令和3年5月15日 五・一五事件89年 犬養毅・田中五郎墓参

 五・一五事件より89年のこの日、事件実行犯の海軍青年将校三上卓、黒岩勇、山岸宏らによって殺害された犬養毅元首相の墓所(青山霊園)と、同じく三上によって殺害された犬養の護衛役の警視庁田中五郎巡査の墓所(多摩霊園)をお参りしました。

「犬養毅之墓」

 犬養は多年、政策型の政治家として存在感を発揮し、革新倶楽部など少数政党ながらも党領袖として国政に関わっていました。護憲運動における桂太郎内閣攻撃など、その政治的な攻撃や追及は時にすさまじいものがあり、政友会総裁として臨んだロンドン軍縮条約をめぐる政局においても浜口雄幸内閣を激しく追及し揺さぶりました。

 一方で犬養は、頭山満と並び当時の大陸浪人たちのいわば「総元締」ともいえるような人物であり、中国革命を支援し、孫文の日本亡命の最大の支援者となるなど、中国人革命家と結ぶアジア主義者でもありました。孫文逝去の折には、頭山らとともに訪中し「祭文」を読み上げ弔意を示している他、その際には蒋介石とも親しく通じました。それ以外にもインドのビハリ・ボースやホーチミンに思想的影響を与えたベトナムのファンボイチャウらと交わったことも知られています。

 こうした犬養の事績は、あまり知られていないのが実情です。犬養が「満州国」の承認をためらったり、軍縮を求め軍部と対立傾向にあったことなどは、今こそもっとよく知られるべきことではないでしょうか。

 犬養を殺害した青年将校らも犬養を畏敬しており、犬養への個人的な怨みは全くなかったと述べています。三上は戦後、犬養や護衛役の田中も含め、事件関係者の慰霊祭をおこなっていますが、そこで三上は、

「時の宰相は犬養木堂翁、老骨をささげて何物にも屈せず、救国済民の一念に生きる憲政護持の尊い先駆者でありました。この尊き老宰相に対して、いささかの憎しみも憤りもなく、その故にこそただやむにやまれぬ、昭和維新の尊き人柱たれかしと乞い求めたのは私共でした」

「最も忠実に命もて官邸護衛の任務を果された田中五郎の命のたふとき犠牲をおろがみまつったのも私共でした」

と述べています。

「田中五郎之墓」

 実際、青年将校らの計画は犬養の首相就任前から存在したものであり、事件当時も「君側の奸」といわれていた牧野伸顕内大臣や警視庁など犬養とは直接関係のない襲撃がおこなわれていることからも、三上らの狙いは犬養個人ではなく、政党政治や特権階級を狙うなかでのある種の象徴として犬養襲撃があったといえます。

 犬養は三上に銃を突きつけられながらも「話せばわかる」「話を聞こう」と繰り返したといわれています。それはけして命乞いの言葉でなく犬養の本心であったことは、犬養が三上らに撃たれた後も「あの若者を呼んでこい、話せばわかる」と繰り返したことからも明らかです。

 三上は「話せばわかる」「話を聞こう」という犬養の言葉に触れ、犬養の最期の言葉を聞き届けてもよいかと思ったともいわれていますが、後世において事件に関連する青年将校らの意志の継承を思う人々ならば、無念にも倒れた犬養が最期に三上に何を伝えたかったのか、犬養を畏敬し犬養の最期の言葉を聞き届けようとも思った三上にかわって感じ取るためにも、まずは犬養という人物の事績を学び、その人を知る必要があり、それでこそ五・一五事件の歴史的な継承と顕彰につながるのではないでしょうか。

令和2年5月15日 五・一五事件88年 犬養毅・頭山満墓参

令和元年5月15日 五・一五事件87年 犬養毅・頭山満墓参

令和3年5月15日 オンライン講演会2「資料館開館にむけての明治大学の取り組み」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

 明治大学平和教育登戸研究所資料館第11回企画展「極秘機関『陸軍登戸研究所』はこうして明らかになった─登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ─」のオンライン講演会の第2回「資料館開館にむけての明治大学の取り組み」(講師:山田朗館長、明治大学文学部教授)を視聴、学習しました。

