北朝鮮外交にどのような影響を与えたのかについても、疑惑に答える必要がある。そもそも「拉致を使ってのし上がった男」との評価がある安倍首相は、本気で拉致事件の解決に取り組んだことがあるのか、自身の言葉で思いを述べるべきだ。

 安倍首相の危険かつ無意味な対北朝鮮外交により日本の国際的な信用は大きく毀損し、対北朝鮮外交は遅れを取り、拉致被害者の帰国は日一日と難しくなっているが、悔いている暇はない。強気な言葉を無意味に叫ぶことによって外交に失敗したのであれば、いまこそ北朝鮮と向き合い、事態打開のために虚心坦懐に話し合うべきだ。安倍首相はこれまでの外交の失敗を総括し、その反省の中から新たな外交方針を打ち立て、取りえる次の一手を速やかにうつべきである。

平成30年6月2日 在日韓人歴史資料館 第108回土曜セミナー「在日朝鮮人留学生の民族運動」(講師:小野容照氏)

 在日韓人歴史資料館第108回土曜セミナーを聴講しました。講師は小野容照氏(九州大学)、テーマは「在日朝鮮人留学生の民族運動」として、戦前の在日朝鮮人留学生の民族運動・独立運動について解説をいただきました。

 日朝修好条規(1876年)から韓国併合(1910年)、そして2・8独立宣言や3・1独立運動(1919年)までにおいて、福沢諭吉の斡旋などもあり、朝鮮半島から多くの留学生が日本内地を訪れ、早稲田大学や慶応大学など各大学で学びました。

 彼ら留学生が日本に留学する理由は様々ありますが、大きな理由としては朝鮮半島では日本統治の下で高等教育が充分に行われなかったことと、日本側は朝鮮の近代化と情報獲得などのため留学生を招いたということがあげられます。

 そうした在日朝鮮人留学生は、特に韓国併合までの間、「愛国啓蒙運動」といわれる救国運動を展開し、日本から近代文明を学び、朝鮮半島に導入し、朝鮮の実力を蓄えた後の国権回復を目指しました。さらに韓国併合後の武断政治の下では、日本国内で出版活動やスポーツを軸とした民族運動・独立運動を展開するとともに、「対華二十一ヵ条の要求」(1915年)以降の中国は「第2の朝鮮」ともいわれており、朝鮮人留学生は中国人活動家とも結び、独立運動を展開しました。

 第1次大戦後のパリ講和会議(1918年)では「民族自決」が議題となり、朝鮮民族の独立・自決への期待感から李承晩や呂運享が講和会議参加を画策しましたが、ここにも中国人活動家の支援が存在します。なお、上海でパリ講和会議への参加を目指した呂運享は、戦後の神社本庁設立に関わり、神社新報で健筆を振るった葦津珍彦とも交流があった人物です。

 また、朝鮮人留学生が発行した雑誌『大韓興学報』の印刷は現在の大日本印刷(DNP)が行いましたが、韓国併合により同誌は廃刊となりました。その後、福音印刷合資会社による印刷で留学生による雑誌『学之光』が発行されますが、この福音印刷合資会社はNHKドラマ「花子とアン」に登場する村岡平吉による「村岡印刷」のモデルとなっています。

 福音印刷は文字通り聖書の印刷のため各国の言語の活字を所有しており、そのためハングルでの留学生雑誌の印刷ができたといわれており、村岡自身も息子たちをミッション系の明治学院大学に入学させ、さらに朝鮮人留学生も明治学院大学にやってくるなど、様々な交流がありました。

 1919年2・8独立宣言や3・1独立運動から来年で100年。彼ら在日朝鮮人留学生の動向を知るなかで、日本の朝鮮半島政策の過去を振り返り、今後の良好な日朝関係構築につなげていきたいと思います。

講師の小野容照氏(スクリーンに映るのは朝鮮人留学生による初の雑誌『親睦会会報』)