 現在の明治大学生田キャンパスとなっている陸軍登戸研究所では、「秘密戦」といわれる日本軍の特殊作戦のための兵器開発や諜報・謀略などに関する研究がおこなわれていました。具体的には電波兵器やレーダーの開発、あるいは大陸戦線での軍費確保や国民党政権の混乱のための偽札製造、アメリカ大陸を直接爆撃するための風船爆弾の開発、諜報要員のための盗聴器などの謀略資材の研究開発、はては毒物や薬物、細菌兵器などの研究開発がおこなわれていました。

 第1回のオンライン講演会では、登戸研究所資料館展示専門委員の渡辺賢二さんを講師とし、戦後長らく闇に埋もれてしまった登戸研究所に関連する証言や資料の掘り起こしと実態解明について、資料館として結実していくまでの地域の人々や関係者の取り組みについて伺いました。

 今回は、明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長で、明治大学で日本近現代史を専門とされる山田朗さんを講師とし、昭和25年に明治大学が登戸研究所跡地を購入して以降、大学としてどのように登戸研究所の歴史的検証や跡地の活用をしてきたか、平和教育や理化学教育の面から登戸研究所をどう位置づけてきたのかなどを伺いました。

 生田キャンパスの整備により登戸研究所の遺構はほとんど姿を消していきましたが、市民や明大生、あるいは明大教職員による調査研究、保存の声が高まるなかで、平成7年以降明治大学内で登戸研究所の調査研究が始まります。途中、明治大学の学生自治会や生協などに関連する極左セクトの問題をうけて調査研究、保存の動きが停滞することもありましたが、平成22年に現存していた登戸研究所36号棟を改装するかたちで明治大学平和教育登研研究所資料館が開館し、現在に至ります。

 山田館長によると、登戸研究所の調査研究、保存、そして資料館として開館の動きが進むにつれ、登戸研究所の関係者が「これでようやく過去のことを話していいんですね」といったそうですが、戦後何十年と人々に口を閉ざさせ、記憶を封印させ続けた戦争と軍隊というものの重みを感じることができました。

 次回は8月7日より同じく山田館長を講師とし「帝銀事件と日本の秘密戦:捜査過程で判明した日本軍の実態」との講演があるそうです。詳しくは登戸研究所資料館のホームページよりご確認下さい。

令和3年3月20日 オンライン講演会「登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

令和3年4月28日 富岡八幡宮「天皇陛下御野立所」

 昭和の日を前に、富岡八幡宮(東京都江東区富岡)の境内にある「天皇陛下御野立所」をお訪れました。

昭和天皇は画像右側の灯篭の近くに立たれたといわれる 後ろに建つのが御野立所の碑

 昭和20年3月10日、富岡八幡宮のある江東区や墨田区など東京の下町地区一帯が米軍の空襲をうけました。東京大空襲です。その約一週間後の18日、昭和天皇は下町地区を自動車で巡幸し、被害状況を視察しました。その際、富岡八幡宮の境内で内務大臣より被害状況について上奏をうけました。その場所に現在「天皇陛下御野立所」の記念碑が建っています。

 東京大空襲により富岡八幡宮本殿も焼け落ち、無惨な痛ましい姿となったといわれています。幸いにも摂末社は無事でしたが、空襲の影響で摂末社の鳥居の上部が破損しているところをみると、その被害の甚大さが伝わってきます。

 ところで昭和天皇の東京大空襲戦災地巡幸は、きわめて異例の巡幸であったといわれています。すなわち東京大空襲からわずか約一週間後、戦災の傷の全く癒えていないなかでの巡幸であり、通例の巡幸ではなく人員や車両、警備などを最低限にし、「総てを簡約のものとなすの趣旨」で簡素略式を旨に実施されました。

 戦災地をみずから視察した昭和天皇は、焦土と化した東京に衝撃をうけたようであり、関東大震災と比較し、「あの頃は焼け跡といっても、大きな建物が少なかったせいだろうが、それほどむごたらしく感じなかったが、今度はビルの焼け跡などが多くて一段と胸が痛む。侍従長、これで東京も焦土になったね」と藤田侍従長に語りかけたといわれています。

 巡幸に供奉した木戸内大臣も感慨ひとしおだったようで、この日の日記に「一望涯々たる焼野原、真に感無量なるものあり、此灰の中より新日本の生れ出でんことを心に祈念す」と記しているそうです。

戦災地巡幸を伝える当時の新聞

 こうして昭和天皇にも大きな衝撃をもたらした戦災地巡幸ですが、それをもって戦争が終わるということはありませんでした。経済人で衆議院議員も務めた渡辺銕蔵などは、昭和天皇の東京大空襲戦災地巡幸の報に接し、これで一両日中に戦争は停戦となると確信していたといいますが、その確信は裏切られ、戦争が終わるにはなお5ヶ月の時間と多大な犠牲を必要としました。

 また巡幸に関する資料によると、巡幸の沿道では防疫措置がおこなわれたそうです。資料には「不潔箇所ニ対シテハ本日迄七日間ニ亘リ〔中略〕反復消毒ヲ実行セリ」とあり、防疫措置の徹底がうかがえます。実際、昭和天皇の巡幸が決定したことにより遺体の処理も急速に進められ、仮埋葬として公園や社寺境内に穴を掘り、そこに埋められるなどの出来事もあったといいます。

 歴史には様々な面があり、東京大空襲戦災地巡幸という昭和天皇の御事績一つをみても多くのことが考えられますが、その全てから目をそらさずしっかりとうけとめ、木戸内大臣の「此灰の中より新日本の生れ出でんことを心に祈念す」の言葉どおり歩み出す決意をもって、明日の昭和の日を迎えたいと思います。

富岡八幡宮の合末社の鳥居 上部が破損している

令和3年4月20日 大洗磯前神社、東光山護国寺(茨城県大洗町)

 茨城県大洗町の大洗磯前神社を参拝しました。

大洗磯前神社二の鳥居 有名な磯の鳥居は二の鳥居の先にある

 『文徳天皇実録』によると斉衡3年(856)、常陸国の海岸で夜半、海上に光る物があり、その後に怪石が出現しました。そして大己貴命、少彦名命の二神が降臨されたとの託宣も下されたことから、大洗の地に二神を祭ったのが同社の起源といわれています。

 古来には官社、名神大社にも列せられましたが、時が下って兵乱により荒廃しました。そこで水戸光圀公が同社の再建を思し召し、享保15年(1730)に現在の地に遷座しました。

 薬の神、大漁成就や醸造の守護神として「大洗さま」の名で地域で崇敬されている他、近年は大洗がアニメ「ガールズ&パンツァー」の舞台の地であることから、アニメゆかりの参拝者も多いとのことです。

 その後、大洗磯前神社から数百メートル先の東光山護国寺をお参りしました。

護国寺本堂と井上日召像と三重塔

 同寺はもともと立正護国堂として、宮内大臣などを務めた田中光顕と実業家の竹内勇之助により公開された常陽明治記念館(現在の大洗町幕末と明治の博物館)の近隣に竹内らによって建立されました。

 その後、日蓮主義や禅などに打ち込んでいた井上日召(井上昭)が田中の秘書である高井徳次郎との関係から護国堂に招かれ、日召は護国堂に住み込みつつ青年を指導し、維新運動、国家改造運動に取り組み、後に血盟団事件に発展していきます。

 境内には井上日召の像や血盟団に関係し服役した菱沼五郎(後に小幡五朗の名で茨城県議なども務める)による三重塔などがあります。

令和3年4月19日 「児玉家累代之墓」墓参

 「児玉家累代之墓」(福島県本宮市)をお参りしました。

児玉家累代之墓

 児玉誉士夫氏は明治44年に現在の福島県本宮市で生まれましたが、児玉氏の故郷に建つ「児玉家累代之墓」は、二本松藩の藩士の流れを汲む山田家の出身である児玉氏の父酉四郎(後に児玉家に養子に入り、児玉酉四郎となる)はじめ児玉家累代の一族がねむる墓所です。

 現在のお墓は児玉氏が昭和47年、酉四郎氏の五十回忌にあたり建て直したもので、児玉氏の遺骨も池上本門寺の児玉家の墓所とこちらの墓に分骨されています。

 「児玉家累代之墓」は安達太良山を背にし、阿武隈川を睥睨する小高い丘に建っています。

 児玉氏は生前よく故郷の話をし、東京で雪が降れば「安達太良山はもう雪で真っ白だろう」などと話していたそうですが、池上本門寺の墓所で大野伴睦氏や町井久之氏、力道山など生前深く交わった人たちとともに児玉氏が主戦場とした東京の地で眠りながらも、一方では故郷の自然のただなかで親族の者たちと眠るというのは、児玉氏らしい最期のあり方だと感じました。

令和3年1月16日 「児玉家之墓」墓参

東電福島原発の汚染水海洋放出の決定に抗議し撤回を求める(令和3年4月13日)

海洋放出の方針決定

 政府は関係閣僚会議において、東京電力福島第一原子力発電所の汚染水について、海洋放出する方針を決定した。

 海洋放出の方針決定に強く抗議し、撤回を求める。

福島第一原発と汚染水貯蔵タンク(朝日新聞2019.3.19)

 汚染水はこれまで、福島第一原発構内に設置されたタンクに貯蔵され、陸上保管が続けられてきた。

 汚染水は日々大量に発生しているため貯蔵タンクは次々に増設されているが、構内のスペースの関係上、まもなく陸上保管は限界を迎えるといわれている。

 そこで考えられたのが汚染水の海洋放出だ。

 汚染水は地下水や冷却水が事故により溶け落ちた核燃料(デブリ)と触れることで発生し、様々な放射性物質を含んでいる。そのため、そのままでは海洋放出できないので、汚染水をALPSといわれる施設で処理し、トリチウム以外の放射性物質の濃度を基準値以下まで低下させ、さらにトリチウムを国の基準値(60,000Bq/L)の40分の1(1,500Bq/L)まで希釈し、海洋放出するというのである。

海洋放出の問題点

 しかし、その実態は問題だらけだ。

 汚染水をALPSで処理し、トリチウム以外の放射性物質の濃度を基準値以下まで低下させるというが、実際にはALPS処理済の汚染水にトリチウム以外の放射性物質が基準値以上の濃度で残っており、海洋放出の前提は根本的に破たんしている。

 海洋放出にあたりALPS処理済の汚染水を二次処理し、あらためてトリチウム以外の放射性物質の濃度を低下させるというが、二次処理の技術も完全とはいえない。

 仮にトリチウム以外の放射性物質の濃度を低下させたとしても、トリチウムを海洋放出していいのかという問題もある。

 海外の原発でもトリチウムを含む水を海洋放出しているというが、通常稼働している原発と前代未聞の事故を起こした原発を単純に比較することはできない。

 また、海洋放出にあたり、汚染水のトリチウムを国の基準値の40分の1まで希釈するというが、それはトリチウムについての値であって、汚染水に含まれる他の放射性物質の濃度はどうなのか、汚染水全体としての濃度はどうなのか、明確な説明はない。

水産漁業者の苦しみ

 福島県はじめ三陸沖の水産漁業者の被害も深刻だ。

海洋放出に反対する福島県漁連会長(KFB福島放送2021.4.7)

 政府は風評被害について対策をするというが、汚染水の海洋放出は水産漁業者にとって風評被害を越えた実害であり、ある種の暴力ともいえる。

 海洋放出は一度で終わらず、濃度の問題から20年から30年、40年と延々と続く。そもそもデブリの取り出しが完了しなければ汚染水はいつまでも発生するのであり、極端にいえば100年先でも汚染水が発生し海洋放出が行われている可能性もある。その間、水産漁業者の苦しみに終わりはない。

 いうまでもなく海は一つにつながっており、アジア太平洋諸国はもちろん世界中に被害をおよぼす可能性もある。

 被害は人間ばかりでない。海洋生物はじめ各種の動植物にも大きな影響を与えることも十分に考えられる。考え直すべきだ。

陸上保管の継続を

 汚染水はひとまず陸上保管を継続する他ない。大型タンクの設置やモルタル固化など、陸上保管のための様々な方途を真剣に検討し、最善の策を選ぼう。

 また、そもそも汚染水を発生させないよう、地下水の遮断や冷却方法の見直しなど根本的な対策も必要である。

 人間は全知全能の持ち主ではなく、人間の技術は自然を「アンダーコントロール」できるようなものではない。「原発事故は絶対に起きない」などと驕った人間に突きつけられた自然の猛威とそれによる原発事故。あれからわずか10年で再び「海洋放出は絶対安全だ」などという愚かしき「アンダーコントロール」の思想に立ち返ってはならない。

 海洋放出に反対することを非科学的という向きもあるが、それは違う。むしろ疑問が呈される技術を妄信し、批判の声に耳を傾けず海洋放出に突き進む姿勢こそ非科学的だ。

 人間の知や技術には限界があるという謙虚な人間観に基づきながら、少しでも安全な技術を追求し、無謀な道を回避しながら知見を深め、多くの人々の幸福に寄与するのが人間らしい科学のあり方ではないだろうか。

 あらためて汚染水の海洋放出の方針決定に抗議し、撤回を求める。

令和3年3月23日 映画「生きろ 島田叡─戦中最後の沖縄県知事」(佐古忠彦監督)

 ユーロスペース(渋谷)で公開中の映画「生きろ 島田叡─戦中最後の沖縄県知事」(佐古忠彦監督)を鑑賞しました。

 映画では、昭和20年1月、凄惨な地上戦が始まる直前に沖縄に県知事として赴任した島田叡を取り上げ、「軍官民共生共死の一体化」を訴える日本軍に協力し、県民にも決起戦闘を訴える一方で、県民の食料確保や疎開の実施に努め、知事として自身の責任は最後まで軍と運命をともにし死を以て全うしようと考えながら、戦闘下にあって部下や県民には生き延びるよう語りかけ、戦闘終結後の沖縄再建を託すなど、軍の方針との矛盾に悩み、知事という職務と開明的で進歩的な個人としての人間性の相克に苦しみつつも決断を下していく島田知事の姿が描かれていました。

 島田知事については、これまで諸作品で前任の知事である泉守紀が軍に迎合しながらも沖縄を見捨てて逃げたように描かれ、それと対照的に滅私奉公で尽くした人格高潔な人物として位置づけられてきましたが、一方で島田知事が軍に協力し、鉄血勤皇隊の編成などで県民を戦闘に動員したことは事実であるとして、今なおその評価は定まっていませんが、そうしたなかで勇気をもって島田知事を正面から取り上げ、公務と個人としての葛藤などその内面に迫り、証言をまとめたり新しい資料を発見することによって歴史的に位置づけなおした素晴らしい作品かと思います。

 なお佐古監督はTBSのアナウンサーや記者を務め、過去に映画「米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー」なども制作しています。

映画「生きろ 島田叡─戦中最後の沖縄県知事」公式サイト

平成29年9月6日 映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』

映画『米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー』(監督:佐古忠彦氏)

令和3年3月20日 オンライン講演会「登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

 明治大学平和教育登戸研究所資料館第11回企画展「極秘機関『陸軍登戸研究所』はこうして明らかになった─登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ─」のオンライン講演会「登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ」(講師:渡辺賢二さん、登戸研究所資料館展示専門委員)を視聴、学習しました。

オンライン講演会(ウェビナー画面) 右上は講師の渡辺さん

 現在の明治大学生田キャンパスとなっている陸軍登戸研究所では、特殊作戦のための兵器開発や諜報・謀略など秘密戦に関する研究がおこなわれていました。具体的には電波兵器やレーダーの開発、あるいは大陸戦線での軍費確保や国民党政権の混乱のための偽札製造、アメリカ大陸を直接爆撃するための風船爆弾の開発、諜報要員のための盗聴器などの謀略資材の研究開発、はては毒物や薬物、細菌兵器などの研究開発がおこなわれていました。

 そのため終戦時の登戸研究所の解散にあたっては、書類や資材などの証拠隠滅がおこなわれました。職員など関係者たちにも戦後、暗黙裡で秘密保持が求められたため、彼らは戦前戦中の研究所での出来事を語ろうとはしませんでした。また関係者たちは占領してきた米軍に尋問されることもありましたが、731部隊と同様、資料や情報を提供することにより戦犯訴追を免れるとともに、それにより公職に就いたり米軍関係の仕事に就くこともあったため、関係者たちはなおのこと登戸研究所で何があったかについて口を閉ざしました。こうして登戸研究所は戦後、その実態がほとんどわからない状態でした。

 しかし登戸研究所のあった川崎市における平和教育の高まりや関係者の心情の変化のなかで、高校生が主体となって関係者との対話が試みられ、関係者による資料の提供や体験談の継承の動きがあり、明治大学への働きかけにより施設の保存や資料館の設置などが進められました。

 講師の渡辺さんよりそうした登戸研究所の歴史とこれまでの歩みを伺いました。次回のオンライン講演会は5月15日より、山田朗さん(明治大学教授)を講師として開催されます。ぜひご視聴下さい。

明治大学平和教育登戸研究所資料館第11回企画展「極秘機関「陸軍登戸研究所」はこうして明らかになった-登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ-」

令和3年3月17日 「海の帝国琉球─八重山・宮古・奄美からみた中世─」(国立歴史民俗博物館特集展示)

 国立歴史民俗博物館の特集展示「海の帝国琉球─八重山・宮古・奄美からみた中世─」を見学しました。

 八重山諸島と宮古諸島は、現在の沖縄県の一部であり、近世以降は琉球王国の領域でもありましたが、中世の八重山・宮古には、例えばサンゴの石を積んで囲った沖縄島では見られない独特の集落があったり、そこから沖縄島ではあまり見ないタイプの中国製の陶磁器が見つかり、中国との直接交易があったことを伺わせるなど、中世の八重山・宮古は言語や習俗、交易などにおいて沖縄島とは異なる独自の文化圏であったと考えられます。

 また中世の日本の地図は八重山・宮古について詳細に記していませんが、アジアに進出してきたヨーロッパ人の地図には、八重山・宮古についても記されており、そうした地図からは八重山・宮古が南に向かって開かれた地であることを示しています。

 また奄美も近世において琉球王国の領域に組み込まれますが、中世においては独自の地域であり、都の貴族たちにとってはある種の「外国」でしたが、鎌倉幕府の御家人で後に北条氏の得宗被官としてこの地を所領とした千竃氏の書状を見るとそこには明確に「内」の意識があったりと、境界領域が奄美であったということができます。

 こうした遺跡や出土品、地図、文書、絵画などの中世の八重山・宮古・奄美をめぐる資料から、琉球・沖縄そして日本と世界の歴史に思いを馳せました。

 特集展示「海の帝国琉球─八重山・宮古・奄美からみた中世─」の展示期間は、3月16日から5月9日までとなっています。途中、展示替えなどもあるようです。ぜひご見学下さい。

歴博特集展示「海の帝国琉球─八重山・宮古・奄美からみた中世─」

【東京大空襲76年】東京大空襲76周年 第15回朝鮮人犠牲者追悼会(東京大空襲朝鮮人犠牲者を追悼する会)

 東京大空襲から76年、東京都慰霊堂において東京大空襲76周年 第15回朝鮮人犠牲者追悼会(主催:東京大空襲朝鮮人犠牲者を追悼する会)が営まれ、東京大空襲で犠牲となった朝鮮半島出身者を慰霊追悼するため参列し、黙とう献花しました。

 東京大空襲では、様々な理由で日本に来ていた、あるいは強制動員により日本に連れられてきた朝鮮半島出身者も被害にあい、約1万人の朝鮮半島出身者が犠牲となり、負傷者は約4万人にのぼるといわれています。

 東京都慰霊堂には東京大空襲で犠牲となった人々の遺骨が安置されていますが、犠牲となった朝鮮半島出身者の遺骨も安置されており、毎年朝鮮半島出身者の犠牲者を慰霊追悼するため追悼会が開催されています。

 東京大空襲についてはいろいろな人が語り継ぎ、また各種の研究がなされ、平和学習などにおいても題材とされていますが、そこにおける朝鮮半島出身者の犠牲や被害についてはほとんど語られず、詳細な検証などもなされていません。広島・長崎への原爆投下と朝鮮半島出身者の被爆の体験についても同様のことがいえますが、それはあまりにも冷酷でむごい仕打ちです。

 東京大空襲における朝鮮出身者の犠牲や被害、その後の遺骨の奉還などについての研究は、李一満氏の論文「東京大空襲と朝鮮人」(『季刊戦争責任研究』第53号)が唯一まとまったものとしてある程度といえます。李氏は論文において、朝鮮出身者が渡日した背景や状況、朝鮮出身者の空襲被害に関する証言や体験談をまとめるとともに、公文書や東京都慰霊堂の資料などから朝鮮出身者の被害と犠牲、その後の遺骨の安置や引き渡しの現状などを分析しています。

 こうした東京大空襲における朝鮮半島出身者の犠牲についてもしっかりと語り継ぎ、さらなる検討や研究を進め、遺骨の引き渡しなども含め慰霊追悼していくべきです。

 また民間人をあえて狙い東京の下町地区に焼夷弾を投下した米軍の空襲は許されざる蛮行ですが、米軍の空襲の火の中には強制動員により連れてこられた朝鮮半島出身者が多数いたという日本の非道もまた許されるものではありません。そうした被害と加害の双方の歴史を忘れてはなりません。

【東京大空襲76年】東京大空襲・城北大空襲犠牲者および米兵捕虜慰霊追悼

【東京大空襲76年】「東京大空襲を語り継ぐつどい」(東京大空襲・戦災資料センター開館19周年)